ランカラ攻防〔下〕
第一部の登場人物のほとんどを巻き込んだランカラ攻防の最終章です。ランカラでの動乱はこれにて終わりますが、第一部はもう少しだけ続きます!ここまで読んでくれている数少ない読者の方に感謝を。新着作品の方から気まぐれに見つけた方々はぜひ、最初から読んでくださると、私としても幸いです。
「捉えた」
一度だけ、刃を交えたことがある。コードネーム『魔女』。特別脅威度区分の中でも最も派手で、それで且つ凶悪な大規模魔法を意のままに操る正真正銘の化け物。今まではクランハルト率いる新大陸派遣魔導連隊の多大な犠牲を伴う奮戦によってなんとかラグノーブルという北の閉ざされた大地に縛りつけることに成功していたが、それもこれも、彼女からすればただ矮小なる存在とのくだらない遊戯にでも付き合っていた程度のことなのだろう。
太刀に魔力を纏わせ、斬撃を飛ばす。あらゆるものを切断するという指向性を持った魔力は空間すら切り裂き、何にも阻まれることなく『魔女』へと向かうが…
「やはりか」
命中する直前で魔力がかき消された。やはり、相当強力な魔力か、あるいは直接攻撃では効果が見込めないか。
「ならば、太刀に纏わせればあるいは?」
魔力で攻撃しようとするから効果が今ひとつになる。ならば、魔力をあくまでも現象を増幅させるために使えば?身体強化と同じ原理で太刀を鋭利にすれば太刀は魔力を帯びるが、しかしそれはあくまでも物理攻撃になる。そしてその上から熱への耐性も付与してやれば、『魔女』との戦闘には不足がないものとなる。
「初めましてかしら?それとも、どこかでお会いして?」
「これで二度目だ。そして、三度目はないだろうな」
『魔女』はこちらの接近に呼応して剣身の燃え盛る大剣を顕現させた。その邪悪な魔力の気配はあの時ヘストリカが使った剣と似た雰囲気がある。仮称として魔剣としておこう。…纏う邪悪な魔力からも、最適な名前だろうしな。
「防衛線を穿つ剣技」
魔剣の炎が万物を焼き尽くさんとより一層燃え上がり、凄まじい熱波を放ちながらこちらへと向かって来る。私は太刀で剣技を受け止めようとするが、それと同時に悪寒が走り、咄嗟に軌道を変えて回避行動を取った。魔剣が放つ炎により魔力でできた防護膜がダメージを受けるが、私の勘が正しければ回避しなければこの程度では済まなかっただろう。
「随分と勘のいいこと」
「その剣、実体がないな?危うく死にかけるところだった」
「あら、私としては死んでもらうつもりだったのに」
『魔女』は妖艶に微笑み、優雅に空を舞いながら剣を振るう。大雑把で本来ならば隙だらけの動きのはずだが、今回は『魔女』が魔力を炎に変えて身体を守っているせいでなかなか攻めに転じることができない。物理的に心もとない空を蹴り、熱波を吸い込まないように細心の注意を払いながら姿勢を立て直す。
空中戦はあまり経験がない。それに、本来ならば必要とされない技能だった。魔導兵が空を飛ぶのはあくまでも魔動力機という発明品があるからに過ぎない。しかし、世界というのはどうしてか広いもので、空中戦に覚えのある魔導兵はこの帝国にも存在はする。あまり知られていないが、クランハルトがその最たる例だ。クランハルトはこの高密度な魔力の中で魔動力機を操って戦っていたという。命を賭けた肉薄を何度も行い、そしてどうしてか今までで生き延びてきたのが彼だ。…こうなることがわかっていれば、コツを教えてもらっておくべきだったな。
それに、旧大陸では航空戦用の為の魔導兵を練兵中だとも風の噂で聞いたことがある。無骨かもしれないが、さしずめ航空魔導兵といったところだろうか。…いかん、何故か使ってはいけない雰囲気がある。
「魔力残量は後二割。三十分は持つか?」
『魔女』が振るう魔剣を回避しつつ、強行軍のせいで心許ない魔力残量を皮算用で弾き出す。熱から身体を守る為の防護膜を最低限の使用にすればもう少し余力は生まれるが、そうすればリスキーな戦いを自ら強いることになる。それに、何とか接近してダメージを与えないことには戦いはいつまで経っても膠着状態のままだ。リスクを取るというのに、その前提の段階で賭けに出るのは愚の骨頂だろう。
