心の檻が崩れる時
【エルドラ山脈】
標高五千メートルを超える、大陸一の高さを誇る山脈。
その頂上付近から麓まで、一気に流れ落ちることから「神落としの川」と呼ばれている激流に、ヒイロとカルーアは飛び込んでいた。
ドドドドドッ!
激しい水流が二人の身体を容赦なく押し流していく。
ただでさえ水場を嫌うハブニアンたちは、二人を追うことを諦め、林の中へと戻っていった。
「うっ……くぅ!」
カルーアを腹の上に抱えながら川を下っているヒイロが、何度も痛みに耐える声を漏らす。
「ねえ兄さん。流れ、すごく速いけど大丈夫かな?それに……すごく冷たいよ……」
カルーアは不安そうにヒイロを見つめた。
エルフにとって、水浴びといえば木々の間を流れる浅い水場で身体を清める程度のものだ。
こんな冷たく激しい川に入った経験など、ほとんどない。冷たい川の水温がカルーアの身体を冷やしていた。
しばらくして川の勾配が緩くなったところで、ヒイロはカルーアを抱えたまま岸へと上がった。
「はぁ……はぁ……。だいぶ流されたな。麓と中腹の間ぐらいまで来たか……!」
周囲を見回したヒイロの目に、岩壁にぽっかりと開いた洞穴が映った。
「あそこに洞穴があるぞ。いったん、あそこに入って休もう」
「うん、そうだね……」
リュックを背負い直したヒイロは、カルーアをお姫様抱っこして洞窟の中へと入っていった。
【洞窟の中】
外から聞こえる川の轟音とは対照的に、内部は静かだった。
「……寒いよ、兄さん」
カルーアが身体を震わせる。
「大丈夫か? ちょっとごめんな」
ヒイロはカルーアの額に手を当てた。
「……すごい熱だ」
「うん……凄く寒いんだ……」
熱で顔を赤くしながら、カルーアは小さく頷いた。
「わかった。ちょっと待っててくれ」
ヒイロは背負っていたリュックを下ろし、中を確認する。
「よし、これはたいして濡れていないな」
採掘した鉱石を包むために持ってきていた二重の麻袋の中から、大きめのタオルを三枚取り出した。
「これを使え。一枚で身体を拭いて、残り二枚で身体を包むんだ。俺は焚き火に使えそうなものを探してくる。その間に濡れた服を脱いで待っていてくれ」
「うん……わかった///」
ヒイロはそう言うと、洞窟の外へ必要な物を探しに向かった。
ヒイロの前で服を脱いだ姿を見せることになることを、恥ずかしく感じたカルーア。
しばらくして戻ってくると、そこにはタオルを一枚使い終えたカルーアの姿があった。
タオルは水分を吸って濡れている。
そして残りの二枚を上半身と下半身に巻きつけ、寒さに震えていた。
「すぐに用意するからな」
「うん……」
ヒイロは拾ってきた木を地面の石と組み合わせ、簡単な焚き火を作った。
さらに、その周囲を囲うように枝を紐で縛り、簡易的な柵を作っていく。
そこへカルーアの濡れた服を掛け、持ってきた薪に彼女の火魔法で火をつけてもらった。
パチパチパチ……。
見る見るうちに炎は大きくなっていく。
その正面に座り、カルーアは両手を炎へかざして暖を取った。
「確か、飲み物もあったからな」
「助かるよ……」
ヒイロはリュックから果実の粉末を取り出すと、持っていた容器で温かい飲み物を作った。
さらに、強壮剤を少量混ぜる。
「ほら、ゆっくり飲め」
「ありがとう、兄さん……」
カルーアは受け取った飲み物を少しずつ口に含んだ。
ヒイロはその間も、ずっとカルーアの様子を見ていた。
「……だいぶ身体が温まってきたよ」
熱で頬を赤くしたカルーアが、半目になりながらヒイロを見つめる。
「よかった。もう少し休んでから、コテージへ戻ろう」
「うん……そうだね……」
その時だった。
ガサゴソ……。
何かが洞窟の中へ入ってくる音がした。
二人は同時に入り口へ目を向ける。
すると、山でよく見かける魔物――スタンボアが三体、洞窟の中へと入ってきた。
「カルーアはそこで休んでいろ。俺が奴らを退治する!」
ヒイロはミスリルソードを握りしめ、スタンボアたちと対峙した。
その時、川に流されてから初めてヒイロの背中を見たカルーアは、息を呑んだ。
「ちょっと兄さん……背中、傷だらけじゃないか。どうして?」
「これだけきつい流れだったからな。何度も背中を岩に打ち付けて、少し傷ついちまったぜ」
「少しどころじゃないじゃないか……」
ヒイロの背中は、痛々しいほど傷だらけだった。
そんな彼へ向かって、三体のスタンボアが牙を剥く。
「安心しろ。お前は俺が絶対に守る!」
ヒイロはカルーアから少し離れ、スタンボアたちを自分へと引きつけた。
ヒイロの狙い通り、二体のスタンボアが彼へ向かって突進してくる。
だが――。
残りの一体はヒイロには目もくれず、カルーアへ向かって突進していった。
「俺の女をやらせるかよ!」
ヒイロの目が一気に真っ赤に染まる。
紅血化の能力を発動したのだ。
自分へ迫ってくる二体のスタンボアには目もくれず、ヒイロはカルーアを目指して突進してきた一体へと駆ける。
そして――。
ザシュッ!
