第86話 選択
朝。
山隊砦は穏やかな空気に包まれていた。
完成した水堀には静かに水が流れ、見張りの兵が矢倉から周囲を見渡している。
志乃は薬草を仕分けながら、新八を振り返った。
「この薬草、昨日のでほとんど使っちゃったんだ。悪いけど、また採ってきてもらえる?」
新八は迷わず頷く。
「はい。任せて下さい」
「無理しなくていいからね。まだ傷も治りきってないんだから」
「大丈夫です。すぐ戻ります」
薬草の見本を受け取ると、新八は山へ軽く頭を下げ、砦を後にした。
その背中を見送りながら、山が小さく笑う。
「もう一人でも動けるようになったな」
弥助も頷いた。
「最初の頃とは顔つきが全然違う」
鉄は腕を組みながら笑う。
「そのうち俺より働くようになるんじゃねぇか?」
「それは流石にないでしょ」
志乃が呆れたように返すと、小さな笑いが広がった。
穏やかな朝だった。
誰も、この一日が山隊を大きく揺るがす始まりになるとは思っていない。
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森。
新八は志乃から渡された見本を見比べながら、薬草を探して歩いていた。
(少しでも役に立ちたい)
助けられてばかりでは終わりたくない。
山たちに恩を返したい。
その思いだけで足を進めていた。
その時だった。
「……誰か……」
か細い女の声が風に乗って聞こえてきた。
新八は思わず足を止める。
少し離れた木陰に、一人の若い女が倒れていた。
着物は土で汚れ、苦しそうに身体を起こそうとしている。
「お願い……助けて……」
弱々しいその声に、新八の心臓が大きく鳴った。
(どうする)
身体が動かない。
もし賊だったら。
もし罠だったら。
頭ではそう考えてしまう。
だが、女がゆっくりと顔を上げ、新八と目が合った。
「お願い……」
その一言で、山の姿が脳裏に浮かぶ。
誰かに助けを求められた時、あの人は迷わなかった。
(俺も……)
(山さんみたいになりたい)
震える足を一歩踏み出す。
「だ、大丈夫ですか」
恐る恐る手を差し伸べた。
その瞬間だった。
「……合格ね」
女は何事もなかったように立ち上がると、着物についた土を軽く払い、小さく微笑んだ。
新八は固まる。
次の瞬間。
ガサッ!!
周囲の茂みから蒼鷹兵が一斉に姿を現した。
刀が新八へ向けられる。
「動くな」
逃げる間もない。
あっという間に取り囲まれた。
新八が震える中、兵たちは女へ向かって一斉に頭を下げる。
「蝶嶺様」
その光景を見た瞬間、新八の顔から血の気が引いた。
女は穏やかな笑みを浮かべたまま、新八へ視線を向ける。
「申し遅れました。蒼鷹軍副将、蝶嶺忌那です。つい先日、塚原殿の後任を拝命しました」
小さく笑う。
「もっとも……前任の塚原殿ほど甘くはありませんので、そのつもりで」
新八は何も言えなかった。
助けを求めていた女。
そう思っていた相手が、敵の副将だった。
蝶嶺は兵たちへ軽く目を向ける。
「ありがとう。後は私が話しますので、下がっていてください」
兵たちは静かに一礼し、その場を離れた。
辺りは再び静けさを取り戻す。
蝶嶺は新八の前へゆっくり歩み寄ると、穏やかな口調のまま尋ねた。
「山隊に助けられたそうですね」
新八は唇を噛んだまま何も答えない。
蝶嶺は気にした様子もなく微笑む。
「良い方々です。だからこそ……利用しやすい」
その一言だけで、新八の背筋を冷たいものが走った。
そして、蝶嶺は懐から小さな包みを取り出した。
白い粉だった。
「これを砦へ持ち帰ってください」
新八は包みと蝶嶺を交互に見た。
「……何ですか、それは」
「毒です」
あまりにも穏やかな口調だった。
まるで薬の説明でもするように、蝶嶺は続ける。
「井戸でも、水堀でも、食料でも構いません。少量で十分です」
「入れるだけで終わりますよ」
新八は勢いよく首を横へ振った。
「出来ません!」
「そんなこと……出来るわけないじゃないですか!」
蝶嶺は怒るどころか、小さく微笑んだ。
「そうでしょうね」
「だから、あなたを選んだのです」
新八は何も言えず俯く。
長い沈黙が流れた。
やがて、小さく震える声が漏れる。
「……分かりました」
「やります」
蝶嶺は満足そうに微笑んだ。
「ありがとうございます」
だが、新八の胸の内では別の考えが渦巻いていた。
(砦へ戻ったら全部話そう)
(山さんなら、きっと何とかしてくれる)
(そうすれば……)
その時だった。
蝶嶺がくすりと笑う。
「受け取るだけ受け取って、砦へ戻ったら山隊へ全て話そう……そうお考えですね?」
新八の身体が硬直した。
図星だった。
蝶嶺は懐から一枚の紙を取り出し、静かに地面へ広げる。
そこには小さな村の地図が描かれていた。
一軒だけ赤い印が付いている。
「……っ!」
新八の表情が変わる。
蝶嶺はその印へ指を添えた。
「あなた……最近山隊へ出入りしている新八という方ですね。蒼鷹領外れの村で育ち、お母様が今も一人で暮らしておられる」
新八の顔から血の気が引いていく。
「な……なんで……」
蝶嶺は静かに微笑んだ。
「調べるのが私の仕事ですから。安心してください、まだ手は出しておりません」
少しだけ間を置く。
「ですが、山隊へ全てを話した頃には……どうなっているでしょうね」
その一言だけで、新八の身体が震え始めた。
「や……やめてください」
「母は……関係ありません」
蝶嶺は首を傾げる。
「本当にそうでしょうか」
「あなたが選ばなければ、お母様が巻き込まれる。あなたが選べば、お母様は何も知らず平穏に暮らせる――私は選択肢を差し上げているだけですよ」
新八は歯を食いしばる。
「そんなの……そんなの選べるわけ……」
蝶嶺は包みを新八の掌へそっと乗せた。
「選びなさい」
「恩人を裏切るか、それとも母親を失うか」
「どちらも辛いでしょう。ですが、人は皆、何かを守るために別の何かを捨てながら生きています」
新八の目から涙が溢れた。
震える手で包みを握り締める。
母を守るか。
恩人を守るか。
どちらを選んでも、自分はもう元には戻れない。
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その頃。
白蓮城。
一人の兵が深々と頭を下げていた。
「申し訳ございません! 雷姫を取り逃がしました!」
六道幻庵は静かに目を閉じる。
「……そうですか」
兵は恐る恐る続けた。
「ですが、副将・榊原景親は討ち取りました。こちらにも少なからず損害は出ましたが……」
しばらく沈黙が流れる。
やがて六道は小さく頷いた。
「ご苦労でした」
予想外の返事に兵は顔を上げる。
六道は窓の外へ目を向けたまま、小さく笑みを浮かべる。
「少し気になることがありましてね」
独り言のような声だった。
「私の読み違いであれば、それで結構」
「ですが……確かめる価値はありそうですね」
そこで言葉を切る。
六道は静かに立ち上がった。
「少し、外へ出て参ります」
兵は事情も分からぬまま頭を下げる。
「はっ!」
六道は静かに部屋を後にした。
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新八は包みを強く握り締めた。
涙だけが止まらない。
自分はこれから。
何を失うのだろう。
(続く)




