第88話 裏切りの朝
夜明け前
新八はまだ井戸の前に立っていた。
月は傾き、東の空がわずかに白み始めている。
握り締めたままの小さな包み。
何度も井戸へ手を伸ばした。
だが、そのたびに止まる。
(出来ない……)
震える指先。
蝶嶺忌那の言葉が何度も頭の中で繰り返される。
――恩人を裏切るか。
――母親を失うか。
新八は目を閉じた。
山の顔が浮かぶ。
弥助。
鉄。
迅。
孫六。
志乃。
皆が笑っていた。
あの輪の中へ、自分も入れてもらえた。
生まれて初めて
「帰る場所」が出来た。
(なのに……)
包みを強く握り締める。
涙が一滴、水面へ落ちた。
結局
その夜、新八は何も出来なかった。
⸻
朝
砦には、いつも通りの一日が始まっていた。
鉄は酒瓶を片手に欠伸をしている。
弥助は薪を割り、乾いた音を響かせる。
矢倉では孫六が眠そうな顔で周囲を眺めていた。
「異常なしっす」
「なら寝るな」
迅が呆れたように言う。
「努力はしてるんすけどねぇ」
そんなやり取りに、皆が笑った。
穏やかだった。
昨日と変わらない朝。
変わってしまったのは、新八だけだった。
⸻
志乃は薬箱を抱えながら棚を見つめていた。
乾燥させた薬草は、もう残り少ない。
「やっぱり足りないか……」
小さく呟く。
山が近付いた。
「どうした?」
「昨日も使ったし、この前の怪我人でも結構減っちゃってね」
志乃は苦笑する。
「北の沢まで行けば採れるから、ちょっと行ってくる」
山は少し考えた。
「一人で大丈夫か?」
「薬草を採るだけだよ」
「昼までには戻るから」
志乃は笑って薬箱を背負った。
「じゃ、行ってくるね」
迅が手を振る。
「気を付けろよ」
「分かってる」
そう言って志乃は砦を後にした。
新八はその背中を見送る。
(志乃さん……)
胸が痛んだ。
⸻
山も身支度を終える。
腰になまくら刀を差し、迅へ向き直った。
「悪い。俺も情報屋のところへ行ってくる」
迅は頷く。
「今日もっすか」
「ああ」
山は小さく笑う。
「昨日の話、少し気になるんだ」
「詳しいことが分かるかもしれない」
弥助が薪を担ぎながら口を開く。
「昼には戻るか?」
「そのつもりだ」
鉄は酒を飲みながら笑った。
「何も無きゃいいけどな」
山も苦笑する。
「それが一番だ」
いつものやり取り。
誰も疑わない。
誰も不安に思わない。
山は砦を出て行った。
⸻
その背中を。
新八だけが見つめていた。
(今なら……)
(今なら追い掛けて全部話せる)
足が動く。
一歩
踏み出しかける。
だが
脳裏に、あの地図が浮かぶ。
赤い印。
母が暮らす家。
そして蝶嶺の穏やかな笑み。
――あなたが選ばなければ、お母様が巻き込まれる。
新八の足が止まった。
山は何も知らず、振り返ることなく歩いていく。
「頭、行ってらっしゃい!」
迅の声が響く。
山は片手を上げて応えた。
その姿が、少しずつ小さくなっていく。
新八は唇を噛んだ。
(ごめんなさい……)
心の中で呟く。
だが、その言葉は誰にも届かなかった。
山の姿が森の向こうへ消えた。
新八は、その場から動けなかった。
足が重い。
胸が苦しい。
(まだ間に合う)
(今なら追い掛けられる)
(全部話せる)
頭では分かっている。
だが
蝶嶺忌那の声が耳から離れない。
――あなたが選ばなければ、お母様が巻き込まれる。
新八は目を閉じた。
小さな家。
幼い頃から暮らしてきた村。
畑仕事をしながら笑う母。
「新八」
「ちゃんと食べなさい」
「そんなに慌てなくても逃げないよ」
優しく笑ってくれた母の顔。
あの人には、もう自分しかいない。
新八は震える拳を握り締めた。
⸻
砦では、変わらぬ時間が流れていた。
弥助は薪を割り続ける。
「よし、こんなもんか」
鉄は相変わらず酒を飲んでいる。
「昼前の一杯もうめぇな」
迅が周囲を見回した。
「玄は?」
孫六が矢倉から答える。
「裏山で素振りっす。『昼までには戻る』って言ってましたよ」
「あいつは相変わらず真面目だな」
弥助が苦笑した。
「飯は戻ってからでいいだろ」
迅は外柵を見回りながら部下へ声を掛ける。
「杭が緩んでるぞ」
「あとで締め直せ」
「了解です!」
矢倉では孫六が欠伸を噛み殺した。
「平和っすねぇ……」
誰も知らない。
この穏やかな朝が。
終わろうとしていることを。
⸻
新八は炊事場へ足を向けた。
大きな水瓶。
朝早く井戸から汲み上げられた水が満たされている。
この水は昼になれば料理へ使われる。
味噌汁。
茶。
飲み水。
皆が口にする水だった。
新八は水瓶を見つめたまま立ち尽くす。
懐へ手を入れる。
包みを取り出す。
手が震える。
(やめろ)
(そんなことするな)
心のどこかで叫ぶ声がする。
その時だった。
「新八」
弥助の声だった。
新八は慌てて包みを隠す。
「は、はい!」
「昼飯までまだ時間あるぞ」
「休める時に休んどけ」
弥助は何も疑っていない。
ただ心配してくれているだけだった。
「ありがとうございます」
新八は笑顔を作る。
弥助も笑い返した。
「無理すんなよ」
そう言って去って行く。
新八の胸が締め付けられた。
(なんで……)
(なんで皆こんなに優しいんだ)
⸻
風が吹く。
井戸の水面が小さく揺れた。
新八は包みを見つめる。
(山さん)
(弥助さん)
(鉄さん)
(迅さん)
(孫六さん)
(志乃さん……)
皆の顔が浮かぶ。
涙が頬を伝った。
「ごめんなさい……」
小さな声だった。
誰にも聞こえない。
「本当に……ごめんなさい……」
震える手で包みを開く。
白い粉が姿を現した。
新八は歯を食いしばる。
そして。
目を閉じたまま。
包みを傾けた。
さらり……
震える手で包みを開く。
白い粉が姿を現した。
新八は歯を食いしばる。
そして。
目を閉じたまま。
炊事場の水瓶の蓋を開けた。
さらり……
白い粉が音もなく水へ溶けていく。
あと数刻もすれば。
この水で昼食が作られる。
皆が笑いながら食べる。
その光景が頭に浮かぶ。
新八はその場へ崩れ落ちた。
「……うっ……」
嗚咽が漏れる。
涙が止まらない。
自分で選んだ。
そう思おうとしても。
心は悲鳴を上げ続けていた。
遠くから鉄の笑い声が聞こえる。
弥助が何か返して笑っている。
いつもの山隊。
いつもの日常。
その笑い声が。
今の新八には何より辛かった。
「ごめんなさい……」
もう一度だけ呟く。
誰にも届かない謝罪だけが、静かな炊事場へ消えていった。
(続く)
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