スタンボアの首筋を、一気に斬り落とした。
「ギュビィィィ!」
一瞬だった。
一体のスタンボアを仕留めたヒイロ。
「兄さん、危ないっ!」
しかし、その瞬間。
背中を向けたヒイロの身体に、鈍い衝撃が走った。
ドスンッ!
グサッ!
「ぐわあぁぁぁ!!」
一体のスタンボアの突進をまともに受け、さらにもう一体の牙がヒイロの背中へと突き刺さった。
「この……痛いだろうがっ!」
ヒイロはミスリルソードを背後へ振り回し、二体のスタンボアを無理やり引き剥がした。
「はぁ……はぁ……。こんなところで、やられてたまるかよ……!」
気力を振り絞り、二体のスタンボアを睨みつけるヒイロ。
(兄さん……。そこまでして、わたしのことを守ってくれるなんて……)
「「ブビィィィ!」」
二体のスタンボアが、左右から同時に突進してきた。
「はぁ……はぁ……。まずは一体だ。残りは後から考える!」
ヒイロはためらわなかった。
自分の左方向から迫ってきたスタンボアへ向かって踏み込み、渾身の力で斬り倒す。
だが――。
残る一体が、無防備になったヒイロの脇腹へと迫っていた。
ドゴォォォン!
「カルーアか!?」
背後から飛んできた火の玉が、スタンボアの側面へ直撃する。
「はぁ……はぁ……今ので、打ち止めだよ……」
残りわずかな魔力を振り絞ったカルーアの炎魔法が、ヒイロを救った。
「兄さん……かっこよかったじゃないか。でも、無茶しすぎだよ」
「大事なカルーアに怪我をさせるわけにはいかないからな。当たり前だろ♪」
「かっこつけちゃって……。私まで兄さんのことを好きになっても知らないよ?ほんとにもう❤」
カルーアは、ヒイロを見つめた。
その胸の奥にあった何かが、静かに崩れていく。
これまでの人生で何度も繰り返し、自分自身に言い聞かせてきた。
――人を信用してはいけない。
――心を許してはいけない。
誰かを信じれば、いつか必ず裏切られる。
だから、誰にも心を開いてはいけない。
それが、カルーアが自分自身を守るために作り上げた心の檻だった。
けれど――。
今、目の前にいるヒイロは違った。
自分を守るために傷つき、それでも笑っている。
そんな彼を見ているうちに、カルーアは初めて思った。
――この人なら……信じてもいいよね。
カルーアは初めて、自分からヒイロへ身体を預けた。
「もう少しだけ魔力が残っているから、兄さんの身体を治してあげるね」
カルーアの右手が、ヒイロの痛々しい背中へそっと触れる。
すると、弱々しい光が彼の背中を包み込み、傷を少しずつ癒していった。
「少し寝させてね……」
「ああ。ゆっくり休め」
ヒイロはカルーアの身体を優しく抱きしめた。
その腕の中で、カルーアは安心しきったように目を閉じる。
「……お前だって、十分優しいじゃないか」
ヒイロの言葉を聞きながら、カルーアは静かに眠りへと落ちていった。
その日――。
カルーアの心を閉ざしていた檻は、音もなく崩れ落ちた。
そして二人の間には、それまでとは違う、強い絆が結ばれた。
温かい焚き火の前で心を通わせた二人だった。
続く。




