第107話 絶望の底
「白蓮の六道玄庵と申します。」
静かな川辺に、その声だけが響いた。
山は木へ背中を預けたまま、男を睨みつける。
「……白蓮。」
掠れた声だった。
全身は痛みに軋み、左目は流れた血でほとんど見えない。
それでも右手は、なまくら刀の柄を離さなかった。
六道はその様子を静かに見つめていた。
敵意もなければ、憐れむ色もない。
ただ、目の前の男という存在を見極めるような眼差しだった。
「何をしに来た。」
山が低く問う。
「俺を殺しに来たのか。」
六道はゆっくりと首を横へ振った。
「そのつもりであれば、名乗る必要はございません。」
「……なら何だ。」
「あなたと取引をしに参りました。」
山は眉をひそめた。
「取引だと。」
「はい。」
六道は迷いなく頷く。
「私はあなたを利用するために参りました。」
その言葉に、山は思わず鼻で笑った。
「隠そうともしないのか。」
「隠しても意味がありません。」
六道は穏やかな口調のまま答える。
「あなたも私を利用すればよいのです。」
「白蓮を利用する。」
山は目を細めた。
「敵だった相手を信用しろと言うのか。」
「信用など不要です。」
即答だった。
「互いに目的のため利用し合う。それだけで十分でしょう。」
山は黙る。
その言葉は妙に現実味があった。
信頼でも友情でもない。
利害だけで結ばれる関係。
今の自分には、その方が綺麗事より理解できる。
「……俺に何をさせたい。」
六道は答える前に、山の姿を見つめた。
血に濡れた顔。
震える肩。
それでも刀だけは決して手放さない。
「その前に、お尋ねしてもよろしいでしょうか。」
「何だ。」
「あなたは、なぜ生き残ったのですか。」
山の表情が固まる。
「……何。」
「仲間を失い、雷姫殿を失い、それでもあなただけが生き残った。」
六道は静かに続けた。
「なぜだと思いますか。」
山は答えられなかった。
考えないようにしていた問いだった。
「……知らない。」
ようやく絞り出した声は震えていた。
「俺だって……。」
喉が締まる。
胸の奥へ押し込めていたものが、少しずつ溢れ始める。
「俺は守るって言った。」
「山隊のみんなも。」
「雷姫も。」
「なのに……。」
拳が震える。
「結局、何も守れなかった。」
「全部失った。」
「俺が弱かったからだ。」
六道は否定しなかった。
慰めもしない。
ただ静かに頷いた。
「その通りです。」
山は息を呑む。
「あなたは無力でした。」
「誰かに助けられなければ何も出来ない。」
「それが事実です。」
その言葉は刃より鋭かった。
だが、六道はすぐに続ける。
「ですが、それは恥ではありません。」
山は顔を上げる。
「誰もが猛将になれるわけではない。」
「誰もが剣一本で戦場を変えられるわけでもない。」
「戦えない者もおります。」
「力の弱い者もおります。」
「それは人として当然のことです。」
山は僅かに目を伏せた。
その言葉だけ聞けば、救われるような気さえした。
だが六道の声は、そこで終わらなかった。
「問題は、弱かったことではありません。」
山の肩が小さく震える。
「あなたは弱いまま、全てを守ろうとした。」
「誰も見捨てたくなかった。」
「誰でも救いたかった。」
「その優しさが、悲劇を招いたのです。」
山は息を止めた。
脳裏に次々と顔が浮かぶ。
黒鉄郷で出会った者たち。
山隊砦で笑い合った日々。
雷姫の穏やかな笑顔。
「知らない者にも手を差し伸べ、疑うことをしなかった。」
「信じた。」
「救った。」
「その結果、裏切られた。」
「そして仲間を失った。」
山は首を横へ振る。
「違う……。」
掠れた声だった。
「違う……はずだ。」
だが、自分でもその言葉に自信が持てない。
六道は静かに山を見つめる。
「あなた自身が変わらない限り。」
「これから先も同じことが繰り返されるでしょう。」
「また信じ。」
「また守ろうとし。」
「また失う。」
「やめろ……。」
山の声が震えた。
「もう……聞きたくない。」
六道は目を閉じ、小さく息を吐く。
「現実から目を逸らしても、何も変わりません。」
「あなたは優しい。」
「ですが、その優しさは守る力を持たない者には毒となる。」
山の胸の奥で、何かが音を立てて軋んだ。
雷姫の最後の姿が蘇る。
血を流しながら、自分を逃がした背中。
『生きろ。』
あの声が耳から離れない。
山は俯いたまま、小さく呟く。
「俺は……。」
震える拳へ視線を落とす。
