西風の便り
久しぶりな気がするアレクト視点会です。アレクトは可愛いですね。是非、死ぬまでには書籍化してイラストを描いてもらいたいところではありますが、この調子では無理でしょうね。私も身の程を知らぬ年齢ではありませんので、諦観というやつです。話は変わりますが、次回、第一部最終話になります。綺麗にお話を畳めるように頑張らせていただきますので、ほどほどに期待していてください。
「…点滴は、点滴は必要ですか!?」
「それよりも止血が先だ!くそっ、この惨状じゃあもう助からないってのに、お偉いさん共、魔導兵だけは積極的に支援しやがる!」
懐かしい、とは言い難い気配にあてられて目を覚ます。眩暈の時のように重い頭を横に動かしてみると、本来ならば汚れるはずの無かった白衣に血を滲ませ、人間を生かすという与えられた者にしかすることのできない特権的行為が行われているのが見えた。しかし、天井は布で、それに静寂と消毒液の匂いもしない。
「…野戦病院?」
だとすれば、そこまで考えると自然と答え合わせをすることができた。本来ならばこんなことを言うべきではないのだろうけれど、あまりいい気分ではない。血生臭いし、そして人が必死になって働く光景を見ていると頭痛が酷くなり、とてもじゃないが耐えられそうにない。
「その様子ですとあまり気分は優れない様子ですね。嗜好品の余りはありませんが、そうですね。携行用チョコレートならございますが」
左下の方から声が聞こえたので首を上げ、その方向に視線を向けてみると、そこには白衣を着た、しかしこの雰囲気の中では妙に落ち着いた様子でいる眼鏡をかけた男性がいた。彼は私と視線が合うと目を読んでいた本を閉じ、儚げに笑ってみせた。
「…結構です。アレは、人間が生にしがみつく時のための食べ物ですので」
アレは、チョコレートという名を冠しただけの茶色の塊は、人間が食べるために作られたものとは到底思えない代物だ。確かに栄養満点なのだろう。しかし、栄養満点なだけで、その他に人が食べるに値する条件は満たしていない。死ぬかそれを食べるかなら渋々口にはするが…といった程度の物体だ。決して、こんなか弱き乙女の口に突っ込んでいいものではない。
「そうですか。それとも、私はご迷惑でしたか?よければ、席を外させてもらいますが」
優しい目線で目の前の男は私のことを見ているが、肝心の彼はいったい誰なのだろうか。少し身体の調子も回復したので上半身を起こしてみると、彼は白衣を纏っていた。与えられた情報から考える限り彼も医者の一人のようだけれど、それにしてはやっぱり彼は落ち着き過ぎている。そして、一人でも多く人手が欲しいであろうにも関わらず、慌ただしくテントの中を走り抜ける人たちは彼を無視している。はっきり言って異様な光景だ。
「いえ、むしろここにいてほしいくらいです。…その、随分と騒がしいみたいですし」
「そうですか。私としてもアレクト様に暇を出されてしまっては、ヴエルフォード博士に見せる顔がありませんでしたので。…おっと、どうやらアレクト様は私のことを覚えていないご様子。ハイドリートと申します。元々は魔導兵を専門に活動していた魔導医師でしたが、残念なことに殺されてしまいまして。貴女様と同じ魔導人形となりました。何卒、よろしくお願いします」
「…どうも。ご存じのようですが、アレクト・フォン・リーベです。こんなことになっていますが、元は一応貴族でした」
私がとりあえず、と思ってハイドリートに自己紹介をすると、彼は感極まったように胸を押さえ、たまらず地面に跪こうとする。完全にそうだという確証はないが、私の十七年と少しの貴族人生で培われた直感がそう言っていた。
「ハイドリート、そのくらいに。アレクト様はそういう方ではないと博士も言っていたではないですか」
「テレキアですか。随分と遅いお帰りですが、どうかしましたか?」
しかし、今の時代ではあまりにも仰々しすぎるそれは、新たな客人の登場で阻止された。ハイドリートからテレキアと呼ばれたその人は片目を眼帯で覆い、そして表皮に金属を接合したような痕跡がある。
