表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
戦えない俺は見捨てて生き残る——戦場の違和感から全てを操る転生戦国記  作者: 黒狐
第10章 喪失編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
89/120

第88話 裏切りの朝

夜明け前

新八はまだ井戸の前に立っていた。


月は傾き、東の空がわずかに白み始めている。


握り締めたままの小さな包み。


何度も井戸へ手を伸ばした。


だが、そのたびに止まる。


(出来ない……)


震える指先。


蝶嶺忌那の言葉が何度も頭の中で繰り返される。


――恩人を裏切るか。

――母親を失うか。


新八は目を閉じた。


山の顔が浮かぶ。

弥助。

鉄。

迅。

孫六。

志乃。

皆が笑っていた。


あの輪の中へ、自分も入れてもらえた。


生まれて初めて

「帰る場所」が出来た。


(なのに……)


包みを強く握り締める。


涙が一滴、水面へ落ちた。


結局

その夜、新八は何も出来なかった。



砦には、いつも通りの一日が始まっていた。


鉄は酒瓶を片手に欠伸をしている。


弥助は薪を割り、乾いた音を響かせる。


矢倉では孫六が眠そうな顔で周囲を眺めていた。

「異常なしっす」


「なら寝るな」

迅が呆れたように言う。

「努力はしてるんすけどねぇ」


そんなやり取りに、皆が笑った。


穏やかだった。

昨日と変わらない朝。


変わってしまったのは、新八だけだった。



志乃は薬箱を抱えながら棚を見つめていた。


乾燥させた薬草は、もう残り少ない。

「やっぱり足りないか……」


小さく呟く。


山が近付いた。

「どうした?」


「昨日も使ったし、この前の怪我人でも結構減っちゃってね」

志乃は苦笑する。

「北の沢まで行けば採れるから、ちょっと行ってくる」


山は少し考えた。

「一人で大丈夫か?」


「薬草を採るだけだよ」

「昼までには戻るから」


志乃は笑って薬箱を背負った。

「じゃ、行ってくるね」


迅が手を振る。

「気を付けろよ」


「分かってる」


そう言って志乃は砦を後にした。


新八はその背中を見送る。


(志乃さん……)


胸が痛んだ。



山も身支度を終える。


腰になまくら刀を差し、迅へ向き直った。

「悪い。俺も情報屋のところへ行ってくる」


迅は頷く。

「今日もっすか」


「ああ」


山は小さく笑う。

「昨日の話、少し気になるんだ」


「詳しいことが分かるかもしれない」


弥助が薪を担ぎながら口を開く。

「昼には戻るか?」


「そのつもりだ」


鉄は酒を飲みながら笑った。

「何も無きゃいいけどな」


山も苦笑する。

「それが一番だ」


いつものやり取り。


誰も疑わない。


誰も不安に思わない。


山は砦を出て行った。



その背中を。


新八だけが見つめていた。

(今なら……)


(今なら追い掛けて全部話せる)


足が動く。


一歩


踏み出しかける。


だが


脳裏に、あの地図が浮かぶ。


赤い印。


母が暮らす家。


そして蝶嶺の穏やかな笑み。


――あなたが選ばなければ、お母様が巻き込まれる。


新八の足が止まった。


山は何も知らず、振り返ることなく歩いていく。

「頭、行ってらっしゃい!」


迅の声が響く。


山は片手を上げて応えた。


その姿が、少しずつ小さくなっていく。


新八は唇を噛んだ。

(ごめんなさい……)


心の中で呟く。


だが、その言葉は誰にも届かなかった。


山の姿が森の向こうへ消えた。


新八は、その場から動けなかった。


足が重い。


胸が苦しい。

(まだ間に合う)


(今なら追い掛けられる)


(全部話せる)


頭では分かっている。


だが


蝶嶺忌那の声が耳から離れない。


――あなたが選ばなければ、お母様が巻き込まれる。


新八は目を閉じた。


小さな家。

幼い頃から暮らしてきた村。

畑仕事をしながら笑う母。


「新八」


「ちゃんと食べなさい」


「そんなに慌てなくても逃げないよ」


優しく笑ってくれた母の顔。


あの人には、もう自分しかいない。


新八は震える拳を握り締めた。



砦では、変わらぬ時間が流れていた。


弥助は薪を割り続ける。

「よし、こんなもんか」


鉄は相変わらず酒を飲んでいる。

「昼前の一杯もうめぇな」


迅が周囲を見回した。

「玄は?」


孫六が矢倉から答える。

「裏山で素振りっす。『昼までには戻る』って言ってましたよ」


「あいつは相変わらず真面目だな」


弥助が苦笑した。

「飯は戻ってからでいいだろ」


迅は外柵を見回りながら部下へ声を掛ける。

「杭が緩んでるぞ」

「あとで締め直せ」


「了解です!」


矢倉では孫六が欠伸を噛み殺した。

「平和っすねぇ……」


誰も知らない。


この穏やかな朝が。


終わろうとしていることを。



新八は炊事場へ足を向けた。


大きな水瓶。


朝早く井戸から汲み上げられた水が満たされている。


この水は昼になれば料理へ使われる。


味噌汁。

茶。

飲み水。

皆が口にする水だった。


新八は水瓶を見つめたまま立ち尽くす。


懐へ手を入れる。


包みを取り出す。


手が震える。


(やめろ)


(そんなことするな)


心のどこかで叫ぶ声がする。


その時だった。


「新八」


弥助の声だった。


新八は慌てて包みを隠す。

「は、はい!」


「昼飯までまだ時間あるぞ」


「休める時に休んどけ」


弥助は何も疑っていない。


ただ心配してくれているだけだった。


「ありがとうございます」


新八は笑顔を作る。


弥助も笑い返した。

「無理すんなよ」


そう言って去って行く。


新八の胸が締め付けられた。


(なんで……)


(なんで皆こんなに優しいんだ)



風が吹く。


井戸の水面が小さく揺れた。


新八は包みを見つめる。


(山さん)


(弥助さん)


(鉄さん)


(迅さん)


(孫六さん)


(志乃さん……)


皆の顔が浮かぶ。


涙が頬を伝った。


「ごめんなさい……」


小さな声だった。


誰にも聞こえない。


「本当に……ごめんなさい……」


震える手で包みを開く。


白い粉が姿を現した。


新八は歯を食いしばる。


そして。


目を閉じたまま。


包みを傾けた。


さらり……


震える手で包みを開く。


白い粉が姿を現した。


新八は歯を食いしばる。


そして。


目を閉じたまま。


炊事場の水瓶の蓋を開けた。


さらり……


白い粉が音もなく水へ溶けていく。


あと数刻もすれば。


この水で昼食が作られる。


皆が笑いながら食べる。


その光景が頭に浮かぶ。


新八はその場へ崩れ落ちた。


「……うっ……」


嗚咽が漏れる。


涙が止まらない。


自分で選んだ。


そう思おうとしても。


心は悲鳴を上げ続けていた。


遠くから鉄の笑い声が聞こえる。


弥助が何か返して笑っている。


いつもの山隊。


いつもの日常。


その笑い声が。


今の新八には何より辛かった。


「ごめんなさい……」


もう一度だけ呟く。


誰にも届かない謝罪だけが、静かな炊事場へ消えていった。


(続く)

読んでいただきありがとうございます。

面白いと思っていただけたら、ブックマークや評価で応援してもらえると嬉しいです。

続きも毎日更新していきます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