「…とは言っても、そもそもこれ自体が無茶か。いや、そう考えてもこうする他なかっただろう。軍隊である以上、どうしようもないな」
もし、アレクトだったらどうしただろうか。しばらく誰かと共に戦場を駆ける経験をしていなかったせいか、どうも人間の温かみを私は自然と求めてしまっていた。あの何を考えているのか分からないあのやんごとなき彼女ならば、きっと訳のわからない思考回路を以てして、突拍子もない行動とともに勝利を手にしていただろう。
しかし、私はどうだろうか。私はあまりにも軍に長く浸かりすぎた。もう元に戻ることはできないだろう。出来る限りオブラートに包み、優しい言葉で出力したとしても、今の私は指示待ち人間だ。けれど、まだアレクトは大丈夫だ。そのためにも、今日を生き延びてもらわなくてはならない。合理的と人情は時として相反する審判を下すが、少なくとも今は問題ない。…やってみせよう。こんな私でも、一応は帝国最強なのだ。
「ふうん、私を撹乱でもするつもりかしら?」
魔力で幻影を作り、自分の存在を限りなく薄めると、『魔女』は余裕綽々と言わんばかりにころころと笑った。そしてゆっくりとあたりを見渡し、優雅に微笑む。
「いらっしゃい。どこからでも受け止めて差し上げましょう」
「雨氷渡り」
己の影を魔力によって顕現させる。言わば、可能性の塊。もしかしたら存在したかもしれない私の一瞬。私がそれらを全て自分の一部だと認識すると、影はたちまち意識を持ったように動き始め、畳み掛けるように『魔女』を攻撃する。
「…あまり効果はないか」
ペイルーとの戦いでは上手くいったが、やはり魔力を見る目がある連中には効果が薄い。最小限のダメージで受け流され、何とか与えたかすり傷も火焔に包まれたちまち塞がった。
「その程度かしら?人間は随分と小手先で実力を計ろうとするのね。それで死んでしまっては、何も意味はないというのに」
「クランハルト達のことか?彼らは全力だったぞ。死力を尽くして、貴様の悪戯に敗れたのだ」
「それは残念。クランハルトも、手加減をしなければ死んでしまったもの。けれど、貴女はそう言うからには違うとでも?」
「無論だ。国を背負って、常人でいられるわけがないだろう」
魔力の強度を無理矢理強めて『魔女』にダメージを与えるが、しかし、彼女が纏う灼熱の炎のせいでそれは掻き消され、致命傷には至らない。
「貴女自身も、こんなことをしていても無駄だと分かっているのでしょう?」
「…それはどうかな。私は決して無駄ではないと思うが」
努力とは、極限まで斜に構えて言えばただの自己満足に過ぎない。それを評価しようという風潮はつまるところ、長年続く価値観の継承の結果だ。
「だが、本当にそうか?」
「あら、随分と強がりなのね」
「私には、これは愚かな抵抗には感じないな。何故なら…」
努力にはそれが成果へと変貌する瞬間が存在する。つまり、百と、九十九だ。そこの間には途方もない差が存在する。ならば私は、常に百を献上しなければならない。
「お前が私と戦っていれば、灰燼に帰す魔法陣は発動しない。違うか?」
「…それは、どうかしらねっ!」
どうやら図星だったらしい。私が『魔女』と戦闘を始めてから、魔法陣が放出する魔力の量は僅かにだが低下している。それはつまるところ、魔法陣に魔力が供給されなくなったということだ。まさかとは思ったが、やはり、策謀の面においては我々の方が一枚上手ということだろう。
「…だが、後魔力はどれぐらいもつ?戦えなくなっては本末転倒だ」
けれど、それでもこの戦いは最悪の結末を先延ばしにしているだけで根本的な解決にはなっていない。…決着を、つけなければ。一度そう思ってしまっては、どうしても限界を感じざるを得ない。一体いつからだろうか、孤独を孤独と感じるようになったのは。独りではなくなったからか?
