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異世界戦線  作者: Chira
第一部 新大陸編
23/36

再会

またまたお久しぶりです。更新頻度がおよそ一週間ということは、私の怠惰ぶりがしれてしまいますね。今回はクランハルトとエルのお話です。色々えげつない過去をご用意した二人ですが、個人的にも今後のことを書くのが楽しみな二人でもあります。ぜひ、互いが互いに持つ重たい心情を感じ取っていただければ幸いです。

アレクトとカリンが大陸縦断列車によってラグノーブルへ急行した少し後、エルは鈍い輝きを放つドアノブと静かな戦いを繰り広げていた。彼女はドアノブに手をかけかけて、そして一瞬の逡巡の後それを引っ込める。


どうしてこんなことになってしまったのか。エルは皺ひとつない手を見つめ、無機質な表情を曇らせる。心臓の鼓動は聞こえない。冷たい体は、自分の身体がどこまでも異様な存在へと変貌してしまったという事実を彼女にまざまざと見せつけていた。


エルは所々欠落した過去の記憶への追憶を止め、尊敬できる不器用な上司の顔を思い浮かべる。カリン・セラント。エルにとって、彼女はやはりどこまでも隊長であった。破けた一枚絵の断片的な破片だけでも理解することができる。あれは、周囲の誰もから忌み子として扱われてきたエルにとってはどこまでも美しい日常だった。軍の中でむしろ男性の方が少ないというあの状況。青春という言葉は、私にとっては他人がどんなにおかしいと言ってもそれなのだ。エルは黄金風景を想起し、けれど、不可逆な変化によってあの頃にはもう戻れないということも同時に察し、少しでも意識を切り替えるためにも再びドアノブに手を伸ばしてあえなくそれを引っ込めた。


『…その体を見るに、お前は人形事件の被害者なのだったのだな。エル中尉よ』


『閣下、今の私は中尉と呼ばれるには不相応でございます。ただ、アレクト様の気まぐれによって生かされている卑しい従者の身です。ですので、どうか…』


『ジウクレヒト家の凋落は私でも知っている。いや、だからこそ、なのか。お前は、あの家の人間らしくないな』


『すでに捨てられた身故。本来ならば、過去に拘泥するべきではないということは分かっております。ですが、それでもあの頃のように扱ってもらうわけにはいきません』


『過去を背負う者に無理は言わんさ。ただ、私からのささやかな願いとしては、その内心を一度誰かに受け止めてもらえばどうだ?それこそ、クランハルトにな。私も二、三度顔を合わせただけだが、奴はいい。奴なら、今のお前を受け止めてくれるさ。…いい男を見つけたな、エル』


「どうした?私の部屋の入り方を忘れでもしたか?」


「…クランハルト」


彼女を覆う大きな影に、そして一見冷たいように感じてしまう彼の美声。エルは硬直していた体を大きく振るわせ、けれどそれが露呈しないようにぎこちなく彼を見上げる。首の動きがとても硬く感じる。これは、この感覚は、きっとこの身が失敗作であるからではないのだと、彼女は内心確信する。


「…まあ、いい。私もちょうど戻ってきたところだ。互いに苦労する上司を持つようになったが、一度息抜きといこう」


今までの彼女の葛藤を嘲笑うかのようにクランハルトはドアノブを回し、きも自信ありげに彼は自身の私室へと足を踏み入れた。きっと悪気はない。そう思いつつ、エルもその後に続く。部屋は質素で、そしてあの頃とどこか同じような気配がした。偽りの肺にその空気を目一杯吸い込み、そしてふと、不思議そうにエルを見下すクランハルトと目があった。


「…クランハルトは変わらないね」


「お前が変わり過ぎたんだ、エル。…ああ、駄目だな。お茶でも淹れよう。やはり、現実はあまりにも残酷だ。少し、私でも少しだけ耐え難い」


「私がやる。クランハルトは座ってて」


「…そうか?ならば、お言葉に甘えるとしよう」


クランハルトは一瞬目を見開いて驚いた様子を見せたが、すぐに「ああ、そうか」と呟いて納得して席についた。エルはクランハルトが席につくのを見届けると、その小さな体躯を駆使し、ティーポットに水を注いで湯を沸かす。


