第99話 静かなる追跡
蒼鷹領。
鬼庭盛綱は、不機嫌そうに腕を組んでいた。
「……納得出来ませぬ。あと一歩でございました。あと一歩で山狐の首を討ち取れたのです。それでも撤退を命じられた理由を、お聞かせ願えますか。」
低く押し殺した声だった。
目の前では、鷹司景冬が静かに地図を見下ろしている。
鬼庭は一度だけ拳を握り締めた。
景冬はゆっくりと顔を上げる。
「黒曜が動いた。今は国境の備えを優先する。」
それだけだった。
鬼庭は歯を食いしばる。
「……山狐を逃したとしても、ですか。」
景冬は静かに鬼庭を見据えた。
「山狐一人より、蒼鷹という国を守る方が重要だ。」
部屋に沈黙が落ちる。
鬼庭は深く頭を下げた。
「……失礼致しました。ご命令とあらば従います。」
そう言って一礼し、部屋を後にした。
廊下へ出た瞬間、小さく舌打ちする。
「……次こそは。」
悔しさだけが胸に残っていた。
⸻
鬼庭が退室した後。
景冬は静かに蝶嶺忌那へ視線を向ける。
「忌那。」
蝶嶺は一歩前へ出た。
「は。」
「余計な動きはするな。今は国境警備が最優先だ。勝手な行動は許さん。」
蝶嶺は静かに頭を下げる。
「承知しております。命令には従います。」
景冬は小さく頷くと、そのまま部屋を後にした。
静寂が戻る。
蝶嶺はしばらく閉じられた扉を見つめていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……失礼致します。」
部屋の隅で控えていた部下が静かに頭を下げる。
「ご命令を。」
蝶嶺は地図を広げた。
その指先が東へゆっくり滑る。
「山狐は生きています。毒でも、鬼庭殿でも仕留められませんでした。」
その声音に感情はない。
「なら、今度こそ終わらせます。」
部下は黙って耳を傾ける。
蝶嶺は東端を指差した。
「東へ向かった可能性が高いそうです。少数だけ出しなさい。これは私の独断です。決して目立たず、見つけたなら始末しなさい。」
「はっ。」
部下は一礼し、静かに部屋を後にした。
蝶嶺は一人残る。
窓の外を見つめ、小さく呟く。
「今度こそ……終わらせます。」
⸻
一方。
山と雷姫は、東へ向かう街道を歩いていた。
街道は穏やかだった。
遠くには青く広がる海が見え始めている。
潮の匂いが風に乗って流れてきた。
雷姫が足を止める。
「これが……海か。」
山も足を止めた。
「ああ。」
雷姫は静かに水平線を見つめる。
どこまでも続く青。
山々に囲まれた白蓮では、一度も見たことのない景色だった。
「広いな。」
その一言だけだった。
山は小さく笑う。
「俺も最初はそう思った。」
二人は並んで海を眺める。
しばらく誰も口を開かなかった。
やがて山が歩き出す。
「港町はもう近い。今日はそこで休もう。」
雷姫も静かに頷く。
「分かった。」
また二人は歩き始める。
穏やかな時間だった。
だが。
山は何度か後ろを振り返っていた。
雷姫が気付く。
「何か気になるか。」
山は苦笑する。
「情報屋に言われたことが頭から離れなくてな。」
「追手か。」
「ああ。もう来ないかもしれない。でも、来るかもしれない。」
雷姫は小さく頷いた。
「警戒するに越したことはない。」
その言葉に山も頷く。
二人は再び前だけを見て歩き続けた。
⸻
その頃。
山隊砦。
辺りは静まり返っていた。
あれほど激しかった戦いの痕跡だけが残っている。
壊れた外柵。
黒ずんだ地面。
吹き抜ける風。
だが。
砦の奥だけは違っていた。
薬草を煎じる匂いが静かに漂っている。
医療小屋。
志乃は眠る仲間たちの間を慌ただしく歩いていた。
額には汗が滲んでいる。
薬を替え。
熱を測り。
濡れ布を絞る。
その手は休まらない。
弥助。
鉄。
迅。
玄。
孫六。
誰一人として、まだ目を覚ましてはいない。
志乃は新しい薬を煎じながら、小さく息を吐いた。
「お願いだから……皆、生きて……。」
返事はない。
聞こえるのは薬鍋が静かに煮える音だけ。
それでも志乃は手を止めなかった。
山が帰って来る、その日まで。
自分だけは諦める訳にはいかなかった。
(続く)
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