北の大地
北部戦線、それは雪と氷によって閉ざされた大地だった。帝国の新大陸開拓期においても殆ど手をつけられることはなく、唯一都市と言えるような都市はラグノーブルのみ。資源にも恵まれず、ただそこに広がっている雪原は少しでも帝国の国防事情を知りうる人ならば旧連合王国領からのお客様を歓迎するかのようだと形容したことだろう。
そして、北部戦線を担当するC軍集団第一軍は北極からの凍てつく風をただひたすらに堪えながら中央、南部両戦線が敵を圧倒的な衝撃を以ってして打ち砕くのをただひたすらに夢に見る。しかし、それは彼らが他人任せであるというわけではないことを彼ら自身はよく知っている。冬は氷によって閉ざされ、夏は泥濘が支配するこの土地は帝国にとってはお荷物であるということを。だからひたすらに耐え忍ぶ。逆侵攻など、ただいたずらに我々の命を散らすことに何の変りもないと、そんなものは夢想なのだと、彼らはこのただひたすらに白い大地から教え込まれていた。
改めて言おう。ラグノーブルとその諸地域を含む北部戦線は帝国からすれば何の役にも立たない土地である。だが、世界大戦でも、そして今でも、ここを敵の手に落とすわけにはいかなかった。たとえどんなに細い補給路だとしても、強行軍によって一度ここを占領されてしまえば旧連合王国領とを隔てていた険しい山脈地帯を彼らはするりと迂回することができてしまう。そして、何も遮るものが無くなった彼らがどこに向かうかは想像に難くない。相手からすれば宝石でも、帝国からすればただの石ころ。それが北部戦線なのである。
そんな神にすら見放された土地で、新大陸派遣魔導連隊の連隊長であるクランハルト・フォン・レルモルドは二人の邪悪な魔女の使いと対面していた。いや、正直に話そう。クランハルトは、かつての同僚が『魔女』の手によって無様にも都合の良い傀儡へと変貌した様をまざまざと見せつけられていた。同僚と言うには彼女らの容姿は幼く、そしてその通りに幼稚だったはずなのだが…
「きゃははっ♪まったく、クランハルトもしつこいなあ。そんなに一途だから、タリータ様にも愛想を尽かされるんだよ?」
「まったく、しつこい男は嫌われるのに。クランハルトはバカ」
どうしてこんなにも思春期の粋がる阿呆のようになってしまったのだろうか。勿論、クランハルトは二人が『魔女』によって操られていることなど知る由もなく、ただ二人の変貌ぶりにただ呆然としていた。抱いた感情は怒りではない。失望と、同情が胸の底から湧き上がり、そして何故か妙に人懐っこい生娘の姿が脳裏に出力される。
「…ペイルーが知ったら、まったく膝から崩れ落ちて号泣していただろうな」
二人の名前はラトヴィールとヘストリカという。二人はその類まれな魔力量をカリンに認められ、ペイルーと同時期に第二近衛親衛隊に配属された。そしてペイルーが第六隊長になると同時に所属をそちらに移し、新大陸で奮戦。しかし、クランハルトと合同でラグノーブルにて『魔女』を迎撃時に二人は火球に直撃、死亡の確認はできなかったが状況証拠からやはり即死であっただろうと判断されたが、やはり死体の確認ができなかったために行方不明となって久しかった。
「だが、やはり奇妙だった。となれば、…いや、過去を振り返っていては未来を捨てるばかりか」
当時のクランハルトが感じた僅かな疑問。それは、どうして二人が一切の抵抗をすることなく火球を受けたのかということだった。豊富な魔力量を認められてクランハルトですら手の届かないA適性という領域に足を踏み入れた二人がなぜ、その見た目とは裏腹に純粋な魔力の塊である火球に一切抵抗しなかったのか。ブリーフィングの段階でも再三忠告は行った。そしてそんなクランハルトの言葉に当時の二人は神妙な面持ちで耳を傾けていた。無論、対策も教えた。全身を魔力で覆い、表皮を守るための膜にするのだと。クランハルトはそれを口頭で教えたのみだったが、二人の魔力の扱いは見事なものだった。少ない魔力でやりくりしていたクランハルトはスタートラインの違いに嫉妬を覚え、そして帝国の未来は中々面白くなりそうだと当時は胸を躍らせていた。