「…そうだな。ならば、帰らなくてはならない」
太刀へ魔力を流す。魔力が飽和することによって太刀は極限まで「私」と同質の存在へとなり、一方で体内の魔力は空っぽだ。
「…アレクトは、私が物言わなかったとしても満足してくれるだろうか?」
満足してくれる、という考え方自体、間違っているのかもしれない。アレクトにとっては、私は歯牙にもかけない存在のはずだ。奴は貴族なのだから、私のことはどうでもいいのだろう。寂しいが、現実は非常だ。ならば、これこそ本当の自己満足。ただ、私が護ることができたと思えればいい、私なりの独断専行。
「雷霆」
音すら置き去りにして『魔女』へと肉薄する。魔力が強大で障壁となるのならば、より強力な魔力で打ち破るまで。残りの魔力の殆どを使えば、それすら可能だろう。致命傷を与えてやれば肉体の維持のために魔力を使うのが精一杯となって、魔法陣への魔力を供給する暇が無くなる。聡いならば、撤退を選択するはずだ。生きていれば、また来れるのだから。
「防衛線を穿つ剣技」
紫電が空を裂く。閃光が先か、それとも紫電が先か。光すらも追い越して、必殺の一撃は『魔女』を貫いた。
「…っ!何故、生きている!」
…はずだった。魔女は紅蓮の炎を黒く、おどろおどろしく変貌させつつも健在だった。但し、炎を纏った魔剣はボロボロと崩れ落ち、その表情も気持ち強張っているように見える。
「貴女が私を殺さないといけないのと同じように、私は貴女に殺されなければいいの。それくらい、分かっているでしょう?」
『魔女』は私の魔力がついに底を尽きたを察してか、より一層妖艶に微笑み、そして手を天に掲げる。
「灰燼に帰す魔法陣」
ランカラの空を覆う分厚い曇天を貫き、その魔法陣は完全体として顕現する。赤い灰が大地へと降り注ぎ、それは万物を滅ぼしながら消えつつ、また現れる。
「さようなら、帝国の剣姫」
◇
「…どうした?アルテーヌよ」
「ランカラが、私が祝福した都市が落ちようとしている」
「そうか。…どうした?まさか、征くつもりか?」
男の質問に、アルテーヌと呼ばれた女性は目を輝かせつつ答える。
「勿論。私が征くわ」
「眷属神如きに不覚を取り、あまつさえこの失策続きだ。アルテーヌ、余は其方の手を煩わせる必要はないと改めて思うがね」
男はため息混じりにアルテーヌを宥めようとするが、しかし、アルテーヌも既に決意は決まっているようで、普段ならば静かに従う彼の言葉にも首を横に振った。
「懐かしい気配がするの。むかしに、遠い昔に接触したことのある神の気配がする」
「四柱か?ならば、新大陸に何故…」
「違う。私の知る限りの最も崇高な存在のうちの一つ」
「古則の連中か?『終焉』か、それともこの星を狙う『集約』か?」
「違うわ。私の記憶が正しければ唯一古則から逃れることを放棄した女神がいる。魂を如何に変容させようとも間違いはないわ。きっとあの方、『時間』を司る女神様がそこにはいる」
どこか気持ち嬉しそうに語るアルテーヌを見て、男はやれやれと言わんばかりに肩を竦めた。
「ならば、好きにしろ。幸いにも今は神代の者共が跳梁跋扈している。…だが、加減は忘れるなよ?余は、世界大戦での其方の失態を忘れてはいないからな」
アルテーヌは「わかってるわよ」と言いつつ、男にウィンクをして姿を消す。男はそんなアルテーヌの破天荒ぶりに眉を顰めつつ、けれどいつまでも変わらない神の普遍ぶりに相好を崩した。
「…そうか、其方も動くのだな」
◇
「…っ!くそっ、体が言うことを聞かない…」
魔力が払底する。今まで経験したことはないが、そう直感的に理解することができた。先ずは身体が重くなり、その次に浮遊感もなくなる。このままでは地面に打ち付けられる。だが、今の私には何もできない。下手に動けば『魔女』に迎撃され焼き切られてしまう。
「…頼む、まだ持ってくれ」
悲鳴をあげる体を何とか空中に持ち上げ、太刀を振るう。まともに身体強化すら纏えないせいで降りかかる火の粉が私を焦がしていく。