「アレクト様、テレキアと申します。ハイドリートと同じように訳あって魔導人形となりました。ヴエルフォード博士より、貴女様の護衛の任を賜っております。どうぞ、遠慮なくご命令ください」
テレキアはハイドリートの言葉を無視し、私に最敬礼の角度で一礼した。私が言うのも何だが、この空間の中では二人は異様だ。特に慌てている様子もなく、ただ私のためだけに意識を割いてくれている。
「アレクト様、遅くなってしまい、申し訳ありません。ランカラで戦死した魔導兵の死体の回収に手間取ってしまいまして…」
「そうですか。それに、テレキア。そこまで畏まらなくてもいいですからね。せっかく同じ魔導人形なんですから、仲良くしましょう?」
「それは…いえ、申し訳ありません。やはり私の任務はアレクト様の護衛ですので、あまり馴れ合ってしまいますと…」
「任務が果たせなくなってしまいますか」
「申し訳ありません」
表情を強張らせながら謝罪の言葉を口にするテレキアに、私は気にしていませんよと優しく微笑む。テレキアはビクッと体を震わせたが、私の意図に気がつくと控えめに体の力を抜いた。
「…それでは、アレクト様。私共はアレクト様が四〇一特別魔導小隊に復帰するまで身辺の世話と護衛を任されているのですが、どうなさいますか?軽く診断を行ったところ、魔力を使わなければ特段問題となるような怪我はありませんでしたが…」
「ハイドリート、つまり、どういうこと?」
「…アレクト様次第ですが、移動することもできるということです。こんな所と言いたくはありませんが、我々はアレクト様のことを第一に考えて行動しなければなりませんので」
テレキアはハイドリートのため息交じりの返答を聞くと少しだけ眉を動かし、その後は手を後ろに組んで大人しくなった。ハイドリートはやれやれと言わんばかりに肩を竦めると、こちらへと振り返り私の顔色を窺う。
「…それではここから場所を変えましょうか。こんなところで話していても、迷惑になるだけですからね」
◇
私の最後の記憶とは違い、いつも通りの灰色に戻った空の下を車が颯爽と駆け抜ける。整備が行き届いていなかったせいか道路はガタついており、下手に喋っては舌を噛んでしまうだろう。起きた時には病床に伏していたので確認する術はなかったのだが、私が持っていた二つの剣はハイドリートが回収してくれたらしい。私は二つの剣を抱きかかえ、車の後部座席に座っている。
「ハイドリート、差し支えなければ車はどこに向かっているのか教えていただけますか?何も行く当てもなく車を走らせているわけではないのでしょう?」
「ええ。現在は撤退ラインであるバルトニークまで車を走らせています。恐らく、二三時間で到着するでしょう。本当はもう少し速度を出したいですが、路面がこの状況ですのでね」
そう言ってクランハルトは苦笑いをするのをバックミラー越しに見ることが出来た。今までは魔動力機に頼っていたせいであまり感じられなかったが、インフラ面でもこの有様ということは、他のところではもっとひどいことになっているのだろう。幸いにもそのツケが魔導兵には回ってきていないが、徴兵された人のことを考えると他人事ではいられない。
「…いえ、そろそろ第二軍の管轄に入ります。ここまで来れば揺れもある程度は改善されます」
「テレキアは何か知っているのですか?」
「私の生前の配属が第二軍だったというだけです。第二軍は第三軍の予備兵力としての役割もありましたので、兵站に特段力を入れていました。ですので、迅速な兵力の展開のためにもインフラ面には力を入れているのだと、聞きかじったことがあるだけです。…噂をすれば、これならばもう少し快適なドライブになります。…ハイドリートが事故らなければの話ですが」
私がほうほうと頷きながら話を聞いていると、最後の最後で聞きたくなかった言葉を聞いてしまった。まさかと思ってハイドリートの表情をバックミラーを使って窺うと、露骨に目が泳いでいる。
「…流石に今回はアクセルとブレーキを間違えて建物に突っ込んだりはしません。それに今回はアレクト様を乗せているのです。ハンドルを握る手にも自然と力が入りますよ」
