敵地
珍しいことにハーデル・ロンバルトは雲一つない快晴に恵まれていた。ただ、市街地に活気はなく、勿論そこで生活を営む人間の姿もない。ここは帝国が半年前の大撤退によって放棄したいわゆる失地である。国際的な規定によれば未奪還地域という、法による統治が行われていない土地。三年前から出現した人間の形をした化け物が蔓延る畜生界を具現化したかのような場所。
建物もほとんどが戦場となった際に破壊され、舗装された道はことごとくが砲弾によって掘り返されている。今日もどこかで火の手が上がり、黒い煙が上がっているのが遠くから確認することができた。
しかし、到底文明人が住むことができないであろうこの土地に二人の、いや、正確には一人と一匹が何とか形の保たれていたテラスにて晩秋の快晴を楽しんでいた。
一人は神に金を織り込んだのかと勘違いしてしまいそうになる金髪の女性。その豊満な体は帝国の軍服によって抑えつけられているが、彼女は皇帝に奉仕する帝国の臣民ではない。いや、正しく言えばかつてはそうだったが、現在は訳あって皇帝の信頼を裏切り、あろうことか帝国に矛を向けている。…彼女が持つ武器は盾なのだが。
ペイルー・クロムエル。母方に王国の血が入っている彼女はかつての帝国親衛隊第六隊長で、今は「古き神々」の協力者。魔力で身体機能を維持する術を学んだ彼女は食事、睡眠を必要としなかった。実際、彼女はここ二、三か月何も口にしていない。唯一彼女が口に含んだものと言えば、両手で掬える程度の水と空気だけだった。
「ハーデル・ロンバルト、懐かしいわ。あなたがあんまりにもしぶとくて、盾で擦り潰したのもいい思い出…そう考えるとあなた、何故生きているの?」
「まあ、俺はそう簡単には死なねえってこった。…だが、意外だったな。まさか俺の勧誘にお前が乗っかってくるとは思わなかったぞ?その気がなかったと言えば嘘になるが、アレはあの場を逃れるだけの方便だったというか…」
一方で、彼女とは似つかわしくないほどの歪んだ容姿を持つ彼の名はアリバルボリという。彼は「古き神々」の信奉者で、もっと正確に言えば神の眷属。落ちぶれたホームレスに見えなくもない容姿をしているが、その正体は神よりその権能の一部を譲り受けた化け物である。
しかし、残念なことに彼はその力に相応しい威厳を持ち併せていなかった。彼は眷属の中では若い。四千年という歳月は人間からすれば悠久に等しいが、神として扱われるには少々幼すぎた。彼は言うところの雑務担当で、使い勝手が良い下っ端として日々前線を駆け巡っている。
「…でも、そう馴れ馴れしくされるのは何だか腹の底から湧き上がってくるものがあります。私と君はあくまでも協力者。利害が一致しているというだけで、背中を預けるような関係では決してないのですからね?勿論、君が私に背中を預けるようなみっともない真似をすれば、その時は勿論…」
「お、おう」
そのため、彼は人間の最上位層にはどうしても総合力で下回っていた。それは純粋に、彼の持つ魔力が少ないからである。もし、今の『道化』が適性検査を受診する機会があれば恐らく、C適性と診断されるだろう。C適性の魔導兵、もし彼が人間だったならばそれだけで余程の無茶をしない限り軍役をこなせただろうが、残念なことに『道化』はそんな彼らの敵役である。
彼は人間からネームドとして憎悪と畏怖の対象になっているため、血眼になって襲い掛かってくる魔導兵を『道化』は捌かなければならない。魔導兵の執念とそれに裏打ちされた技量は凄まじい。そしてもちろんのことだが、アリバルボリは一人、どこまでも孤独な存在である。よって、戦闘は毎回決まって多対一。アリバルボリは相手の技術と物量によってじゃB等級の人間に勝てるかすら怪しい。眷属神として情けのない限り。もう少し頑張れ。我々の汚点である。それが、同僚からのアリバルボリの評価であった。
けれど、そんなアリバルボリにも得意とすることはあった。他の眷属神とは違う彼だけが持つ唯一無二の特技。それは、頭がよく回ることである。正しく言えば、彼はずる賢い。悪知恵がとっても働く、道徳心が欠如した思考回路。彼はそれを遺憾なく発揮し、力ではなく知恵によって人間を苦しめた。そんな彼につけられたコードネームは『道化』。新大陸にて最も警戒されるべき標的に与えられる特別な区分、ずる賢いというただ一点の特徴をもってして、彼はE3に位置づけられ、参謀本部の悩みの種となった。
「それで、そろそろ本題に入るべきじゃない?君、少し匂うわよ?」
「え、マジかよ…」
「ふふ、冗談。確かに匂うよ?でもなんて言うんだろう…森の、匂い?」
「何じゃそら」
ペイルーは背もたれに全体重を預け、前側の椅子の足を浮かせた。そしてその浮かせた足を机にのせ、アリバルボリに向ける。彼女の悪い癖である。下手な官僚に軍靴を向けてしまい、シビリアンコントロールは何たるかを半ば説教じみて聞かされたのは彼女の記憶にも新しかった。