だからこそ、どうしてこんなことになってしまったのだろうかとクランハルトは嘆かずにはいられない。せめて、立場が逆であったならば、大前提としてたとえ何かしらの手段を講じられて自身が『魔女』の手先になるようなことは無いにしろ、結果的にそうだとしたら。それは新芽が朽ちた木を土台に芽吹くのと変わりはなかった。だが、これはどうだろう。所謂老害ではないか。いや、勿論そこまででは無いにしろ、既にクランハルトの年齢が四十代手前ということを勘案すれば十分にこの光景を客観視することが許された者はそう評価したことだろう。
「だが大義はこちらにあり、だ」
ところが、私情を取り除けばそんな優柔不断はどこかに消え失せる。帝国は強くなくてはならない。言い換えてしまえば小娘の一人や二人に遅れを取ることなどあってはならない。クランハルトは迷うことなく長剣を引き抜いた。帝国の守護神であるアルテーヌが帝国を護るためにもたらした原初が五剣の一振り、セレブラントである。セレブラントはクランハルトの魔力に充てられ薄ら赤色がかっていて、どこかほんのりと温もりを感じる。
「あーあ。抜いちゃった、抜いちゃった♪」
「タリータ様からはセレブラントを抜かない限りは手加減をしろと言われていたのに…勿体無い」
ラトヴィールとヘストリカはどこか癪に障る言葉選びでクランハルトを挑発すると、視界を覆う仮面を投げ捨てる。
「ちぃ、とうにその気は無かったということか!」
クランハルトは近衛親衛隊の第五隊長である。若くして士官を志し、丁度中佐となったところで魔導適正があることが判明して魔導兵となった。階級は暫定的に魔導中佐。現在は新大陸派遣魔導連隊を任され、連隊が『魔女』によって壊滅させられた今でも彼一人となった今でも第四十七師団とともに『魔女』からラグノーブルを防衛している。
しかし、そんな生粋の帝国軍人であり、そして確かな実力を持ったクランハルトがなぜB適正止まりなのか。それは彼の魔力量にある。クランハルトには技術がある。しかし、魔力が無い。それも、絶望的に。クランハルトは魔力だけを見ればE適正ほどの量しか持ち合わせていない。しかし、それをただひたすらに技術を磨くことによって克服してきた。身体強化で僅かに強くなった身体で最大限に戦える方法を模索し、実際にそれを行ってきた。知恵とそれによってもたらされる技術は人間の専売特許である。クランハルトはそんな初心を忘れなかった。多くの若者が魔力という快楽を含んだ力に溺れていく中、クランハルトだけは研鑽を忘れなかった。それはクランハルトの魔力量が少なかったからとは言うまい。例えそれが事実だったとしても、実際に自力でそれまでの技術を身につけたのは彼しかいないのだから。
「八式っ!」
クランハルトが魔法を込めた石を砕くと、セレブラントは炎を纏い、体は一度光速に達する。光が歪む中で、クランハルトは冷静に思考する。おそらく、この攻撃は受けきられる。とすれば、次はどうするべきか、と。
「あはっ、相変わらずタリータ様と同じ土俵で戦おうなんて、腹が立つ!ヘストリカ!」
「ん、任せて」
が人差し指を上げると、目の前には一瞬にして氷壁が出来上がる。
「ちっ!」
「くたばれ!」
クランハルトが氷壁を切断するためにセレブラントを振るうと、その隙を待っていたと言わんばかりにラトヴィールが戦斧を振り翳す。
「なっ!」
「…危ないな」
クランハルトは姿勢を極限まで低くし、戦斧の横凪を掻い潜る。そして丁度交差した後、返す刀でラトヴィールの背後を襲う。
「もう、ラトヴィールのバカ!」
「…あ」
