第110話 揺らぎ始めた心
黒狼と黒川は、白蓮城へ戻っていた。
城内へ入り、自らにあてがわれた部屋へ向かって歩いていると、廊下の先に一人の男が立っていた。
九鬼影宗だった。
二人の姿を見た九鬼は、すぐに黒狼へ視線を向ける。
「っ!?」
その瞬間、九鬼の表情が変わった。
「血だらけではないか! 怪我されているのですか!?」
黒狼の衣服には、先ほど浴びた血がまだ残っている。
「いや、これは……」
黒狼が答えようとした時だった。
「いつもの悪人退治だよー」
黒川が横から口を挟んだ。
「これでまた、民は平穏に暮らせるのだよ」
あまりにも軽い口調だった。
九鬼は呆れたように黒川を見る。
「お主はまた面倒ごとを!」
「そうカリカリするなよー、九鬼ちゃん」
「ちゃん付けで呼ぶでない!」
九鬼が怒鳴る。
黒川は楽しそうに笑っていた。
その二人のやり取りを、当事者である黒狼自身も黙って見ていた。
自分が人を殺した。
その事実を、黒川は何でもないことのように扱っている。
一方で九鬼は、自分の身を案じてくれている。
その違いが、妙に印象に残った。
やがて黒狼は何も言わず、その場を離れた。
まずは身体についた血を落とすため、風呂へ向かった。
湯に浸かり、身体を洗う。
何度も腕を擦る。
衣服についた血も洗い流す。
だが。
「……中々取れない」
黒狼は自分の手を見つめた。
血はほとんど落ちている。
それなのに。
「いや……」
小さく呟く。
「気持ちが拭いきれないのか……」
目を閉じる。
すると、あの瞬間が蘇る。
黒刀・孤影を突き刺した感触。
男の目。
崩れ落ちた身体。
そして、自分の震える手。
黒狼は何も言わず、湯から上がった。
部屋へ戻るため廊下を歩いていると。
自分の部屋の前に、一人の男が立っていた。
「六道……」
六道玄庵だった。
「お帰りなさいませ」
六道は穏やかに笑う。
「黒川殿より聞きましたよ」
「見事、悪人を斬り捨てたとか」
「早速、民のために力を奮われるとは。お見事です」
黒狼は六道を見る。
そして、少しだけ目を伏せた。
「ああ、そうだな」
「民のためには、仕方ないことだった」
その言葉を聞いて、六道は満足そうに頷いた。
「そうです」
「民を守るためには、悪事を働く者を消すのが確実です」
「……」
黒狼は黙っている。
六道は続けた。
「弱き者が虐げられ、搾取される前に、元凶を絶つ」
「それが最も犠牲を少なくする方法でしょう」
そして。
何気ない口調で、さらりと続ける。
「いずれは、悪事を働く前に事をなすことも必要となりますがね」
黒狼の目が僅かに動いた。
だが、六道はそれ以上何も言わない。
ただ、穏やかに笑っている。
黒狼はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「俺は、俺のしたいように動くだけだ」
「もちろん」
六道は即答した。
「それで構いませんよ」
「今回は、その行為を称賛するために来ただけですので」
「では、失礼」
六道は一礼すると、その場を去っていった。
黒狼はその背中をしばらく見つめていた。
そして自分の部屋へ入る。
布団へ横になる。
目を閉じる。
だが。
眠れない。
初めて人を殺した。
そんなことをした直後に、何事もなかったように眠れるほど、自分は割り切れている人間ではない。
そう思っていた。
それでも。
黒川の言葉が蘇る。
――消せば済む話ですから。
そして六道の言葉も。
――民を守るためには、悪事を働く者を消すのが確実です。
黒狼は天井を見つめる。
「……民のため」
小さく呟いた。
弱い者が虐げられる。
奪われる。
傷つけられる。
そして、その犠牲になる者が増えていく。
それを防ぐためなら。
「邪魔な者は……殺す」
口にした瞬間、自分の胸が僅かに痛んだ。
だが。
黒狼は続ける。
「その方が……確実で、早いのかもしれない」
自分に言い聞かせるように。
何度も。
何度も。
そう考えているうちに、少しずつ瞼が重くなっていく。
やがて黒狼は、深い眠りへと落ちていった。
その眠りが。
これまでの山なら決して受け入れなかった考えを、少しずつ心の奥へ染み込ませていくことになるとも知らずに。
(続く)
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