第26話 山狐の値段
黒曜の陣。
空気は重かった。
負傷兵の呻き。
薬草の匂い。
血。
敗戦の空気が、
まだ残っている。
⸻
「……以上です」
報告を終えた兵が頭を下げる。
部屋の中は静かだった。
黒曜側の将が数人。
そして、
依頼主の男。
山はその場に立っていた。
視線を感じる。
だが、
顔を上げなかった。
⸻
「損害は大きいな」
誰かが呟く。
「捕虜救出は失敗」
「砦破壊も未達」
「兵の損耗は想定以上」
淡々と並べられる。
山は黙っていた。
全部、
その通りだった。
⸻
「だが」
低い声。
依頼主の男だった。
「相手は氷牙だ」
空気が少し変わる。
将の一人が眉を寄せる。
「……白蓮別将、氷室左近」
「“氷牙”」
その名だけで、
空気が冷える。
⸻
「正面から崩された上、
生きて帰っただけでも十分だ」
「むしろ全滅しなかったのが異常だな」
誰かが苦く笑う。
だが山の胸には、
何も入ってこない。
⸻
(違う)
生き残ったんじゃない。
逃げただけだ。
鉄と弥助を置いて。
兵を死なせて。
崩されて。
負けた。
⸻
「山狐殿」
突然、
その名を呼ばれる。
山の肩がわずかに揺れる。
依頼主の男は続けた。
「その名は、
もう黒曜だけのものじゃない」
山は顔を上げる。
男は静かに言った。
「白蓮側でも回り始めてる」
嫌な感覚が走る。
⸻
「今回ので特にな」
将の一人が笑う。
「“氷牙が崩した山狐”だ」
部屋の空気が少し揺れる。
山は何も言わない。
言えない。
⸻
有名になりたいわけじゃない。
英雄になりたいわけでもない。
ただ——
死にたくなくて。
生き残りたかっただけだ。
それなのに。
勝手に名前だけが広がっていく。
⸻
「……しばらく休め」
依頼主の男が言う。
「今の山狐殿では、
まともに周りも見えていない」
山は返事をしなかった。
⸻
部屋を出る。
外の空気は冷たかった。
雨が降っている。
弱い雨。
山は空を見上げる。
頭の奥が重い。
⸻
「山」
玄だった。
壁にもたれている。
山は立ち止まる。
玄は山を見る。
「また自分だけで抱えてる顔だな」
山は小さく笑った。
笑えてすらいなかった。
「……抱えてるつもりはない」
「そうか」
玄はそれ以上言わない。
⸻
少し沈黙。
雨音だけが響く。
やがて玄が口を開く。
「鉄なら飯食ってたぞ」
「弥助は賭場行ってた」
山は思わず顔をしかめる。
玄が小さく笑う。
「いつも通りだ」
その言葉だけで、
少しだけ呼吸が戻る。
⸻
だが。
胸の奥の重さは、
消えない。
握れなかった拳。
助けられなかった兵。
崩された策。
氷牙の目。
全部、
残っている。
⸻
その頃。
白蓮軍。
雨の降る砦。
氷牙は静かに盤面を見ていた。
駒を一つ動かす。
そこへ足音。
「氷牙殿」
女の声。
雷姫だった。
氷牙は顔を上げない。
「山狐が敗れたと聞いた」
雷姫は真っ直ぐ言う。
氷牙は小さく頷いた。
「崩した」
短い返答。
雷姫は黙る。
⸻
氷牙が駒を置く。
「気になるか」
雷姫は否定しない。
しばらくして、
静かに口を開いた。
「……生きているのか」
氷牙はそこで初めて、
わずかに目を細めた。
「そこを先に聞くか」
雷姫は答えない。
⸻
氷牙は盤面を見る。
「生きている」
「逃がした」
雷姫の目がわずかに揺れる。
氷牙は続けた。
「面白い男だった」
「弱い」
「だが、
あれでまだ折れていない」
雨音が響く。
⸻
雷姫は窓の外を見る。
脳裏に浮かぶ。
自分ごと砦を焼こうとした男。
苦しそうな目。
それでも、
前に出ていた姿。
⸻
「……理解できない男だ」
小さく呟く。
氷牙は静かに笑った。
「だから気になるんだろう」
雷姫は何も答えなかった。
外の雨は、
まだ降り続いていた。
(続く)
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