「ここだけの話だが、ハーデル・ロンバルト攻略の際にペイルーの死亡が確認されたそうだ。確か彼女は、昔の同僚だっただろう?」


「うん、知ってる。カリン隊長と一緒にハーデル・ロンバルトに突入して、アレクト様がとどめを刺したから」


「四〇一があの作戦に参加していたのか。だが、レーリッヒ閣下なら確かにそうなさるだろうな。まったく、かのお方は兵の扱い方をよく知っていらっしゃる。生かさず殺さず、これでは、いくら不満を持てど反乱を企てる気力も起らん」


「クランハルトは、反乱を計画しているの?」


エルは中身が沸騰しかける気配を見せるティーポットを温めるのを止め、ティーカップを取り出す。そしてポットから少しだけお湯を注ぎ、カップを温めておく。


「まさか。私は強烈な愛国者ではないが、軍隊というものはかくあるべしと思っただけだ。形はどうあれ奉仕すると決まったのなら規律は守らなければならない。上の者からすれば我々は一個の駒。勝手にポーンが動いてしまえば、あちらからすればたまったものではないだろう」


エルは茶葉を蒸らしつつ、前と比べて細長くなった耳をピコピコと動かしながらクランハルトの話に耳をそばだてる。そして、純白とは言えないくすんだ銀髪を視界の端に捉え、彼女は胸がほんのりと熱を持ったのを感じた。


「…どうやら、今は五大貴族の御令嬢たるアレクト様に仕えているそうじゃないか。差し支えがないなら、どうしてそうなったのか私に教えてくれ」


クランハルトは目の前に置かれた紅茶を懐かしいものを見る目で見つめ、エルが反対側に座ったのを確認すると、最初は舶来の品の香りを楽しみながら彼女に話しかけた。こんな酷い戦況でもどうしてか嗜好品だけは楽しむことができている。そんなあべこべな現実は、しかし一方で、確かに自分が生きているという実感を彼に与えていた。


「クランハルトは、どこまで知ってる?」


「アレクト様についてか?それとも、自分のことを聞いてほしいのか?」


エルは一度紅茶を飲むのを止め、両手でそっとティーカップをソーサーに置くと、顔を赤く染め、少し下を俯きがちに「…私のこと」と呟いく。


「…ジウクレヒト家の凋落の生き証人。そして、人形事件の第一被害者。こんなところか?」


「うん。その後はヴエルフォードの助手をしてた。…こんな姿だと、どこにも居場所はないから」


「それは…」


しかし、クランハルトは開きかけた口を閉じる。自嘲気味に笑うエルの姿は、そのいたいけな外見にからは考えられないほどあまりにも重すぎる人生を歩み、けれど確かに今を噛みしめている。彼女からすればこれは最良ではないが、しかし最悪でない。いわば日常だった。クランハルト自身もエルの全てを知っているわけではない。全てを知ろうと思ったことはあるが、しかし、彼の一時の好奇心が受け止めきれるほど、あの頃と変わらぬあどけない美しさを残す彼女は人並の人生を歩んではいなかった。


「でも、ちょっと前のことだけど、私を一人の人間として見てくれる人が現れた。勿論、クランハルトもそうだって、信じてるけど…」


「大丈夫だよね?」と言いたげに、けれどやはり気恥ずかしく、照れくさそうに笑うエルを見てクランハルトは勢いよく立ち上がりかけた。ちょうどいい温度になった紅茶の水面が俄かに揺れ、エルは不思議そうにクランハルトの表情を窺う。


「どうかした?」


「いや、なんでもない。ただ、お前にそう思えてもらえていたのならば、私もこの数奇な運命を恨まずに済む」


「そう…じゃあ、両想い、なのかな?」


「ああ。こうなってはしまったが、互いに中々重いものを持っているようだ」


クランハルトは懐かしい味を味蕾が記憶していたことに頬を緩めつつ、ようやく晴れた表情を見せたエルをもう一度まじまじと見つめる。彼女がエルであることは直感か、それとも魔力の気配からかは分からないが、確かにそうだと理解できた。昔とは大分背も縮み、そして虐待の醜い痣は喜ばしいことではあるが、何かが欠けているような気がしていた。勿論、その程度のことで己の気持ちが変わることは無いと彼自身は確信しているが、しかし、疑問に思ってしまったのだからどうしてもそれを解き明かしたいという気持ちも彼の胸中には渦巻いていた。


「…何か、覚えていないのか?」


だからだろうか、クランハルトは自然と口から発せられた言葉に戸惑いではなく、むしろ納得してしまった。だとすれば、と。そうならば、彼女が自分に対してぎこちないことにも理由がいく。