「ハイドリート、私は残念ですよ。最初にあんな冗談を言ってくれて私は嬉しかったのに、当の本人が緊張しているのですか?」
「うぐ、流石にそうなりますよね。そうです、私は緊張していますよ。博士から突如としてアレクト様を迎えに行けと言われたあの時から、ずっとありもしない心臓が激しく拍動しっぱなしです」
「ハイドリートはこう見えて女性が非常に苦手なんですよ。いえ、苦手というより、弱いと言った方が適切ですかね」
そう言ってテレキアはやれやれと言わんばかりに肩を竦めた。
「雑談に花を咲かせるのも構いませんが、我々の役目はあくまでもアレクト様の安全を確保することですからね?…テレキア、聞いていますか?」
「私が博士に言われたのはアレクト様の護衛ですから。常に周辺の警戒を欠かしてはいません。ですから、アレクト様の面倒はハイドリートに任せます。それに、元々そういう予定でしたよね?」
ハイドリートは同性であるテレキアに私のことを任せようとしたが、案の定あっさりと断られてしまい肩を落とす。そんなにもなのだろうか。もしかしたら、ハイドリートは過去に女性と揉め事があったのかもしれない。
ハイドリートは困ったように頭を掻くと、もう一度息を吐いて姿勢を正す。
「…アレクト様がどこまで把握されているのか分かりませんので、まずは情報の共有と行きましょうか」
「お願いします。私も『王子』と戦っただけなので、一体何が何だか全く分からなくて」
本来はもっと早く行うべきだったかもしれないけれど、まあ、それも今更だ。車窓の外に目を向けると、列車がこちらを丁度追い越そうとしているのが見えた。大陸縦断列車だ。今回はどちらかというと物資を輸送しているらしい。あの調子だと途中の集積地点に停車することを考えてもあちらの方が先にバルトニークに到着しそうだ。
「先に結果を言ってしまいましょう。四〇一特別魔導大隊が自らを顧みず、ラグノーブルからの強行軍で防衛戦闘を行った結果、ランカラの防衛は成功しました。襲来した特別脅威度区分、『魔女』、『王子』そして『道化』は撃破され、人的被害は最悪のケースから逆算した結果最小限にとどめることに成功したそうです」
まるでどこかに台本を隠し持っているのではないかと勘繰ってしまいたくなるほどにハイドリートはつらつらと言葉を紡ぐ。『魔女』は少佐が、『王子』は私が倒したとして、まさか『道化』までもがランカラに来ていたとは。恐らく、クランハルトがやったのだろう。『道化』の工作活動は兵站維持の観点からは非常に脅威だが、彼の戦闘能力はそこまでではない。顔見知り?でもあるので多少は可哀そうだが、まあ、これが自然の摂理というものだろう。
「ハイドリート、私たちのことはいいの?博士からも説明するように言われていたと思いましたけど」
「…今から話そうとしていたところです。むしろあなたが話してはいかがですが?少しぐらい運転に集中させてください」
「そうですよ。あ、もしかしてテレキアは私のことが嫌いだったりします?私個人はそうでもなくても、貴族に何か嫌な思い出があったり」
「あー、アレクト様?あまりそのことについては気にされない方がよろしいかと…」
テレキアからはハイドリートととは何か別の種類の苦手意識のようなものを感じていた。ハイドリートのものが根源的な恐怖に準ずるものだとすれば、テレキアのは経験からくるもの、つまりトラウマのように思える。自分がかつて経験した嫌な記憶を参照し脳が私のことを拒んでいるとでも言えばいいのだろうか。ハイドリートとは違って、テレキアは拒否反応を示すのにタイムラグ、つまるところ違和感がある。
どうやらそんな私の直感は間違っていなかったようだ。ハイドリートはテレキアの方を控えめに伺い、当の本人は、俯いて拳を硬く握っている。
「…ハイドリート、いいから。アレクト様は、本来ならばどういった人間が魔導人形へと加工されるのに適しているのかご存じですか?」
「いえ、私はヴエルフォードから魔導人形とは高い魔導適性を持った魔導兵を再び戦場に立たせるための技術だと教わりましたので、そのような基準が存在することなど全く…」