大規模魔法を準備していた は今更それを中止することもできず、叫ぶのが精一杯だった。一方の はタリータより力を分け与えられたにも関わらず、矮小な存在のはずだったクランハルトに圧倒され、今まさに殺されようとされている事実に死への恐怖と、そしてタリータからの「信用」を裏切ることにとてつもない絶望を実感していた。
「…っ!」
だが、世の中というのは偶然に支配されている。それは一方には救済となり、そしてもう一方には今までの努力を否定するかのような理不尽が襲いかかる。
「…『魔女』!」
それは、恐怖。それは、憤怒。到底及ばないであろう隔絶した自力の違いと、生命としての格の違い。それらはクランハルトにとって恐怖を生み出し、そしてそれは過去を想起させた。どうして忘れてしまったのだろうか、追憶の彼方で彼が見たのはかつての己は四十名余りが所属していた新大陸派遣魔導連隊の連隊長であり、そして自信は最後の生き残りであるという強い怒り。戦友に何も手土産を用意せず、おめおめとヴァルハラに赴けるものか、義理と使命感を抱きクランハルトは身を翻した。
「あら、やっぱり素早い」
声が先か、それとも剣閃が煌いたのが先か。とにかく、クランハルトの目の前には突如として炎を纏った悪女、『魔女』が立ちはだかっていた。『魔女』はクランハルトを一瞥するとなんてこともないように残酷にもそう言い放つが、一瞥を受けたクランハルトは歯を食いしばり、熱気に当てられたのか額に滴る汗を拭う。
「二式」
何かを思考する必要はなかった。想起するのは帝国に勝利をもたらす戦姫の姿。石を砕くとクランハルトは何処か淡い光に包まれ、自傷の感覚と共に湧き上がる力を己のものへと作り変える。
戦況は最悪。ラトヴィールとヘストリカの二人を相手にならまだしも、『魔女』までもが参戦するとなるとクランハルトの独力ではこの状況を打開するには無理があった。とにかく地力が足りない。少なくとも、あの時ラトヴィールに致命的な一撃を加えることができたならばヘストリカをラトヴィールの援護に縛り付けることができ、まだ『魔女』との戦闘に集中することができたが、こうなっては仕方がない。無理を承知でクランハルトは一度に三つ石を割り、温めておいた手札を湯水のごとく消費していく。
体から零れ落ちそうになる魔力を器用に制御しながらクランハルトはセレブラントに魔力を流し込む。割った石の分の魔力を惜しむことなく、その全てを。
「たしか、こんな感じだったか?…雷霆」
そして、あの日確かにその目で見た魔力の神髄を脳裏に浮かべ、放つのはかの第二隊長の十八番。それはたとえ模倣だとしても、敵の意表を突くのには十分だった。
「…え?」
後方で大規模魔法のために魔力を練り上げていたヘストリカの体がぶれる。そして、体が僅かにずれたかと思うと、ヘストリカの皮膚は横に何度も裂け、血を噴き出して倒れた。しかし、クランハルトはそれを確認すると忌々しく『魔女』を睨みつける。ヘストリカは急な痛みのせいで意識は失ったようだが、絶命までには至っていない。体の戦端は完全に切断されているが、中央部、特に胴体は切り込みが浅く、既に魔力で回復され始めてしまっている。
「あら、貴方が今までにないくらい必死だったから警戒しておいたのだけれど、どうやら正解だったみたいね」
「…勘の良い」
少しの成果を、そして少しの犠牲を双方は冷静に受け止める。少しの好機、そして少しの危機は幾度も行われてきた二人の戦いの結果を覆すことは無い。クランハルトもアレが切り札であったというわけではなく、タリータも別にあれぐらいの傷ならヘストリカは自然に治癒するだろうと考えていた。
「ヘストリカっ!…クランハルト、私はあなたのことを絶対に許されない!」
ところが、当事者達が納得し合意がなされたのにも関わらず、しつこく囃し立てるマスメディアのように、一人だけこの事態に納得することができないでいる人がいた。ラトヴィールとヘストリカの関係を考えれば確かに彼女は部外者というわけではないのだが、今は上司が交渉に臨んでいるのであって、決してラトヴィールが出る幕ではない。