「ううん、きちんと覚えてる。それより前の記憶はあんまり思い出せないけど、クランハルトとの思い出は、ぜんぶ持ってる」


両手を胸の前に置き、それを互いに握りしめるエルは、少なくとも彼の目からは嘘をついているようには見えなかった。しかし、クランハルトは一瞬の安堵の後に曲がりなりにも貴族である外面を脱ぎ捨てることになる。


「…体が、言うことを聞かないの。もう、人間じゃないから」


「あのヴエルフォードがかっ!」


机を叩き、椅子を押しのけて立ち上がるクランハルト。エルは一瞬身を震わせたが、控えめに眉をひそめて小さく頷いた。


「私は初期型のロットだから、まだ不具合も多くて。だけど、博士は私のために頑張ってくれたから。…それよりも、リャードの方が損傷が酷くて。まだ、言葉を話すのも全然なの」


クランハルトはレーリッヒ大将の執務室で今のエルとよく似た体型の少女がいたことを思い出す。あまりにも寡黙で、生き物を見ている気にはなれなかったが、彼女も人形事件の被害者だとすればそれにも納得がいく。それだけではまだ話が上手いこと噛み合っていないだけの可能性もあるが、そんな数奇な運命はあり得るはずがない。クランハルトは否応にも結論が出たことに顔を顰めつつ、相変わらず怯えた様子のエルを安心させるためにも乱雑に蹴り飛ばした椅子に座り直す。


「レーリッヒ閣下の給仕が、まさかそんな存在だったとはな」


「うん。だから私は大丈夫。こうやって、もう一度クランハルトに会うことができたから」


そう言ってにへらと笑うエルを見てクランハルトは相好を崩しつつ、ふと本題から大分逸れてしまっていることに今更ながら気がついて、ひとつ控えめに喉を鳴らした。


「…話が逸れたな。それで、その後はどうしたんだ?いくらヴエルフォードが兵器開発局のお飾り的局長に添えられたとしても、それだけで進んで社交的になるようにも思えん。確かにここ半年で新大陸を渦巻く戦況は悪化したが、その程度で奴が進んで帝国に奉仕するような人間ではないだろう?」


クランハルトの言葉にエルは小さく頷き、そして少し早めに訪れた晩秋の寒さのせいか、すっかり冷めてしまった紅茶を飲み干す。


「久しぶりに素体が運び込まれてきたの。クランハルトも言うように、丁度半年前に。クランハルトも知ってると思うけど、死んだ魔導兵を魔導人形にするには莫大なコストがかかる。可能な限り高濃度な液体魔力に、死者の記憶と魔力の正確な抽出。そして、それらと魔力液体を完全に混ざらないようにしつつ当人の記憶を参照しながら肉体を再構成し、魔力液体からの完全分離。今の新大陸にはそんなことをしている余力はない。前線で死亡した魔導兵を綺麗な状態で回収なんてできなかったし、それに、わざわざ魔導人形にする価値のある素体はいなかったから」


クランハルトは見知らぬ単語に首を傾げつつ、ぽつりぽつりと語るエルの言葉を一言一句聞き逃さぬよう努力していた。だがやはり、意味が分からない。単語の一つ一つは複数の単語の組み合わせだが、それらが内包する意味はそれを合わせたものとは異なることは彼も分かっている。

液体魔力、死者の記憶、そして肉体の再構成。そしてふと、彼は一つの答えを見出した。なんだ、それならば、と考え、しかし信じがたい事実に己は何か良からぬ結論を見出してしまったのではないかと悪寒が走る。


「…一つだけ、聞こう。それは、いや、彼女は貴族か?」


彼の悪い予感を確信づけさせるかのように、エルは小さい頭を縦に振る。


「そう。その素体は貴族。それも、私たちとは違う帝国の中で皇帝の次に貴い方の中の一人。五大貴族の一角、リーベ家の実質的な次期当主で、そして、ヘルテルフール大学校を二年の飛び級で主席卒業した天才」