「…はあーっ。いいか?俺が頑張ってランカラで情報収集をしたところ、奴らはここに大規模な戦力を投入する準備があるらしい。わかりやすく言えば、大規模な攻勢の予兆がある」
『道化』がそこまで言うとペイルーは興味深そうに彼と視線を合わせ、面白そうにニヤリと笑った。
「それで、少佐は来るの?」
帝国の陸軍事情をよく知る存在にとって、少佐という一般名詞は例外的にカリン・セラント魔導少佐を指しているということに他ならない。「リーベの戦姫」にして、他を圧倒する絶対的な実力を持つ英雄的存在。アリバルボリも彼女とは会ったことがあった。だが、その記憶は『道化』にとっては苦痛であり、それ以上のことは今の感じえなかった。ボサボサな前髪を掴み、頭を掻きながら最悪の記憶の内の一つを渋々思い出す。次元の違う存在。理性を持った破壊兵器。それが、アリバルボリのカリンに対する評価だった。彼女があの時、変装という概念はフィクションではないと理解していたら自分はきっとここにはいないのだろう。そう考えて自分が実に悪運だけはあることに嫌気がさし、そして眼前に広がる生命の豊穣が自分の回答を待っていることに気がついて渋々口を開いた。
「ん、あー…来るんじゃねえか?」
アリバルボリは少し前にカリフ…『王子』と会った限りでは、彼は強者である女性と戦ったと誇らしげに言っていたことを思い出す。ということは、彼女は確実に新大陸で活動しているということになる。となれば、アリバルボルは曖昧ではあるが比較的前向きな返事をペイルーにすることができた。
ただし、その事実はアリバルボリにとってはとてもではないが受け入れ難いものだった。自分はただ戦いに耽ることのできる秀才ではないと改めて実感し、三途の川を渡るための小銭ぐらいは用意しておくべきかと頓珍漢な考えが脳内を支配する。
「楽しみだわ。戦果を挙げれば、あの方にもいい返事ができる。…あら、私は一体何を?」
「あ?お前…」
ペイルーは熱を帯びた頬に両手を添え、うっとりとした面持ちで言う。そして、ペイルーの瞳が一瞬だけ深紅に染まったのをアルバリボルは見逃さなかった。赤い瞳というのは彼の記憶の中では碌なものがない。できるだけ言葉を柔らかくして言っても最悪だ。赤い瞳というのは眷属神の中でも飛び抜けて性格の悪い奴の毒牙が迫っているという何よりの証拠なのだから。
「俺と、手を組まねえか?」
だから、アリバルボリは利害の一致ではなく、心の底から、人間で言う僅かな良心から咄嗟に手を差し伸べた。肉付きが悪く骨と皮しかない、見窄らしい手だ。けれど、彼の態度も誠実とは言い難いが、彼は真面目だった。彼はまだ若い。権能の行使者としてだけで有休の時を過ごすために、無辜なる少女を見捨てる気にはなれなかったのだ。
「…何を言っているの?」
一方でペイルーは、自分の失言を棚に上げて突然のアリバルボリの発言に混乱していた。記憶が曖昧だ。私はなぜ、ここにいるのか?私は魔導兵として大義を持った存在だったはずだ。そんな「昔の懐かしい記憶」がなぜか曖昧になっている。まるで、幼い頃に犯した忘れてしまいたい失態のように…
「私は…協力者なのよ?君には背中を預けられないと、言ったはずよね?」
まとまらない思考の中、ペイルーは何とか言葉を紡ぐ。自分でも自分が何を考えているのかわからない。一度、一人になって落ち着く時間を作らなければ。けれど、この心の底から湧き上がる高揚感は一体?いいや、落ち着かなければならないのだ。そもそも、ここはどこなのだろうか?確か、自分の口はここはハーデル・ロンバルトだと言っていた。
「…敵を、殲滅しなければならないわね。実力のある兵士を集めてはくれない?いくら私といえど、人数不利は覆せないもの」
「お、おい!待てよ。まだ話は終わっちゃいねえ!…まだ、そう、まだだ。まだどうにかなる!少し、考え直してはくれないか!?」
アリバルボリからすれば、別にペイルーがどうなったとしても不利益を被ることはなかった。つまるところ、彼女がどうなったとしても彼の知るところではない。しかし、彼の予感が正しかったとするならば。彼女は確実に破滅を迎えることになる。悪い悪い魔女様に否応なしに忠誠を誓わされ、文字通り死ぬまで働くことになってしまうのだ。それは嫌だ。悲惨な最期を迎える存在を見ると胸糞悪くて数日は眠れない。だからアリバルボリは折衷案を提案する。少しでも、この心臓を握って離さない嫌な気持ちを和らげるために。
「ああもう、俺は知らねえからよ?まだ理性があるとしたら、何が敵で何が味方かは区別しろよ?」
「勿論よアリバルボリ。私は森の遷移を司る神の忠実なる従者。君がタリータ様の味方でいる限り、私も君の味方だから」
くるりと立ち上がり、深紅に染まった瞳を輝かせるペイルーを見て、アリバルボリは今までの自分の努力が無意味で、既に手遅れだったと悟る。そして、これから面倒なことが起こるという確信を胸に、心の中で力の限り叫んだ。
…クソッタレ!