「俺は、どうすればよかったんだ……。」
山はしばらく何も言えなかった。
握ったなまくら刀。
傷だらけの身体。
そして、失った仲間たちの顔。
全てが頭の中を巡っていた。
六道玄庵の言葉は、決して優しいものではなかった。
だが。
否定できなかった。
「……俺が変わらなければ。」
山は小さく呟く。
「また同じことになる。」
六道は静かに頷いた。
「その通りです。」
「あなたは優しい。」
「だからこそ、誰かを救おうとする。」
「ですが。」
六道の視線が山の傷へ向く。
「救う力を持たない者が、全てを救おうとすれば。」
「最後に残るのは、守れなかった後悔だけです。」
山は拳を握り締めた。
雷姫の背中が蘇る。
血を流しながら。
それでも笑って。
自分を逃がした姿。
「……俺は。」
声が震える。
「俺は、もう誰も失いたくない。」
六道はその言葉を聞いて、初めて僅かに目を細めた。
「ならば、力を持つべきです。」
「守るための力を。」
山は顔を上げる。
「力……。」
「はい。」
六道は静かに続ける。
「あなたには選択肢があります。」
「このまま何も変わらず、また誰かを信じ続けるか。」
「それとも。」
「二度と同じ悲劇を繰り返さぬために、力を手に入れるか。」
山は黙った。
その言葉の意味を理解していた。
ただ強くなるだけではない。
もっと深いものだ。
六道は続ける。
「白蓮四天王。」
「その一角として、あなたを迎え入れる用意があります。」
「白蓮の名を背負う者として。」
「相応しい待遇も用意しましょう。」
山は六道を見る。
「待遇……。」
「はい。」
「あなたには、戦への参加を自由に選ぶ権利を与えます。」
「白蓮の命令だから戦うのではない。」
「あなた自身が必要だと思った戦だけに参加すればよい。」
山は僅かに目を伏せた。
それは今の山にとって、都合の良い条件だった。
もう誰かに命じられて動くつもりはない。
自分が守るべきもの。
自分が戦う理由。
それは自分で決める。
「……俺を利用するつもりか。」
山は静かに言った。
六道は否定しなかった。
「はい。」
「私はあなたを利用します。」
「そして、あなたも私たちを利用すればよい。」
「それが取引です。」
山は小さく笑った。
「随分と都合のいい話だ。」
「ですが。」
六道は穏やかに続ける。
「あなたにとっても悪い話ではないはずです。」
その時。
六道の視線が、山の腰にあるなまくら刀へ向いた。
「その刀では。」
「これから先、あなたが守りたいものを守れないかもしれません。」
山は刀を見る。
何度も自分を救ってきた刀。
傷だらけで。
刃も欠けている。
だが。
まだ手放す気にはなれなかった。
六道はそれ以上、何も言わなかった。
ただ懐から一本の刀を取り出す。
黒い鞘。
夜のように深い色。
「これは黒刀・孤影。」
「白蓮に伝わる刀の一つです。」
「あなたに渡します。」
山はその刀を見る。
「……なぜ。」
「今のあなたには、それが必要だからです。」
六道は静かに言った。
「何かを守るためには。」
「時として、奪う覚悟も必要になります。」
山の表情が僅かに揺れる。
「もう一つ、必要なものがあります。」
山が顔を上げる。
六道は懐から一枚の仮面を取り出す。
「白蓮の中には、あなたを受け入れぬ者もいるでしょう。」
「その顔では、あなたはいつまでも山として見られます。」
「これから先、あなたが何者になるのかを決めるのは、あなた自身です。」
六道は続ける。
「優しさだけでは、守れないものがある。」
「信じるだけでは、失うものがある。」
「あなたはそれを、誰よりも知っているはずです。」
雷姫。
山隊砦。
仲間たち。
山は目を閉じた。
「……。」
六道は最後に一言だけ告げた。
「あなたが選ぶ道です。」
「私は、その道の先に力があると伝えているだけです。」
静かな川辺。
風が吹く。
山は黒刀・孤影を見つめる。
だが。
すぐには手を伸ばさなかった。
まだ。
完全には決められない。
しかし。
心の奥底には。
一つの感情が生まれていた。
もう二度と。
誰も奪わせない。
そのためなら。
何かを捨てる覚悟が必要なのかもしれない。
六道は何も言わなかった。
ただ、山の瞳の奥に生まれた小さな変化を見つめていた。
絶望の底に落ちた男が。
自らの意思で。
新たな道へ歩み始める瞬間だった。
(続く)
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