「…アレクト・フォン・リーベか」


ならば、と、クランハルトは背筋が凍るの思いをしつつ、エルに己のそんな様を見せはしないと平静を装う。ただ、どうしても、額を伝う脂汗を拭わずにはいられなかった。


「なるほど。全てが繋がるが、だとすれば知りたくない事実だったな。とすれば、お前が戦場に駆り出されることになった理由にも納得できる。…しかし、アレクト様が既に亡くなっているだと?つまり、リーベ家当主であるリーベルト様が揉み消しているということだが、かの家はどうなる。人ならざる身となった存在が家を継げるかどうかなど、継承法にも書かれていないぞ?それに、それまではよかったとしてもその後はどうなる。魔導人形の仕組みについてはよく知らないが、子は産めるのか?」


「そこは大丈夫。私も一応は月経はあるから。それに、きちんと生殖器もある。…クランハルトになら、見せてもいいよ?」


エル椅子を降りてトコトコとクランハルトに歩み寄り、そしてスカートをたくし上げようと裾に手をかける。何か嫌な予感を察知したクランハルトは咄嗟に彼女の両脇に手を入れ、すっかり軽くなってしまった体を持ち上げると、自分の膝の上に無理矢理座らせた。


「お前は私を何者にするつもりだ?五大貴族の令嬢を狙う反逆者など、まったく、ここが軍部でなかったら一体どうなっていたことか…」


クランハルトはこめかみをぐりぐりと押し込みつつ、エルの変わらぬ鈍感さにため息を下す。最初の件はまだクランハルトにもたしかに非がある。この辛く苦しい戦いの日々を前に、飄々としていられるわけがない。誰だってそんな現実を前にすれば軽口ぐらいは叩かずにはいられないだろう。アレは言わばブラックジョークというわけだ。


しかし、クランハルトはそこまで考え、恐らく一切悪気のないであろうエルの頭を撫でる。あんな事を誰かに聞かれてしまえば、自分のただ純粋から生まれた疑問がピンク色に染め上がってしまう。畏れ多いという程度の問題ではない。倫理的に駄目なのだ。だが、それでは彼女は?クランハルトは右手を頭から離し、エルの顔を覗き込む。


「…ん?クランハルト、どうかした?」


エルは今までの緊張をすっかりほぐし、クランハルトの腕の中を満喫していた。今まで体を強張らせていた理由は五大貴族の令嬢であるアレクトの給仕をするという重役のせいか、それとも…


「お前は今幸せか?」


歪な人生を歩んできた小娘の、彼女からすれば何も変わらない日常。けれどその日常は傍から見れば特異そのもの。だが、もしそうだとしても、当の本人にとってはやがて数多の記憶に埋もれる他愛のない断片の一つ。


「クランハルト、心配しないで。アレクト様も優しいし、案外、私の周りの色んな人が私が何者なのかを知っていて、気遣ってくれるから」


それでも、エルはあくまでも相対的であるそれを求めて、そして人並みにそれを噛みしめていた。幸せという漠然とした、そしてこれほどまでに無責任な言葉に彼女は押し潰されていない。人は誰しも幸せを求める、幸福であろうとする。けれど、それが絶対的ではなく相対的であるが故に、人という愚かな器が満たされることはない。


帝国に資本主義の波が到来してからもう百年は経過しただろうか。クランハルトは思考する。確か、自分が生まれた時にはあった。そして、全員が平等となり、そして天井が取り払われたのもそれと同時。「貴族」は真の意味で貴族ではなくなり、かつて言葉の中に内包していた高貴さは失われた。つまり、ただの見栄っ張り。帝国の将来を決める帝国舞踏会に平民の富裕層が踏み入った時からその命運は決まっていたのかもしれないが…


「お前が幸せでよかった。あれが今生の別れなどではないと思い続けてきたが、どうやらそんな私の願いは剣神に届き、その運命を断ち切ってくれたようだな」


帝国の守護神、剣神アルテーヌ。コルト帝国初代皇帝と契りを交わした神の剣。彼女は運命を己の力を以て断ち切る力を持ち、そして男女の馴れ初めが大の好物…とされている。帝国がいつまでも剣に固執するのもそれが原因であり、貴族が過度に装飾された剣を正装に組み込むのもそれが理由である。


「うん、だったら、私も帝国に生まれてこれてよかったかも。クランハルトと出会えなかったら、きっと人生はずっとつまらないものになってた。…それと、アレクト様も。クランハルトは知ってる?五大貴族の方は、容姿を褒めても何とも思わないんだよ?むしろ、溜息をつかれちゃった」