「感情的になる前に、一度この状況の可笑しさを冷静になって確認してみるといい。…が、こちらの話など最初から聞いてはいないか」
激昂しながら戦斧を握りしめるラトヴィールをクランハルトは冷笑する。例えどのような経緯があったにせよ、少なくともクランハルトからすればヘストリカはその愚行相応の代償を払ったまでで、何も不条理なことなど起ってはいない。しかし、あのラトヴィールの怒りからは理不尽への不満を感じ取ることができた。無理に大人らしく振舞おうとしても、感情が乱れてしまっては意味がないではないか。クランハルトは己が悪いことを考えていると理解しつつも、今だけは貴族として培ってきた他人の不幸を肴に愉悦に浸る技術を遺憾なく発揮する。
「お止めなさい。クランハルト、貴方にいい知らせです」
「まさか今の帝国は敵から憐れまれ、助言を寄越されるほど困窮しているとは思わなかったな」
『魔女』は堂々たる態度でラトヴィールを制し、その様子を眺めていたクランハルトは挑発するように乾いた笑みを浮かべる。帝国はまだ負けていない。少なくとも、前線の兵が困窮しながらも戦意を保ち続けている限りは。
「…私の言葉はそれほどまでに信用に値しませんか?」
「先程まで命のやり取りをしておいておきながら、信用だと?全く、理解に苦しむ」
戦争は、片方が力尽くでもう片方を交渉のテーブルに着席させることでようやくその役目を終える。しかし、それを逆説的に考えれば、戦争とは、一度戦争などを始めてしまっては、その後はその道しか残されていないということになる。戦争は外交手段の一つだと、平和を享受する人間は言う。しかし、戦争は決して相手を憎んでこそ始まるが、感情は至って冷静である。さて、次はどのようにして相手のどの部位を削ぎ落すか、国を人に置き換えればそのような決定が日々行われている。それを間違っていると否定する人はいるが、何事にも絶対はない。つまり、前者もあり得て、後者もあり得る。さらに困ったことがあるとすれば、その答え合わせは未来がしてくれるということだろう。
「人間というのは、もう少し言葉を信用した方が良いのではなくて?これほどまでに意思疎通に優れたものはないというのに…」
「頭に、体が追いつかなかったなりよりの証拠だ。きっとそれは長い歴史の中で修正不可なまでに歪んでしまった。今を生きる私には今更どうすることもできない」
「まあ、いいわ。『私』はラグノーブルから手を引くことにした。それだけは貴方に伝えておきたかったの。人間らしく言えば、私にも私の事情があると言ったところかしら?」
そこまで言うと『魔女』は一方的に背中の炎の羽を羽ばたかせて中空へと姿を消した。ラトヴィールはヘストリカを抱えながらクランハルトのことを睨んでいたが、『魔女』がそれを許さない限りは勝手に手を出してくることもないだろう。クランハルトはそんな三人の帰還を複雑な心境で見送りながら追撃は無いと判断し、管制へ通信を行う。空気中は『魔女』の魔力が充満していたにも関わらず、意外にも通信はすぐに繋がった。
『…えー、こちら北方管制』
「こちら新大陸派遣魔導…長いな。とにかく、こちらはクランハルト。コードネーム『魔女』はラグノーブル近郊より撤退。空域はフリーとなった」
『了解しました。哨戒ための魔導兵を出撃させますので中佐は撤収してください」
「了解した。…おっと、迎えを呼ぶ必要はなさそうだな。全く、一体どこから戦いを観察していたのか」
『魔女』が放つ炎によって溶けた永久凍土を踏みしめながらクランハルトは遠方から走ってくる一台の車を見て溜息を零す。
「やあ、今日も相変わらず惚れ惚れする戦いだったよ」
「ヘルモルク中将、第一軍総司令官ともあろうお方が碌に護衛を付けずにこんなところまで…」
「おや、そのために君を迎えに来たのだがね。外は冷えるだろう。とにかくだ。ひとまず車に入りなさい」
