第15話 未払い三か月
サルディスを出てから十日あまり、ケラモン・アゴラという、この先しばらくでは最後の大きな町を離れてから五日目だった。
白い街道はどこまでも見え、浅い水筋のほかに隠れるものがない。カイストロス平原に入ってからは、止まっているだけなのに人も獣も機嫌も少しずつ削れていく。
次は南東、テュンブリオンへ向かうはずなのに、荷駄はまだ発たない。止まっているだけで、水も食糧はどんどん減るのだから、たまったものではない。
カイストロス平原は、傭兵たちの苛立ちを隠すにはむだにだだっ広すぎた。
レオンは荷駄幕の影で、蝋板を三枚並べた。指先で古い記しをなぞる。半隊ごとの支払い控え。前回の支給。差し引き。立て替え。未記入。見たくもない空欄が、見たくないのに増えている。
これを紙の帳簿に転記するのが、少し憂鬱だった。
「監補殿」
テオドルスが走ってきた。息が上がりきっているくせに、両腕で抱えた控え板は落とさない。そこだけはえらい。
「三番目の荷車列まで、兵の従者が見に来ています。給金はいつかって」
「君に聞いてどうするんです」
「僕もそう思います」
そう言いながら渡された控え板には、油屋、乾し肉商、革紐売り、鍛冶場の立て替えが増えていた。つまり、給金が出る前提で回していた小口の信用が、もう限界に来ている。
三か月。
正確には三か月と少し。だが、兵は「少し」を勘定に入れない。払われていない月は、払われていない月だ。
しかも、ここはもうケラモン・アゴラのような町外れではない。あちらへ戻れば買える、という気楽さもない。次は南東、テュンブリオンの方角だと地図では分かるが、そこへ行くにはまずこの平原を動かなければならない。動かすには人と獣が要る。人と獣を動かすには、餌と金が要る。あまりにも分かりやすい。嫌になるほど。
「坊ちゃん」
荷駄の向こうからミュロンが来た。朝っぱらから機嫌の悪そうな顔だが、こいつは大抵いつも機嫌が悪いので判別が難しい。
「重装歩兵の連中がまた騒ぎ始めた。今度は配給幕じゃねえ。王弟の宮門(移動式ゲート)の前だ」
「何人くらいです」
「数える前に見りゃ分かるくらいだ」
「見りゃ分かる、で済むなら僕はいりませんよ」
「だから呼びに来たんだよ」
なるほど、つまり来いということね。
レオンは控え板をまとめ、テオドルスに二枚持たせた。残り一枚を自分で抱える。数字は重くない。だが、数字の意味は重い。
配給幕を離れると、空気が変わった。怒鳴り声が風に乗って遠くまで伸びる。広い平地では、声までよく見えた。重装歩兵たちが青銅の兜も被らず、槍の石突きで地面を突いている。従者や荷担ぎがその周りをうろうろし、さらにその外側に軽装歩兵や商人たちが輪を作っていた。祭りの輪に見えなくもないが、祭りならもっと笑いが混じる。
「払え!」
「三か月だぞ!」
「討伐だと言ったのはそっちだろうが!」
誰が最初に叫んだのかは分からない。だが、同じ文句はすぐ増える。こういうものは火と同じだ。最初の火口より、乾いた草の量の方が大事になる。
輪の端に、カレスがいた。重装歩兵側の顔役らしく、胸を張って立っている。まだ槍は持っていない。持っていないうちは、話し合いのつもりなのだろう。
「主計殿じゃないか」
見つかった。最悪だ。
「主計殿、いったいいつごろ給金を払ってもらえるのかね?」
「あなた方の銀袋の口を僕が縛っているみたいに言うのはやめてください」