「今のまともに魔力に抵抗することもできない貴女では魔法陣を斬ることはできないでしょう?とっとと消え失せなさいな」
「がはっ…駄目だ。私は義務を果たさなければならない。貴様のような自由人とは違ってな…!」
「…ほんと、無知というのは羨ましいわね。滅びなさい防衛線を穿つ剣技」
私の太刀は炎の魔剣と交差し、魔剣が放つ熱によって熔け落ちる。
「くっ…!」
熱によって目がやられる。炎の渦に飲まれ、私の身体を覆う魔力の膜が無惨にも剥がれていく感覚が否応にも伝わってくる。後悔はない。いつしか似たような終焉を迎えることには変わりがなかったはずだから。ただ、一つだけ心残りがあるとすれば…
「…アレクト、お前は無事か?」
熱波によって揺らぐ視界と、遠ざかってゆく意識。それでもと手を伸ばしてみるが、乾いていく右手は虚を掴むばかり。そこにはもう、何も無い。魔力なる到底この世のものとは思えないもので一つの隆盛を生きた自分には相応しい死に様だ。
『本当にそうかしら?』
─誰だ?
五感が薄れ、やがて何もかもを感じられなくなる意識の中、誰かが私に話しかけてくる。声色からして『魔女』ではないのは分かる。ただし、言っている内容は意味不明だ。
『そうやって全てを投げ出してでも愛した世界を守ろうとするその志、私が気に入っただけはあるわ。でも、そう。数奇な出会いなのね。それなら、私も応援させてもらうとしましょうか。…あ。だけど、あの人には秘密よ?あまり伝承になるようなことは控えるように言われているの』
─どういうことだ。それに、その声。貴様はずっと私に話しかけていたな?
『そうよ。まさかとは思ったけれど、でも、最悪ではなかったようで何より。それじゃあ、帝国への献身を認め、ひとつ奇跡を見せてあげましょう。刮目しなさい。そして、貴女はこれからもその心臓から流れ出る血液で以て物語を刻むの。劇の終わりには、まだ少し早い時間だもの』
─何を、言って…
次の瞬間、聴覚が回復する。いや、聴覚だけではない。五感が全て戻ってきた。咄嗟に瞳を開ける。どうやら私の体は一対の白い羽に包まれてふわふわと宙を浮いているようだった。
「だが、駄目だ。これでは…」
何か異様な事態が発生していることを察知した『魔女』がこちらへ向かって来る。今の私には熔けた太刀を再び呼び戻すことすらままならない。もう魔力は尽きているはずなのにも関わらず、どうしてか奇跡的に浮遊している。そう自分でも言わざるを得ないほどの状況なのだ。
『空を分かつ』
ふと、魔力の籠った声が響く。魔力は先天性の障害の有無にかかわらず対象に声を、情景を、匂いを届けることができる。だが、今回の場合は魔力を操る技術があまりにも正確すぎた。言い換えれば、その魔力が放つオーラから神々しく感じてしまう。私が固唾を飲み込んだ瞬間、大空を分かつ一撃が空気中の邪悪な気配を一掃した。
「…っ!?四柱のっ!」
そして、『魔女』の驚いた声と共に神々しい気配を纏った女性が私の前に現れる。彼女はこちらへ振り返り、その透き通るような瞳で私を一瞥すると、私の怪我はみるみるうちに回復し、少しだけ魔力が回復したような気がした。
『タリータ。ここは引きなさい。貴女の実力じゃあ、無理があると分かっているでしょう?』
「…来るならば、最初から来ていればよかったのに」
『でも、そうしたら私にとってはもっと面倒なことになってしまうわ。だから、私も学習したの。ほら、だから私はこうして有利な立場に立てている』
「…なら、少し遅かったわね。灰燼に帰す魔法陣は既に完成したわ…!」
『魔女』が無理矢理魔法陣へと魔力を流す。魔法陣は完成された幾何学模様に少しひびを入れながら再び動き出した。
「アルテーヌ、これならば貴女でも無傷ではいられない!」
『…そう、残念だわ』
