第85話 託された道
夜の森を、二つの影が駆け抜けていた。
燃え盛る白蓮城は、すでに遠く背後にある。
それでも、赤く染まる夜空だけは、どこまでも二人を追い掛けてきた。
雷姫は何度も振り返る。
「……皆は」
その一言に、榊原景親は前だけを見据えたまま静かに答えた。
「今は振り返る時ではございません。雷姫様が生き延びることこそ、皆の願いなのです」
雷姫は唇を噛み、再び前を向く。
走るしかない。
生き延びるしかない。
そう頭では分かっていても、城へ残してきた者たちの顔が脳裏を離れなかった。
⸻
どれほど走っただろうか。
森へ入って間もなく、榊原が足を止めた。
「……来ます」
耳を澄ませる。
静かな森の奥から、木々を踏み分ける音が近付いてくる。
一つや二つではない。
雷姫も刀へ手を掛けた。
「追手か」
「はい」
榊原は頷く。
次の瞬間、闇の中から兵たちが姿を現した。
「いたぞ! 雷姫を逃がすな!」
六道幻庵が差し向けた兵たちだった。
榊原は静かに雷姫の前へ出る。
「雷姫様、ここは私が引き受けます」
雷姫はすぐに首を振った。
「何を言う。景親を置いてなど行けるものか」
榊原は困ったように笑う。
「だからあなたは真っ直ぐ過ぎるのです」
その笑顔が、宗明と重なった。
雷姫は思わず言葉を失う。
榊原は刀を抜き、静かに構えた。
「副将・榊原景親としてではなく、宗明様よりあなたを託された一人の男として申し上げます。
どうか生きてください。
そして白蓮を取り戻してください」
雷姫は拳を強く握る。
「景親……」
「あなたが立ち止まれば、私の死は無駄になります」
兵たちが一斉に駆け出した。
榊原は雷姫へ背を向けたまま叫ぶ。
「どうか、お進みください!」
その声だけで十分だった。
雷姫は静かに目を閉じ、小さく頷く。
「……必ず戻る。白蓮を取り戻し、お前を迎えに来る」
榊原は笑った。
「そのお言葉だけで十分です」
雷姫は踵を返す。
もう振り返らない。
振り返れば、足が止まる。
それだけは許されなかった。
背後から激しい金属音が響く。
「ガキィン!」
怒号。
悲鳴。
そして――
「雷姫様ァァァ!!」
榊原の叫びだけが、夜の森へ長く響いた。
その後、戦う音は少しずつ遠ざかり、やがて静寂だけが残った。
⸻
夜が明ける頃。
雷姫はようやく足を止めた。
追手の気配は、もう無い。
静かな森だった。
ゆっくりと振り返る。
そこには誰もいない。
「……景親」
返事は無かった。
雷姫は拳を強く握る。
爪が掌へ食い込むほど力を込める。
それでも涙は流さない。
流してはいけないと思った。
景親は命と引き換えに、自分を生かした。
立ち止まれば、あの男の覚悟を裏切ることになる。
雷姫は静かに息を吸った。
「必ず……白蓮を取り戻す」
その言葉だけを胸に、再び歩き始めた。
⸻
昼過ぎ。
街道を避けながら山道を進んでいると、前方から一人の男が歩いて来る。
男も雷姫へ気付き、足を止めた。
「……雷姫殿?」
雷姫も目を見開く。
「義信?」
互いに歩み寄る。
義信は雷姫の姿を見るなり表情を曇らせた。
「そのお姿は……」
雷姫は昨夜の出来事を静かに語った。
六道たちが自分までも始末しようとしていたこと。
榊原が密談を聞き、命懸けで城から逃がしてくれたこと。
そして今、その榊原が追手を引き受けていること――。
話し終える頃には、義信は静かに目を閉じていた。
「そうでしたか……」
しばらく沈黙が流れる。
やがて義信は思い出したように顔を上げた。
「そうだ。山殿から伝言を預かっています」
雷姫は少し驚く。
「山が?」
義信は穏やかに笑った。
「雷姫殿によろしく、と」
その一言に、雷姫の口元がほんの少しだけ緩む。
「……そうか」
短い言葉だった。
だが、その表情は榊原を失ってから初めて見せる穏やかなものだった。
義信はそのまま地面へしゃがみ込み、小枝で簡単な地図を描く。
「山殿の砦はここです。この沢沿いを北へ進めば深い森へ入ります。
外からは見えませんが、そのまま奥へ進めば見張りがいます」
雷姫は地図へ目を落とした。
「義信はどうする」
「私は南へ向かいます。羌族の協力を得て、白蓮を取り戻すために動きます」
雷姫は静かに頷いた。
「私は山殿を頼る。あの者なら……きっと力を貸してくれる」
義信も穏やかに笑った。
「それが良いでしょう。山殿なら、きっと雷姫殿を見捨てたりはなさいません」
二人は静かに顔を見合わせる。
「互いに、生きてまた会おう」
「はい」
深く一礼を交わし、それぞれ歩き出す。
義信は南へ。
雷姫は山隊砦へ。
互いに託された道を、一歩ずつ進み始めるのだった。
(続く)
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