「閣下、中々にお人が悪いですよ」
護衛一人のために車を走らせる、そのことだけを聞けば何と心の優しい上司だとクランハルトも感激したことだろう。
しかし、そんなものは言わずもがな建前であるということは双方が了承していることだった。この人はこんな年齢にも関わらずやんちゃで、人の話を聞かない。部下が気疲れするタイプの上司であった。
ヘルモルクは溜息を吐きつつも車に乗り込んだクランハルトを愉しそうに眺めると運転手に車を出させる。
「中佐、ご苦労だった。本来ならば砲撃支援の一つや二つ行うべきだろうが…」
「閣下、つまり、どういうことですか」
クランハルトはいつもより気が立っていたせいだろうか、本来ならば耳を傾けるべき上司の言葉を遮って会話の主導権を奪う。ヘルモルクは言葉を遮られたことに驚きつつも、クランハルトの決意を目にしてこれもまた愉快そうに肩をすくめた。
「ああ、そうだったな。どうやら私は中佐を前にするとどうにも饒舌になってしまうきらいがあるらしい。貴族としては満点だが、軍人としては赤点もいいところか?」
「そうなのでしょうね。もし、閣下が貴族であらせられたのならば、私は渋々ながらも社交会に招待していたことでしょう」
「渋々、そうか、渋々か!」
ヘルモルクは膝を打って今度は豪快に笑ってみせる。渋々、その言葉には私情と義理と合理とが混ざり合い、クランハルトが己に対して複雑な心境を抱いていることが窺い知れた。
「…ということは、私が上官では不満ということかね?」
「そういうことを言っているのではありません。閣下が私に対して特段のお心遣いをもってして接されているのはこちらからしても有難いことであはありますが、それは極端というものです」
わざとらしく車窓から外の景色を覗くクランハルトにヘルモルクは続ける。
「ああ、そうだな。その通りだとも。だが普段からそうである人間はその区別がつかなくて厄介だろう?」
「ええ、こちらとしては大迷惑です」
普段から人を気疲れさせる人間のそれは、本人のどうしようもない性なのか、それとも意図的なのかを見分けることができない。そしてクランハルトはたった今それを本人が自覚していることを知り、どうしようもない気分になった。
市街地に入ると道行く兵の姿がちらほらと見られるようになり、クランハルトは今回も生きて帰ってくることができたことに心の中で安堵する。そして車は司令部の前で止まり、ヘルモルクとクランハルトは憲兵から形式的な敬礼を受けて中へと進む。
「たしか中佐は煙草は嗜まないんだったな?」
「ええ、私の魔力量は大したことがありませんので。最後に頼りになるのはこの身体のみ。肺を駄目にする訳にはいきません」
「それは、自ら参謀の道を断っているようなものだぞ?」
「私は生粋の帝国軍人であります故。…部下を悪戯にヴァルハラへと向かわせておいて、今更後方には下がれません」
「義理堅いなあ、中佐よ」
ヘルモルクは執務室に入ると机にゆったりと腰掛け、葉巻ではなく煙草に火を付けると、愛おしそうに煙を燻らせた。しかし、机の前で直立しているクランハルトを見ると、彼はすぐに灰皿にそれを押し付けた。
「楽にしろ。私は忌憚の無い意見が聞きたい。アレは、何だった」
「行方不明となっていたラトヴィール、ヘストリカ両名です。言ってしまいましょう。重大な裏切りです」
「…若気の至りではないと?」
「どうしようもありません。客観的に形容するとするならば心酔していた、と」
僅かな希望に縋るように紡がれるヘルモルクの言葉をクランハルトは切り捨てる。
「馬鹿らしい、馬鹿らしいぞ。クランハルト」
「残念なことに、事実であります。かつて共に肩を並べたとは信じられません。寧ろ、アレを同志であると看做せと?ご勘弁頂きたい。どうか、ご理解を」
「…こちらは諜報云々の段階では無いのに、相手はこちらの庭の中で楽しいスパイごっこだと?はあ、どうしろと言うのだ」