アルテーヌと呼ばれた女性は剣を振るう。すると、魔力が一切籠っていないにもかかわらず魔法陣に魔力を供給していた『魔女』の右腕が斬り落とされた。
「アルテーヌッ…!どこまでも、小賢しくなって!」
『頭を使っていると言ってほしいわ。それじゃあ、お遊びもここまでにしましょう。大海を分かつ』
女性が一歩踏み込み、『魔女』との間に僅かに隙間が残るように抜き打ちの姿勢で斬りかかった。『魔女』の身体には深い切り傷が刻み込まれ、剣先に捉えられた魔法陣は…
「…私は、何を見せられているんだ?」
真っ二つに斬られた。空を覆うように存在していた魔力はたちまち元から何もなかったかのように消え失せ、視界も元通りの灰色へと戻っていく。
『あら、タリータには逃げられてしまったわね』
私が最後の魔力を振り絞ってなんとか建物の屋上に着地すると、後ろの方から声が聞こえてきたので咄嗟に振り返る。すると、そこには何ともない様子でアルテーヌと、帝国の守護神の名で呼ばれた女性が立っていた。
「助かりました。アルテーヌ様。まさか、こんなところに剣神様が顕現されるなど思いもよらず…」
自分でも敬語を使って恭しく接するのは得意としないことは分かっているが、それでも何とか遠のく意識を必死に保って膝をつきながら礼を述べる。事の経過は分からなかったが、結果だけはこうして目にしている。ならば、感謝するべきだろう。そう思ったのだが、目の前の神々しい気配の主は少しの時間私の前をうろつくとこちらに目線を合わせ、一切の穢れの無い手で私の顎を持ち上げた。
『これは貴女が全てやったの。いい?』
言われた言葉の意味を理解するのにそう時間はかからなかった。そして、同性の私でもつい息を飲んでしまうような美しい笑みを浮かべられては断ることはできない。こんな時はどう言葉を返せばいいのか。そんなことを考えてみたが、今の私にはゆっくりと頷くのが精一杯だった。
『ありがとう。後でヴィリーにもお世話になったと伝えておくわ。機会があったらまた会いましょう。カリン少佐』
「どうして私の名を…全く、やんごとなきお方は人の心が分からない性分であるらしいな」
アルテーヌはふわりと優しい気配を残し、私の視界から姿を消した。力の入らない足腰を震わせつつ立ち上がる。ランカラの空はまるで何事もなかったかのように分厚い雲に覆われていた。何も変わらない、素晴らしい景色だ。
「生かされたからには、恐らくこれっきりとはいかないのだろうな。いいだろう。これしきの事態、何度だって乗り越えてきた。今回もまた…」
背負ってみせよう。帝国はまだ、負けてはいないのだから。
◇
「ふ、む。どうやら、我々の勝利のようではないですか。閣下」
「…どうやら、魔導兵の連中は完璧に成し遂げてくれたらしいな。今回の事件はただ、我々が面目ないというだけであったということになるな。怠慢か、それとも慢心か」
「閣下は、運が悪かったなどと仰りはしないのですか?」
ヘルモルクは勝利の余韻に浸りつつ軍隊葉巻に火をつける。生きた心地のする勝利の一服。限りなく優雅で、そして中毒性のあるそれだが、今回は流石にヘルモルクも誇れるものではないと察しているので、そこまで穏やかな心境ではなかった。偶然の積み重なり。C軍集団は決して失態を演じてなどいなかった。ただ、偶然の産物によって引き起こされたそれらは最善とは言い難い各々の努力によって覆されたというだけ。
だからこそ、ヘルモルクは何処までも自責の念を積もらせるレーリッヒの様子を見てたまらず本音を吐露する。緊張のせいか両手は少し湿っていて、分厚い脂肪がこびりついた心臓から拍動の音が良く聞こえた。
「ただの老い耄れがこの椅子に固執しているということは、つまるところ責任を取るために首を飛ばされるためにいることに変わりはない。だからこの首が無駄遣いされることには怯えはしたが、だが、それだけだ。我々は振り回されっぱなしだ。随分と情けなくなったとは思わないか?」