「そうでしょう。何せ、博士は腹黒いお方ですから。”丁重に歓待してくれる”顧客の不興を買おうとはしないでしょうから」
あくまでも冷静を保っていますと言わんばかりに表情を固定し、ぽつりぽつりと呟くように喋るテレキアだったが、その瞳には確実に憎悪の炎が燃え上がっていた。
「ご存じかは分かりませんが、人間の死体を魔導人形へと加工する際には液体魔力に体内に残存する僅かな魔力と記憶を保存します。そうすることで自我を長期的に保存し、そして外側から記憶を閲覧することができるんです。そうすることで魔導人形は生身の頃と同じ外見を保ったまま復活することができる…ここまではお分かりいただけましたか?」
「ええ、確かにヴエルフォードもそんなことを言っていたような気がします」
「ですが、この過程にはひとつだけ人間が魔導人形になるにあたって、人間とそうでないものの境界が著しく薄れる場面が存在します」
「液体魔力の時ですね。その時だけは人間だったものと液体魔力が混ざり合って、残骸は混合物の一部になります」
私が首を傾げながら答えると、テレキアはまさかこんなにも早く返答が返ってくると思ってはいなかったようで、はっと顔を上げ、気まずそうに外の景色へと目をやった。
「その通りです。聡いアレクト様ならば、ここまで言えばつまりどういうことか分かるのではありませんか?…その、私としてもあまり自分の口から言いたくはありませんので」
誰だって自分の口から己の黒歴史を暴露したくはないだろう。私だってそうだ。誰だって、世界に刻まれた己の失態は一刻も早く消し去りたい。その結果他人との関係性にまで波及するなら尚更だ。
「分かりました。テレキアは優しいんですね。あまり良くない印象を持っている私にも、わざわざ懇切丁寧に教えてくれるのですから。この世界では正義などというものはあまりにも容易く一蹴されてしまいますが、きっと、貴女は報われるはずです」
「…それは、ありがとうございます」
テレキアは困ったように視線を泳がせたが、少しすると再び俯いて小さくそう呟いた。先入観とトラウマを取り除くのは中々大変だろうけれど、私はそうではないのだと少しだけでも理解してもらえたなら幸いだ。
「そう考えると、ヴエルフォードは本当に相当貴族らしい人ですね。いえ、科学者らしいと言えばいいのでしょうか。私にはマッドではないと言っておきながら、これではただの嘘つきではないですか」
相当なトラウマを抱えて死んだ人間を錬金術のような手口で再び現世に縛り付け、しかし再び生を与えたという恩を返させるために自ら進んで手駒に立候補させる。本当に汚い貴族の外堀の埋め方と手口が似通っている。テレキアはそうだと言っていたが、もしかしたらハイドリートもそうなのかもしれない。苦労人というイメージの彼だが、このご時世を考えるともみくちゃにされ、いともたやすく命を奪われたとしてもおかしくはない。
「ですから、魔導人形となったにもかかわらずそのようにお元気でいられるのはアレクト様ぐらいなのです。今更羨ましいとは言いません。ですが、二度目の人生は一度目よりも多くの陰謀に巻き込まれることでしょう。どうか、お気を付けて」
テレキアは私への態度を少しだけ軟化させながらそう言って話を終わらせた。エンジン音と、タイヤと地面が摩擦で擦れる音だけが車内に響く。
「ハイドリート、何か話してください。気まずいですよ」
「私からもお願い。この際面白い話でもいいから。あ、歌でもいいよ?」
「そんな無茶言わないでくださいよ。私が振れる話題なんて、それこそ情報共有ぐらいですよ。それも、あまり大したことではありません?」
私とテレキアはそんな空気に負け、たまらずハイドリートに話題を振った。何でもいい。とにかく、もう少し希望を抱ける話を聞いて気持ちを和ませたい。その一心だったが、そんな真摯な気持ちはハイドリートにも伝わったらしい。彼は凝った肩を回すと、記憶を辿りながら堅苦しい口調で話し始める。
「それでは、話を戻すとしましょうか。アレクト様が意識を失っていた時の話です。アレクト様も一騎当千のご活躍をなされた今回のランカラ強襲を受け、C軍集団は新大陸から最低限の戦力を残して全面的に撤退することを決定しました。艦隊保全主義に乗っ取り軍港に籠るばかりの海軍と、新大陸をないがしろにし続けてきた旧大陸の貴族への抗議の意図を含めた撤退だそうです」
