第83話 旅立ち
朝。
砦には、いつもと変わらぬ朝が訪れていた。
見張りが交代し、炊き出しの湯気が立ち上る。
そんな穏やかな朝の中、一人だけ旅支度を終えた男がいた。
義信だった。
荷を背負い、防人御太刀を腰へ差す。
山はその姿を見ると、小さく笑った。
「決心は変わらなかったみたいだな」
義信は静かに頷く。
「はい。ここで過ごした時間は私にとって何ものにも代え難いものでした。でも、このまま甘えている訳にはいきません」
山は静かに頷いた。
「そうか。それなら気を付けて行け」
それだけだった。
引き止めることもしない。
その一言が、山らしかった。
⸻
やがて皆も集まって来る。
鉄が豪快に笑った。
「今度会う時は、もっと強くなって帰って来いよ!」
義信も笑う。
「その時は、また手合わせをお願いします」
「おう!」
鉄は満足そうに頷いた。
弥助が肩を竦める。
「死ぬなよ。生きてりゃ何とかなる」
「はい」
迅も笑った。
「困ったらまた来いよ。頭ならまた自分を危ない目に遭わせてでも助けようとするだろうし」
山が呆れたように笑う。
「……おい」
鉄も吹き出した。
「それが山だからな」
皆が笑う。
義信も思わず笑みを浮かべた。
玄は静かに義信の前へ立った。
「生きろ」
「それだけだ」
短い言葉。
だが、その一言には玄らしい重みがあった。
義信は深く頷く。
「はい」
志乃は小さな包みを差し出す。
「薬草よ。旅先で役に立つかもしれないから持って行きな」
「ありがとうございます」
義信は両手で受け取った。
最後に、矢倉の上から孫六が面倒そうに手を振る。
「死なないでくださいよ。次に会う時、面倒が増えるのは勘弁なんで」
鉄が笑う。
「お前、それ心配してるんだよな?」
「違います」
即答だった。
「死なれると後味悪いだけっす」
その言葉に、砦中が笑いに包まれる。
⸻
義信は深く頭を下げた。
「皆様、本当にありがとうございました」
そして歩き出す。
砦から少し離れたところで足を止め、ゆっくりと振り返った。
「山殿」
山が歩み寄る。
「どうした」
義信は真っ直ぐ山を見る。
「今まで名乗っておりませんでした」
静かに一礼する。
「私は白蓮四天王、相良義隆の嫡男――相良義信と申します」
静かな風が吹いた。
鉄が目を丸くする。
「はぁ!?」
弥助も驚いたように義信を見る。
「お前、そんな立場だったのかよ」
迅も目を見開いた。
「言われてみれば育ちは良さそうだったけど……まさか四天王の息子とはな」
少しだけ沈黙が流れる。
そして鉄が腹を抱えて笑った。
「まぁいいか!」
「義信は義信だ!」
弥助も笑う。
「今さら態度なんか変わんねぇよ」
迅も頷いた。
「そういうことだ」
義信は目を丸くした。
身分を知れば距離を置かれる
そう思っていた。
だが
誰一人として態度を変えない。
そのことが、何より嬉しかった。
義信は小さく笑う。
「こうして改めて名乗ることができて、少し肩の荷が下りました」
山も穏やかに笑う。
「それなら良かった」
義信は静かに頷く。
「ですが、今度は私の方がお聞きしたいことがあります」
少し間を置いて山を見る。
「山殿。その名は存じております」
「ですが……黒曜では別の名で呼ばれていたと聞きました」
山は少し困ったように笑う。
「まぁ、一応な」
「山狐って呼ばれてた」
その瞬間。
義信の動きが止まった。
「……山狐?」
頭の中で今まで聞いてきた話が、一つに繋がる。
黒布を纏い。
少数で蒼鷹軍を翻弄し。
雷姫を退かせた男。
その”山狐”が、目の前の山だった。
「まさか……」
「あなたが、あの山狐だったのですか」
山は照れ臭そうに笑う。
「そんな大したもんじゃないよ」
義信は思わず苦笑した。
「本当に……不思議なお方ですね」
山も笑う。
「よく言われる」
少しだけ沈黙が流れた。
やがて山が思い出したように口を開く。
「そうだ。もし雷姫に会うことがあったら、よろしく伝えといてくれ」
義信は穏やかに頷いた。
「承知しました。お会いする機会があれば、必ずお伝えします」
雷姫が今どういう状況にあるのか
義信はまだ知らない。
山もまた、何も知らなかった。
義信は深く一礼する。
「必ずまた、お会いしましょう」
山も頷いた。
「ああ。その時まで、生きてろ」
「はい」
義信は踵を返す。
もう振り返らない。
その背中には、迷いは消えていた。
白蓮を取り戻すための旅が、今始まる。
山たちは静かに、その背中を見送っていた。
(続く)
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