「それでは私は閣下以上に惨めなことになってしまいますな。名誉と金欲しさに此処まで来た私は、随分と汚れてしまっております」
「何を言う。だとすれば、貴官はとっくにランカラから逃げ帰っているだろう。それなのに今の貴様はあまりにも己の命をただの統計上の一として見ているのではないか?年寄りの目はそうやすやすと誤魔化すことはできないぞ?」
レーリッヒは机に肘を突きつつ、大層呆れた様子でヘルモルクを睨みつける。飄々とした態度はもう少し腹の出を押さえていれば味のある風貌となっただろうに。そんなことを考え、レーリッヒは自分自身も少なからず浮かれてしまっているという事実にこっそりと襟を正す。
「私は確かに言ったはずです。名誉と金が欲しいのです。金にならなくとも、名誉で彩られた墓に名を刻んでもらえるのならば、私はそれで十分。喜んで帝国のためにこの身を捧げましょう」
「…ならば、今回のは捧げ先の帝国を潰さないようにするための策略だったと、そういうことか」
「話が早いようで助かります。閣下もご存じでありましょう?世界大戦で立案だけなされた第八七号作戦案を」
「ああ、アレか。確か、新大陸からの全面撤退を行い、それによって生まれる余剰戦力を以てしてハルパリ帝国戦に注力するという」
レーリッヒは過去の輝かしい記憶を呼び起こしつつ、そしてヘルモルクが暗に答え合わせを行おうとしていることを察して口角を上げる。食えん奴、しかし、憎めない奴。ヘルモルクは北に籠り続けてきた凍土の主の評価をそう書き換えた。
「しかし、ヘルモルク。なるほど、遂にこの私にも謀の全貌が見えてきたぞ?そして、首謀者もな」
「はて、私にはさっぱりでございます。私は何か口を滑らせてしまった覚えもございませんし、そもそも最初から何かを隠していようと考えていたわけではありません。言われれば一から百まで全て話しましたとも」
「相変わらず好かん奴よ。だが、そうか。リーベルトか。奴も遂に動き出したということは、世代交代の時間が近づいているということだな。はてさて、今回の奴は一体何をやらかすつもりだ?」
レーリッヒはヘルモルクの方をチラリと向くと、彼は煙草を口から外し、「なんのことやら」とでも言いたげに肩を竦めた。
「私は知っていることは全て話しますが、知らぬことまで口にすることはできません。どこぞの預言者ではないのですから。ですが、せっかくならばお会いになってみてはいかがですか?世界大戦以降ここまで帝国が鉄と血にまみれたことはありませんでした。『銀織人』の名で呼ばれた戦術家も、この気配には懐かしいものを感じておられるはずです」
リーベルト・フォン・リーベ。彼はレーリッヒの部下にして、世界大戦での勝利の立役者のひとり。ただ一人の娘であるアレクトを守るために動き出した彼は、もはや何者にも止めることはできない。
「だから、わざわざ腰の重い海軍まで動員して快適な海路を用意したと?…こうなっては話に乗るほかあるまい。さて、ディーラーがカードを表にしたのだから、今度は私がチップをどうするか決めなければいけないということか」
「どうなさいますか?中将風情の私には全貌がさっぱり窺うことはできませんが…」
「オールインだ。精々、私のC軍集団に一人の欠員を出させないことだな」
「ほう…」
ヘルモルクが満足そうに頷いたのを確認したレーリッヒはすっかり椅子に根を張ってしまった下半身を力任せに持ち上げ、物言わぬリャードを連れて執務室から退出する。この部屋にはしばらく戻ってくることはないだろう。だが、気分はいい。気づかぬうちに気だるげな灰色に戻ったランカラの空は、まるで彼の門出を祝福しているかの様にすら感じられた。
「ヘルモルク、撤退計画については貴官の一存に任せよう。だが、最後の最後でしくじってくれるなよ?我々はまだ負けていないわけではないのだから」
「勿論でございます。閣下も精々勝ち戦に乗り遅れないよう、ご注意ください。船の出港時間は定刻きっかりですので」




