第87話 静かな一日
朝。
山隊砦は穏やかな空気に包まれていた。
完成した水堀には静かに水が流れ、見張りの兵が矢倉から周囲を見渡している。
山は身支度を整えながら迅へ声を掛けた。
「悪い。ちょっと情報屋のところへ行ってくる」
迅は軽く頷く。
「了解す。こっちは任せてください」
弥助が薪を肩へ担ぎながら笑った。
「今日も何も起きなきゃいいけどな」
山も苦笑する。
「それが一番だ」
そう言い残し、山は街へ向かった。
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砦では、それぞれがいつもの仕事を始めていた。
弥助は斧を振り下ろし、黙々と薪を割っている。
乾いた音が、朝の砦へ心地良く響いた。
少し離れた場所では、鉄が酒瓶を片手に大きく息を吐く。
「くぅ〜、朝の一杯はうめぇな」
志乃は呆れたように振り返った。
「あんたはもう少し働きなさいよ」
鉄は胸を張る。
「ちゃんと働いてるぞ。休憩が多いだけだ」
弥助が思わず吹き出した。
「それを世間じゃサボりって言うんだよ」
「細けぇこと気にすんな!」
鉄が豪快に笑うと、周囲にも笑いが広がった。
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矢倉では、孫六が弓を抱えたまま欠伸をしていた。
下から迅が声を掛ける。
「異常は?」
孫六は一度だけ周囲を見回し、気だるそうに手を振る。
「何もいないっす」
「平和ですねぇ」
「寝るなよ」
「努力します」
そう返した直後には、もう眠そうな顔になっていた。
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新八は井戸で水を汲んでいた。
桶へ水を満たし、それを炊事場まで運ぶ。
「新八、その桶こっちお願い」
志乃に呼ばれ、新八はすぐ返事をした。
「はい!」
桶を受け渡す。
鉄がその様子を見て笑う。
「おぉ、よく働くじゃねぇか」
「ありがとうございます」
自然に笑って答える。
その姿を見た弥助が小さく頷いた。
「最初の頃より、ずいぶん砦に馴染んだな」
新八は照れくさそうに笑った。
「皆さんが良くしてくれるからです」
穏やかな空気。
笑い声。
誰もがいつも通りだった。
だが。
新八だけは違った。
桶を持ち直した拍子に、懐へ触れる。
布越しに伝わる、小さな包み。
蝶嶺から渡された毒。
その感触だけで胸が締め付けられる。
(どうすればいい……)
誰にも気付かれないよう、そっと手を離した。
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その頃。
山は街道沿いの茶屋で情報屋と向かい合っていた。
情報屋は湯飲みを置き、小さく息を吐く。
「白蓮はまだ揉めてるらしい」
「宗明様が亡くなってから、城の出入りもずいぶん厳しくなったそうだ」
山は静かに耳を傾ける。
「それに雷姫の姿も見ねぇって話だ」
山の表情が少しだけ曇る。
「……雷姫が」
情報屋は肩を竦めた。
「詳しいことはまだ分からねぇ。噂程度だ」
「だが、城の中で何か起きてるのは間違いねぇだろうな」
少し間を置いて続ける。
「あと蒼鷹も少し動きがあった」
「この前討死した塚原茂光の後任が決まったらしい」
山は顔を上げる。
「後任か」
「ああ。ただ、まだ詳しいことまでは掴めてねぇ」
「名前も経歴も分からん」
「明日にはもう少し詳しい話が入ると思う」
情報屋は山を見る。
「悪いが、明日もう一回来てくれ」
山は静かに頷いた。
「分かった」
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夕方。
山が砦へ戻ると、皆はいつも通り迎えてくれた。
「おかえり、頭」
迅が手を挙げる。
「何かありました?」
「大した話じゃない」
山は荷物を下ろしながら答えた。
「白蓮も蒼鷹も少し動きがあるみたいだ」
「詳しいことはまだ分からない」
「明日、もう一度情報屋のところへ行ってくる」
弥助が頷く。
「了解」
鉄は酒を飲み干しながら笑う。
「じゃあ今日は飯だ飯!」
「まだ飲む気か」
「飯にも酒は要るだろ」
「要らないわよ」
志乃が呆れると、また笑いが起きた。
いつもの山隊。
誰も疑わない。
誰も気付かない。
その輪の中で。
新八だけが笑えなかった。
皆の声が遠く聞こえる。
懐の毒が、まるで石のように重かった。
夜。
皆が休み始めた頃。
新八は一人、井戸の前へ立っていた。
静かな水面が月を映している。
新八はゆっくり懐へ手を入れた。
包みを握る。
震える。
その手は。
どうしても井戸の上へ伸ばすことが出来なかった。
(続く)
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