「確か世界大戦の時もそのような話はありましたね。あの時はまだ帝国にとって新大陸はただの広い土地ぐらいの価値しかありませんでしたが、大丈夫なのですか?」
帝国にとってかつての新大陸はそれこそ農地に適しただだっ広い平野が広がっているだけだったが、現在のランカラ都市圏は帝国の約半分の生産力を持っていると言われている大都市だ。それを放棄するとなると、短期的に見れば問題ないだろうが、長期的には色々なことが問題として浮き彫りになるはずだ。市民の生活の質は低下し、そして農地を放棄したことによって慢性的な食糧不足に陥る危険性もある。政治的ないざこざがあったとしても、新大陸からの全面撤退というのは少しばかりやり過ぎのように思える。
「どうやら撤退したことによって生まれる余剰戦力を旧大陸での大規模な反攻作戦に充て、その返す刀で新大陸を再び取り返すという算段らしいですよ?これは司令部にお邪魔した時に噂話として聞いたものですので真偽の程は定かではないですが、もしそれが本当だとすれば、その通りに行くのかは私としては少し疑わしい限りです」
「だけど、今回までではないにしろ、世界大戦で帝国はやってみせたんじゃなかったけ?」
テレキアの質問にハイドリートは渋い顔をして何か考える素振りをし始める。コルト帝国はかつての世界大戦でハルパリ帝国という納屋を力技で倒壊させ、連合王国は国力の差で降伏に追い込んだ。それに間違いも、虚偽も無い、実質的な三方面作戦となった帝国の奇跡の反抗。今の帝国がいつまでもそれを誇りに重い、引きずり続けている過去の栄光だ。それがたとえどれだけ無茶だとしても、過去にその無茶をやってのけたという事実はどこまでも有意義な議論の障害となる。昔もできたのならば、今回も。そうした一種の思考放棄は伝統的に大きな間違いを起こす。それに気がつくか否かは、残念な事に私達には委ねられていない。
「ですが、今回はそうもいきません。前回とは違い、軍質も、そしておそらく物量もあちらが上です。それに、相手には『魔女』ように一人だけで都市を壊滅させられるようなネームドが沢山います。今後どうなるかも確かに大切かもしれませんが、間違いを犯すのか、それとも賢明な決断を下すのかは上が決めることです。…私達は地獄に囚われの身ですから」
「そう、ですね。アレクト様の言う通りだと思います。…あの時の私がもし愚者であることを認めていたのならば、きっと、ここにはいなかったんでしょうね」
テレキアは瞳から一筋の雫を垂らす。それは頬をつたい、団結の象徴へと消えてゆく。戦場で悲惨な死に方をするだけが戦争の犠牲ではない。己の人格を否定され、一人の人間であることを強いられる戦争は決して数値では分からないけれど、確実にそれ以上の犠牲を払いながら行われる。失ったものは、もう二度と戻らない。もし、全て終わった時、私は、私を残したまま大地に立つことができるのだろうか。
「…こうも後ろ向きになってはいけませんね」
人らしく愚かで、どうしようもないくらい強欲ならば確実に自己を保ったままいられるだろうに、どうして私はこんなにも理性人たろうとするのだろうか。知というのは本来とても脆弱なもののはずなのだ。全てを己と相対的に比較し、ほとんどは己の無力さをただ自覚させられ、否定される。知ったから、欲ができる。私は全てを守りたい。眼下に広がる、ただ美しい幻想風景のその全てを。
「あの人は、レーリッヒ閣下は一体何を考えているのでしょうか」
レーリッヒ閣下が何を考えているのかは分からないけれど、政争のいざこざのためにここまでしてしまっていいのだろうか。年末の帝国舞踏会を二ヶ月後に控えているとはいえ、これではあまりにも混乱が波及してしまう。知と上手く付き合っていくにはこれくらいがちょうどいいのだ。満たされないということは、いつまで経っても視野が狭窄ということ。限界を知る必要もない。お父様ともしばらく会えていないし、お父様なら何か知ってるかも…アレ?
