第89話 壊れゆく日常
昼前。
山は情報屋の小屋へ辿り着いていた。
情報屋は山の姿を見るなり、小さく笑う。
「来たか。昨日言った話の続きだ」
山は頷き、腰を下ろした。
「何か分かったのか」
情報屋は周囲へ一度だけ視線を走らせると、声を潜めた。
「ああ。塚原の後釜が決まったらしい」
「名は蝶嶺忌那っていう」
山は静かに耳を傾ける。
「どんな奴だ」
情報屋は腕を組み、少し考えるように息を吐いた。
「武勇でのし上がった将じゃねぇ。頭を使う方だな」
「敵を騙して、疑わせて、心を折る。そういう戦い方を得意にしてるらしい」
山は少し眉を寄せた。
「正面からぶつかるタイプじゃないのか」
「ああ。真正面から勝負するより、相手の中へ入り込んで崩す方を選ぶ」
情報屋は苦笑する。
「だから嫌な相手なんだよ」
山は黙って聞いていた。
情報屋は山の顔を見ると、呆れたように肩を竦めた。
「特にな、お前みたいな奴とは最悪の相性だ」
山は首を傾げる。
「俺?」
情報屋は鼻で笑った。
「お前、自分で気付いてねぇのか」
「困ってる奴がいたら放っとけねぇだろ」
山は苦笑する。
「……まぁな」
「そういう人間は利用される。だから気を付けろって話だ」
短いやり取りだった。
だが、その言葉だけは妙に胸へ引っ掛かった。
山は立ち上がる。
「ありがとう」
情報屋も軽く手を振った。
「まあ、嫌な予感しかしねぇ。用心だけはしとけ」
山は小さく頷き、小屋を後にした。
⸻
帰り道。
山はいつもより少しだけ歩く速度を上げていた。
理由は分からない。
何かが引っ掛かる。
蝶嶺忌那。
その名前を聞いてから、胸騒ぎだけが消えなかった。
(考えすぎならいい)
そう思いながらも、足は自然と速くなっていた。
⸻
その頃。
山隊砦。
昼の支度が進んでいた。
炊事場では湯気が立ち上る。
志乃はいない。
北の沢へ薬草を採りに出ていた。
玄もまだ戻らない。
裏山で鍛錬を続けている。
鉄が鼻をひくつかせた。
「おっ、飯か」
弥助が笑う。
「酒ばっか飲んでるから腹減るんだよ」
鉄は平然と頷いた。
「酒は別腹だからな」
弥助は呆れたように笑う。
「だから意味分かんねぇよ」
笑いが起きる。
迅も椀を受け取りながら笑った。
「このまま何も起きなきゃいいけどな」
矢倉の上から孫六が声を掛ける。
「俺の分、先に持ってきてくださいよー」
弥助が呆れたように笑う。
「横着すんな」
迅が苦笑する。
「見張り番なんだから仕方ねぇだろ。持ってってやれ」
しばらくして部下が椀を運ぶ。
孫六はそれを受け取ると、矢倉の上で食べ始めた。
「冷める前に食うっす」
鉄が笑う。
「食い終わったらちゃんと降りて来いよ」
「善処しまーす」
また笑いが広がるが、新八だけが笑えなかった。
皆の笑顔を見るたび、胸が締め付けられる。
⸻
昼食が配られる。
湯気の立つ味噌汁。
炊きたての飯。
皆が自然に箸を伸ばした。
「いただきます」
鉄は一口食べるなり笑う。
「うめぇ!」
弥助も頷く。
「今日は当たりだな」
迅が新八を見る。
「食わねぇのか?」
新八は慌てて顔を上げた。
「あ……」
「少し食欲がなくて」
迅は心配そうに眉を寄せる。
「体調悪いなら休んどけ」
「無理すんなよ」
新八は小さく頭を下げた。
「……はい」
誰も疑わない。
その優しさが、今は何より苦しかった。
⸻
しばらくして。
鉄が箸を止めた。
「……あ?」
額へ手を当てる。
「何だこれ」
「急に……」
立ち上がろうとして、ふらついた。
弥助が笑う。
「飲み過ぎだろ」
だが。
次の瞬間。
弥助自身も手をついた。
「……何だ」
「力が」
迅も顔をしかめる。
「おい……」
食べ終えた孫六が、椀を返そうと矢倉から降りて来る途中だった。
「……なんすか」
「これ」
皆の顔色が少しずつ青くなっていく。
まだ誰も気付かない。
毒だとは。
⸻
新八は震えていた。
(俺が)
(俺がやった)
喉が締まる。
今すぐ全部叫びたい。
謝りたい。
だが母の顔が浮かぶ。
赤い印の付いた地図。
蝶嶺忌那の笑顔。
何も言えなかった。
涙だけが頬を伝う。
⸻
山は砦へ向かって走っていた。
胸騒ぎは、もう確信へ変わりつつあった。
(急げ)
(嫌な予感しかしない)
自然と駆け足になる。
⸻
その頃。
砦の外。
森の奥。
静かに軍勢が並んでいた。
先頭には蝶嶺忌那。
その隣で、鬼庭盛綱が獰猛に笑う。
「ようやくだな」
蝶嶺は穏やかに微笑んだ。
「ええ、そろそろでしょう」
鬼庭は刀を肩へ担ぎ、砦を見据える。
「さぁ、狩りの時間だ」
その時。
砦の中では。
弥助がついに膝から崩れ落ちた。
(続く)
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