「そういえば、元はそんな話をしていたな。…だが待て。そうなると、お前はアレクト様の不興を買ったのではないか?」


少し冷えた体をエルを湯たんぽ代わりにして温めながら二人は雑談に花を咲かせる。その姿はまるで親と子のようにも見えてしまうが、これでも一応二人は恋人である。戦場で出会い、そして戦場でそれを深める何とも奇妙な恋物語が互いの記憶には綴られていた。


「ううん、アレクト様はそんな些細なことで心を乱すお方ではないから。きっと、もう忘れてると思う」


「そうか。ならいい。…だが、私は少し不味いな。形式上とはいえ、一応の上司であるカリンに強く当たってしまった。…と、言うより、お前の気配に全てを持っていかれてしまった。あの後急にレーリッヒ閣下に呼び出され、何事かと思えば魔導人形を少し預かってほしいと言われたことでようやく納得がいったがな。どうやら、閣下は随分と私を評価してくれているらしい。有難いことだが、この後が怖いな」


「…何かあったら、その時は私が謝る。だからクランハルトは心配しないで」


「私のことは気にするな。私も一応は貴族だ。やんごとなきお方の靴の舐め方ぐらい心得ている」


クランハルトは最近自分が何故か上司に気に入られるようになったという奇妙な現実を直視しつつ、来年の帝国舞踏会に思いを馳せる。恐らく、いや、間違いなく今年も参加することになるだろう。だが、それならば自分は何処の派閥に身を置くべきか。選択肢は主に三つあるが、しかし、クランハルトにとっては二つに一つ。A軍集団か、それともC軍集団か。家の方は確実にA軍集団を筆頭とした親皇帝派だろう。しかし、せっかくならば。クランハルトはエルの温もりを楽しみつつ思案に耽る。


新大陸派遣魔導連隊の連隊長を務め、そして残ったのは己の身のみ。今更古巣に帰ったとしても、失うものは無いだろうが新たに何かを手に入れられる可能性は限りなく低い。レルモルド家はこの帝国の情勢にも上手く対応して見せてはいるが、逆に言えばそれっきり。少し、挑戦してみるべきだろうか。クランハルトはもうすぐ別れを告げることになる二十代という人生の黄金期の最後にひとつ、ハイリターンを追いたいという衝動に駆られた。


「だが、偉大なる頭脳の手足として最低限仕事ができることは示さなければならないな。丁度、混乱の種がランカラに襲来したことだ。私にも、最前線で命を張れとの命令の一つや二つ、下令されることだろう」


「…クランハルト、どうかした?」


窓からランカラの空を眺めるクランハルトは、視界を最大限広く保ちつつ、しかし、そこに映る何も変わらない、日常だったそれが崩れていく兆候をはっきりと捉える。


「エル、四〇一が帰ってくるまでは形式上私の指揮下に入るということになっていたな?」


「そうだけど、それがどうかしたの?」


「ああ。…原隊に戻る前に、一つ私と大仕事をすることになるだろう」


「それは、間違いない?」


「ああ、確実にだ」


一瞬の静寂の後、空は俄かに紅く染まる。クランハルトはこの光景をラグノーブルで何度も見てきた。そして、打ち破れずにいた。あの鮮やかな深紅の魔法陣は、遅かれ早かれランカラを燃やし尽くすつもりでいるのだろう。


「…だが、その程度の揺動で私が見逃すと思うか?醜い鼠が私の目から逃れらるとは思わない方がいい」


しかし、クランハルトはそんな見慣れない人からすれば慌てふためく非日常を気にしてなどいなかった。巧妙に偽装された、しかし、聡い人間を誘い込むような綻びのある魔力が隠匿された気配。それは、今まさにランカラ防衛司令部に向かっている。クランハルトはその気配を決して見逃すことなく感じ取っていた。人間のように卑怯な考え方をする。彼は不敵に笑みを浮かべ、そして既に勝利を確信しながらも早速行動に移す。


「エル、身支度をしろ。それと、車の手配だ。今頃C軍参謀本部は大混乱の最中だろう。現物が欲しい。何か知っているか?」


「それなら心当たりがある。…だけど、クランハルト。どこに行くの?」


「そうだな…形式上はバルトウィク少将にお目通を願うという程で行こう。だが、私の間が正しければ…」


クランハルトは軽く息を吸い込み、立ち上がったことで体内に巡る血液の感覚に決意を再び固める。


「ヴィシアと、『道化』がそこにはいるはずだ」

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