「…そういえば、お父様はどうして私が目覚めた時には既に旧大陸へと向かっていたのでしょうか。あの人のことです、全て計算した上での行動に違いありません」
この慌ただしい感じ、どうしてか家にいた時のことを思い出してしまう。よく考えてみれば、レーリッヒ閣下はどうして新大陸からの撤退を決断することができたのだろうか。九十万人という人数を旧大陸まで輸送するには相当数の艦船が必要になるはずだ。大規模な船団を編成すれば、敵艦隊も遅かれ早かれその情報をキャッチするだろうし、そうなれば護衛も無しに快適な海の旅は実現しない。ランカラを母港としていた第二艦隊は主力艦を失った半壊状態で、船団護衛には心許ない。
何とか海軍とコンタクトを取ろうにも、そのためには旧大陸まで出向かなければならない。だが、常に緊迫した状況にある新大陸から最終決定権を持つ人間が去るという隙を見せればネームドらは今が好機と言わんばかりに動き出すというのは想像に難くない。それこそ、今回のランカラ強襲のようなものがもっと早期に発生する事になっただろう。
「それじゃあ、レーリッヒ閣下は首謀者ではないと?」
無くはない、というか、そう考えるのが妥当だろう。それに、そうだった場合の方が無難な説明ができる。C軍集団の面々と親しくかつ、現在旧大陸にいて、おまけにネームバリューがある人間。そんな人物は私の知る限り一人しかいない。五大貴族筆頭の、伝統あるリーベ家の現当主。
「…お父様だ」
ひとつひとつの小さな違和感がようやく線で繋がった。こうも結論が出てしまうと、どう考えてもお父様が旧大陸の方で年柄もなくやんちゃしている絵しか思い浮かばない。一体どうしてそんなことをしでかしたのだろうか。…まあ、暴君の気持ちを慮るのは無理がありますよね。
「となると、レーリッヒ閣下はどちらかといえば被害者?…不味いかも。せっかくいい感じの第一印象を与えて終われたのに、これじゃ全部が台無しだ…」
相当揉まれることになるんだろうなと、堪らず口から溜息が溢れる。振り回されるのには慣れているけど、だからといって振り回されてもいいとは一切言っていない。せっかく手に入れた個人的なコンタクトが、どうしてこんなことに!
「…人生ってこんなにも上手くいかないものでしたっけ?」
順風満帆を望んでいたわけではないけれど、だからといって四苦八苦な人生でもでもいい訳でもない。気分転換に車窓から外の景色を眺めると、流氷が混ざる海に鉄の城が荘厳な雰囲気を纏って浮かんでいた。
「…なんだか、こうなってしまっては謀がこれだけ考えにくいですね。これは、何かもう一つ良からぬ計画が裏で動いている気配…」
海軍の方は司令部の決定によって簡単に動かすことができるだろう。しかし、どうやって九十万人を輸送できる規模の船団はどうやって組織されたのだろうか。恐らく、ここまでの規模になってくると民間からも徴収しなければいけなくなってくるはずだ。だとすると、流石のお父様でも厳しいものがある。リーベ家は貴族界には顔が広いが、民間にはあんまりだ。
「だとすると、他の大貴族が関わっていると。五大貴族か、はたまたB軍集団か。…はあ、殺し合いの次は、謀り合いですか。まあ、私からすればそっちの方が楽なんですけど」
新大陸と旧大陸を隔てるオリビア海は奇妙な程に青い空に覆われ、私の道なる旧大陸への旅路を歓迎してくれているように見える。しかし、その道は本当に善意で引かれているのだろうか?北極からの寒流によって裂かれて出来た雲間は、少なくとも私の目にはそうは見えなかった。