「なら、いつ開くか教えろ、そんくらい知ってるだろ」
「知っていたら、今ごろここで人混みに揉まれていませんよ」
カレスは鼻で笑ったが、目は笑っていなかった。
「俺たちは慈善で歩いてるんじゃねえ。討伐だ何だは構わんが、払うものは払えだ」
「ええ」
「ええ、じゃねえ」
「勘違いしてるかも知れませんが、私の雇い主は将軍ですよ?王弟と契約したわけでも、まして臣下でもないのですよ?」
カレスは、ニヤニヤしだした。
コイツ…性格悪いな…知ってたけど。
その横から別の兵が口を挟んだ。
「酒屋も肉屋も、昨日からつけを渋り始めた。替え紐一本、油壺ひとつで舌打ちしやがる」
「そりゃそうでしょう。君らが持っているのは武器であって貨幣じゃない」
「だから払えって言ってんだ!」
もっともだ。もっともすぎて腹が立つ。
レオンは怒鳴り返したくなったが、代わりに控え板を開いた。
「プロクセノス隊だけでも、重装歩兵千五百、軽装歩兵五百、その従者と荷駄引きまで含めれば倍近い頭数がぶら下がっています。あなた方が今日、王弟の宮門の前に立つのは勝手です。でも、明日も立つなら、誰が荷車を押すんです。誰が駄獣に飼葉をやるんです。誰が次の町まで乾し麦を持たせるんです」
「脅しか、坊ちゃん」
「計算です」
「へっ、問題ねぇよ。ここを動かないだけだ」
「それだって糧食は使うでしょう?」
「この辺りの街が、無くなるだけだな」
山賊かよ…
そこでミュロンが割って入った。
「脅しなら、もっと上手くやれ、帳簿役はこういうのをいなすのが下手なんだ。余計な騒ぎになるだけだぞ。
こいつはただ、てめえらが騒ぐと帳面の辻褄が合わなくなるから、困ってるだけだ」
そこまで薄情じゃないし、なんなら、ぼくだって給料が出ないのは困る。
まだ、もらう時期じゃないけど、明日は我が身なのは間違いない。
だが、ミュロンの理屈は兵には通じたらしい。数人が顔をしかめた。
いや、おかしいから…ぼくだって雇われなんだからさ…
その隙に、隻眼のシラクサが輪の後ろからぬっと現れた。商人らしく、空気の悪いところへよく顔を出す。
「主計殿、こっちも言っとくぞ。ツケは今日までだ、これ以上は商人をなだめられん、まあ、無駄に乗っかった金額で買うなら別だが、いつもの五倍とか十倍になるぞ」
「昨日も同じことを聞きました」
「昨日までは脅しとか駆け引きの世界で済んだ。今日は済まねえ。いまの麦袋がかわっぽになっても、俺が次に仕入れる分の銀がねえ」
「あなた、昨日、油壺の値を上げたでしょう」
「上げたさ。俺がぼってるわけじゃねぇぞ。町の商人たちが俺らに売ってくれねぇんだ。素寒貧の軍に売るんだからな」
つまり市場ももう読んでいる。給金遅延は兵の不満だけでは終わらない。値が上がり、ツケが止まり、立て替えが断られる。立て替えが死ねば、明日の配給は出来ない。
いや、さすがに明日は大丈夫だけどね。
レオンはそこでようやく、全体像がつかめてきた…おぼろげながら。
兵が止まる。
重装歩兵の従者は勝手に買いに走る。
商人は値を吊り上げる。
荷駄引きが飼葉を探す。
街の車輪大工が修理を渋る。
駄獣が飢える。
次の行軍日に隊列が伸びきる。
伸びた列に、怒っている兵がぶら下がる。
軍が崩れる時は、戦いに負けるときではない。集団が維持できなくなる、いわば統制崩れとかいうあれだ、そう…秩序の崩壊とか言ってたな。
気づいた瞬間、喉が乾いた。あれ?もしかして、やばい?
