↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
戦えない俺は見捨てて生き残る——戦場の違和感だけで成り上がる転生戦国記  作者: 黒狐
第10章 喪失編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
89/174

第88話 裏切りの朝

夜明け前

新八はまだ井戸の前に立っていた。


月は傾き、東の空がわずかに白み始めている。


握り締めたままの小さな包み。


何度も井戸へ手を伸ばした。


だが、そのたびに止まる。


(出来ない……)


震える指先。


蝶嶺忌那の言葉が何度も頭の中で繰り返される。


――恩人を裏切るか。

――母親を失うか。


新八は目を閉じた。


山の顔が浮かぶ。

弥助。

鉄。

迅。

孫六。

志乃。

皆が笑っていた。


あの輪の中へ、自分も入れてもらえた。


生まれて初めて

「帰る場所」が出来た。


(なのに……)


包みを強く握り締める。


涙が一滴、水面へ落ちた。


結局

その夜、新八は何も出来なかった。


⸻


朝

砦には、いつも通りの一日が始まっていた。


鉄は酒瓶を片手に欠伸をしている。


弥助は薪を割り、乾いた音を響かせる。


矢倉では孫六が眠そうな顔で周囲を眺めていた。

「異常なしっす」


「なら寝るな」

迅が呆れたように言う。

「努力はしてるんすけどねぇ」


そんなやり取りに、皆が笑った。


穏やかだった。

昨日と変わらない朝。


変わってしまったのは、新八だけだった。


⸻


志乃は薬箱を抱えながら棚を見つめていた。


乾燥させた薬草は、もう残り少ない。

「やっぱり足りないか……」


小さく呟く。


山が近付いた。

「どうした?」


「昨日も使ったし、この前の怪我人でも結構減っちゃってね」

志乃は苦笑する。

「北の沢まで行けば採れるから、ちょっと行ってくる」


山は少し考えた。

「一人で大丈夫か?」


「薬草を採るだけだよ」

「昼までには戻るから」


志乃は笑って薬箱を背負った。

「じゃ、行ってくるね」


迅が手を振る。

「気を付けろよ」


「分かってる」


そう言って志乃は砦を後にした。


新八はその背中を見送る。


(志乃さん……)


胸が痛んだ。


⸻


山も身支度を終える。


腰になまくら刀を差し、迅へ向き直った。

「悪い。俺も情報屋のところへ行ってくる」


迅は頷く。

「今日もっすか」


「ああ」


山は小さく笑う。

「昨日の話、少し気になるんだ」


「詳しいことが分かるかもしれない」


弥助が薪を担ぎながら口を開く。

「昼には戻るか?」


「そのつもりだ」


鉄は酒を飲みながら笑った。

「何も無きゃいいけどな」


山も苦笑する。

「それが一番だ」


いつものやり取り。


誰も疑わない。


誰も不安に思わない。


山は砦を出て行った。


⸻


その背中を。


新八だけが見つめていた。

(今なら……)


(今なら追い掛けて全部話せる)


足が動く。


一歩


踏み出しかける。


だが


脳裏に、あの地図が浮かぶ。


赤い印。


母が暮らす家。


そして蝶嶺の穏やかな笑み。


――あなたが選ばなければ、お母様が巻き込まれる。


新八の足が止まった。


山は何も知らず、振り返ることなく歩いていく。

「頭、行ってらっしゃい!」


迅の声が響く。


山は片手を上げて応えた。


その姿が、少しずつ小さくなっていく。


新八は唇を噛んだ。

(ごめんなさい……)


心の中で呟く。


だが、その言葉は誰にも届かなかった。


山の姿が森の向こうへ消えた。


新八は、その場から動けなかった。


足が重い。


胸が苦しい。

(まだ間に合う)


(今なら追い掛けられる)


(全部話せる)


頭では分かっている。


だが


蝶嶺忌那の声が耳から離れない。


――あなたが選ばなければ、お母様が巻き込まれる。


新八は目を閉じた。


小さな家。

幼い頃から暮らしてきた村。

畑仕事をしながら笑う母。


「新八」


「ちゃんと食べなさい」


「そんなに慌てなくても逃げないよ」


優しく笑ってくれた母の顔。


あの人には、もう自分しかいない。


新八は震える拳を握り締めた。


⸻


砦では、変わらぬ時間が流れていた。


弥助は薪を割り続ける。

「よし、こんなもんか」


鉄は相変わらず酒を飲んでいる。

「昼前の一杯もうめぇな」


迅が周囲を見回した。

「玄は?」


孫六が矢倉から答える。

「裏山で素振りっす。『昼までには戻る』って言ってましたよ」


「あいつは相変わらず真面目だな」


弥助が苦笑した。

「飯は戻ってからでいいだろ」


迅は外柵を見回りながら部下へ声を掛ける。

「杭が緩んでるぞ」

「あとで締め直せ」


「了解です!」


矢倉では孫六が欠伸を噛み殺した。

「平和っすねぇ……」


誰も知らない。


この穏やかな朝が。


終わろうとしていることを。


⸻


新八は炊事場へ足を向けた。


大きな水瓶。


朝早く井戸から汲み上げられた水が満たされている。


この水は昼になれば料理へ使われる。


味噌汁。

茶。

飲み水。

皆が口にする水だった。


新八は水瓶を見つめたまま立ち尽くす。


懐へ手を入れる。


包みを取り出す。


手が震える。


(やめろ)


(そんなことするな)


心のどこかで叫ぶ声がする。


その時だった。


「新八」


弥助の声だった。


新八は慌てて包みを隠す。

「は、はい!」


「昼飯までまだ時間あるぞ」


「休める時に休んどけ」


弥助は何も疑っていない。


ただ心配してくれているだけだった。


「ありがとうございます」


新八は笑顔を作る。


弥助も笑い返した。

「無理すんなよ」


そう言って去って行く。


新八の胸が締め付けられた。


(なんで……)


(なんで皆こんなに優しいんだ)


⸻


風が吹く。


井戸の水面が小さく揺れた。


新八は包みを見つめる。


(山さん)


(弥助さん)


(鉄さん)


(迅さん)


(孫六さん)


(志乃さん……)


皆の顔が浮かぶ。


涙が頬を伝った。


「ごめんなさい……」


小さな声だった。


誰にも聞こえない。


「本当に……ごめんなさい……」


震える手で包みを開く。


白い粉が姿を現した。


新八は歯を食いしばる。


そして。


目を閉じたまま。


包みを傾けた。


さらり……


震える手で包みを開く。


白い粉が姿を現した。


新八は歯を食いしばる。


そして。


目を閉じたまま。


炊事場の水瓶の蓋を開けた。


さらり……


白い粉が音もなく水へ溶けていく。


あと数刻もすれば。


この水で昼食が作られる。


皆が笑いながら食べる。


その光景が頭に浮かぶ。


新八はその場へ崩れ落ちた。


「……うっ……」


嗚咽が漏れる。


涙が止まらない。


自分で選んだ。


そう思おうとしても。


心は悲鳴を上げ続けていた。


遠くから鉄の笑い声が聞こえる。


弥助が何か返して笑っている。


いつもの山隊。


いつもの日常。


その笑い声が。


今の新八には何より辛かった。


「ごめんなさい……」


もう一度だけ呟く。


誰にも届かない謝罪だけが、静かな炊事場へ消えていった。


(続く)

読んでいただきありがとうございます。

面白いと思っていただけたら、ブックマークや評価で応援してもらえると嬉しいです。

続きも毎日更新していきます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。