第82話 決意
朝。
砦では、今日も穏やかな時間が流れていた。
「おい、新八」
鉄が大きく手を振る。
「その桶、こっちへ運んでくれ」
「はい」
新八は笑顔で返事をすると、水桶を抱えて歩き出した。
「重かったら言えよ」
弥助が声を掛ける。
「無理してまた寝込まれたら困るからな」
「ありがとうございます。でも、このくらいなら大丈夫です」
迅も笑う。
「最初に比べたら顔色も良くなったな」
新八は照れくさそうに頭を下げた。
「皆さんのおかげです」
その様子を、義信は少し離れた場所から見つめていた。
新八は自然と山隊の輪へ溶け込み始めている。
皆も、ごく当たり前のように受け入れていた。
それでも――
(……やはり)
胸の奥に残る違和感だけは消えない。
理由は分からない。
証拠もない。
ただ、何かが引っ掛かる。
(私の思い過ごしなら、それでいいのだが……)
義信は静かに目を伏せた。
⸻
昼過ぎ。
山は外濠の水を眺めながら補修箇所を確認していた。
そこへ義信が歩いてくる。
「山殿」
山が振り返る。
「どうした」
「少し、お話ししたいことがあります」
「ああ」
山は頷き、義信と並んで歩き出した。
二人は砦の外れまで来ると、静かに足を止める。
しばらく風の音だけが流れた。
やがて義信が口を開く。
「昨夜のお話を聞いてから、ずっと考えていました」
山は何も言わず耳を傾ける。
「山殿は毎日、皆が安心して暮らせる場所を少しずつ築いておられます」
「誰かのために動くことを当たり前のように続けている」
「その姿を見ているうちに、ようやく気付いたのです」
義信は静かに息を吸う。
「私は、逃げていました」
「失ったものばかりを見て、前へ進むことを諦めていたのだと」
山は義信の横顔を見つめる。
「ですが、もう逃げるのはやめます」
「私にも、戻らなければならない場所があります」
「果たさなければならない役目があります」
その声に迷いはなかった。
山は穏やかに笑う。
「そうか」
短い返事だった。
義信は少し笑う。
「止めないのですね」
「止めたところで、お前の気持ちは変わらないだろ」
山は苦笑する。
「だったら、自分で決めた道を応援する方がいい」
義信は思わず笑みを浮かべた。
「山殿らしいですね」
「そうか?」
「ええ」
義信は静かに頷く。
「山殿と出会わなければ、この決心は出来ませんでした」
山は少し照れくさそうに頭を掻いた。
「俺は何もしてないさ」
「いいえ」
義信は首を横に振る。
「山殿は言葉だけではなく、生き方で教えてくださいました」
「誰かを守るとはどういうことなのか」
「居場所を作るとはどういうことなのか」
山は少しだけ目を細めた。
「大したことじゃないよ」
「俺は俺に出来ることをやってるだけだ」
「それでも」
義信は穏やかに笑った。
「私には十分過ぎるほど伝わりました」
静かな風が吹き抜ける。
外濠の水面が、小さく揺れた。
⸻
夕方。
砦では夕食の支度が始まっていた。
新八も志乃に頼まれ、薬草を干す手伝いをしている。
「そのまま日に当て過ぎると駄目だからね」
「はい」
志乃の説明を真剣に聞きながら、新八は丁寧に薬草を並べていく。
その様子を見て、鉄が笑った。
「すっかり働き者になったな」
「少しでも恩返しがしたいので」
「そんな焦らなくてもいいんだぞ」
弥助が笑う。
「ここじゃ誰も、お前に借りを返せなんて言わねぇ」
新八は少し驚いたように皆を見回した。
そして小さく笑う。
「……ありがとうございます」
その笑顔は、昨日よりも自然だった。
⸻
夜。
義信は一人、自室代わりの小屋で荷物をまとめていた。
持ち物は多くない。
刀と、着替え、それだけだった。
荷を見つめながら、小さく息を吐く。
(もう迷わない)
(自分のやるべきことを果たそう)
明日。
この砦を発つ。
その決意だけが、静かに胸の中で固まっていた。
(続く)
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