秩序の崩壊は、文字で追う分には、何万人死んだとか全滅したって感じで、さらりとしたもんだけど…
現実感を伴ってくると、冗談じゃすまない…実に嫌な理解だった。「人は名誉で戦う」、と塔では何度も学んだ。いや、学んではいないか。読んだだけか、しかもたぶん名誉を語る人間の文章だ。
そういう人間もいるんだろうけど、現場の軍は、もっと現金だ。
傭兵団は金で止まり、金で動く。
分かった。分かってしまった……最悪だ。
つまり、どう考えても死の瀬戸際にいるわけだ。
挙句の果てに異国で、このギリシア傭兵団がバラバラになったら、真っ先にぼくが死ぬという自信があった。
「テオドルス」
「はいっ」
「未払い控えを半隊ごとに分け直します。従者の立て替えと、商人への借りも別欄を作って。今すぐ」
「い、今ですか」
「今です。今日の夕方までに欲しい」
「夕方……」
「嫌でしょう、僕も嫌です…でもやりましょう」
テオドルスは泣きそうな顔で頷いた。少し気の毒だが、今は同情している場合ではない。
そのままレオンはフィロンの幕へ向かった。外には書記官と伝令役がひっきりなしに出入りしている。中へ入ると、兵站監は卓の上に広げた板地図から目を上げた。
「何だ」
「未払いが、兵の機嫌の問題では済まなくなっています」
「遅い、今頃か。で、懸念は?」
腹の立つ言い方だった。だが、レオンはそこで初めて、その冷たさが人を見下しているのではなく、崩壊の順番を知っている側のものだと気づいた。
「商人のつけが今日で止まります。小口の立て替えが死ねば、明日から従者が勝手に買いに走ります。荷駄引きも飼葉を抱え込み始めます。次に車輪修理が渋られます。そうなると、出立命令が下りても隊列が動きません」
「他には」
「重装歩兵が王弟の宮門の前に溜まっています。軽装歩兵はまだ様子見ですが、長引けば後ろから悪くなります。腹の問題だからです」
「兵は何で動く」
「……金です」
言った瞬間、胸の内側が冷えた。
フィロンは頷いた。
「ようやく分かったか」
その一言で、レオンはむしろ腹が立った。
「分かりたくて分かったわけではありません」
「それでいい。好きで理解する必要はない。理解しないまま軍の主計を扱う方が害悪だ」
反論できなかった。
フィロンは地図の端を指で叩いた。
「ここで列が止まれば、次のテュンブリオンまでの行程が腐る。広い平地は騒ぎが広がる。見えているな」
「はい」
「なら控えを作れ。半隊ごと、従者分別、商人の借り別。今夜のうちに」
「支払いが来るんですか」
「来なければ来させる」
それだけ言って、兵站監はもう別の書板へ視線を落とした。
来なければ来させる、か。
言い方だけなら簡単だ。だが、その簡単さの裏に、どれだけの段取りと圧が積まれているのか、レオンにはもう少しだけ分かってしまった。
幕を出ると、ダフネが外で待っていた。槍を肩に乗せ、相変わらず愛想のない顔をしている。
「顔が悪い」
「生まれつきです」
「そっちじゃない」
水袋が差し出された。長くは言わない。ありがたいが、腹立たしいほどいつも通りだ。
レオンは一口だけ飲んだ。ぬるい。だが喉には染みた。
「分かってしまいました」
「何を」
「この軍が、何でつながっているかです」
ダフネは少しだけ目を細めた。
「今さら」
「今さらです。僕は、もっと立派な何かで繋がっているつもりでいました」
「あんたは、そう思ってた方が生きやすかったんでしょ」
「ええ。たぶん」
平原の向こうで、また声が上がった。だが、今度は怒鳴り声だけではなかった。ざわめきの質が変わる。人の目が一方向へ流れる時の音だ。
レオンも振り向く。
南から白い街道を、荷車の列が来ていた。陽を弾く金具つきの車箱。護衛つき。駄獣の足取りまで、さっきまでの荷車とは違う。重いものを積んでいる歩き方だった。
テオドルスが、その横で小さく息を呑む。
「監補殿」
「見れば分かります」
兵たちの怒声が、潮のように一度だけ引いた。
広すぎる平原の真ん中で、金の来る声とでもいうのかな、景色みたいなものが、やけにはっきりと見えた。
どちらにせよ、黙らせるものが来るのだろう。
それが金であれ、命令であれ。