ヘルモルクは先ほどまでの未だ悪戯心を忘れないおじさんの様相を殴り捨て、帝国参謀名物の苦労人の様を取る。どうしようもなく頭の痛い問題だった。今まで団結することで耐え忍んできたにも関わらず、帝国という牙城が内側から切り崩されている。それも、換えの効かない魔導兵から。特に人的、物的資源両方が枯渇気味である新大陸にはそれが戦況を決定づける一手となる可能性がある。
「それで、この情報はどうするべきかな?」
「C軍集団参謀本部に送ったとしても、何か解決策が見つかるというわけではないでしょう。しかし、ここで情報を遊ばせておく訳にはいきません。それが、例えただ臣民に混乱を与えるだけだとしても」
「ああ、本当に頭の痛い問題だ。だが、ここで我々二人が話していても何か結論が出るわけではない。この話は一旦おしまいだ」
いつの間にか既に一本煙草を吸い切っていたヘルモルクは二本目の煙草に火を付けると、肺に煙を大きく吸い込み、溜息の混じった煙を吐き出す。
「ラグノーブルを放棄する、と言ったら中佐は驚くかな?」
「言い方を鑑みますに、それは既に決定事項のように聞こえますが」
クランハルトは肩を竦める。前述したように、帝国にとってラグノーブルとは不毛の大地であり、そして何としても手放してはならない地だった。にも関わらず、それを一番よく理解しているはずであろう第一軍総司令官殿の口からまさか「ラグノーブルを放棄する」と聞くことになるとは!クランハルトが抱いた感情には確かに呆れもあったが、それよりも心の中ではとてつもなく狼狽していた。まさか、ついさっきまで苦労事が絶えない文明人だと思っていた上司が既に壊れてしまっていたとは、と。
「…中佐は口が堅いな?」
「喋るな、と命令していただけるのであらば」
「ならば問題は無いな」
しかし、クランハルトは最後の理性に縋って良き部下を演じてみせる。勿論、ここで正気を取り戻させるために殴ったり、蹴ったりしようかとも考えたが、己は文明人なのであるという自負がそんな愚行をすんでのところで引き止めた。
「これ以上、『魔女』の脅威に晒されながらもラグノーブルを守る必要はないと私は考えている。第四十七師団然り、中佐然りな」
「私としてはラグノーブルに『魔女』を引きつけていくことが現在の我々の価値だと思っていたのですが…はっ」
「おや、どうやら私に話していないことがあったようだね」
「…信用するかしないかはお任せいたしますが、『魔女』曰く、彼女はラグノーブルより手を退く、と」
苦虫を噛み潰したような表情で報告するクランハルト。しかしその一方で、その報告を聞いていたヘルモルクの表情はみるみるうちに明るくなっていく。
「どうやら、私は賭けに勝ったようだな」
そして、しみじみと「そうか、そうか」と呟きながら上機嫌に煙を燻らせる。
「あくまでもそれは『魔女』の言葉を信じるとしたらの場合です。空軍からの強行偵察の結果を見るに、近々本格的な攻勢が行われるのは確定。それにも関わらず、『魔女』がそこに姿を現さないとはとても考えにくくはないですか?」
「だが、それはこちらが抵抗する前提での話だ。第一軍は主力を後方へ撤退させる。安全に、一切の脱落もなくな」
「それでは、私は?」
「…若いというのは羨ましいな。ならば、私が一筆認めておこう」
「血気盛ん、というわけではないのだろうがな」ヘルモルクは自分にだけ聞こえる大きさで呟きながら、一つ手紙を書き始める。そして困惑している様子でいるクランハルトを上目で見てニヤリと微笑む。
「レーリッヒ大将だ。中佐には大将の護衛の職を推薦しておこう。精々、本当の激務とやらを経験してくるんだな」
さささっ、と最後に自分の名前を書き、封蝋で封をするヘルモルク。そして手際よく本日四本目の煙草に手をつける。
「バルトニークまで車を出させる。その後は縦断列車を使ってランカラ司令部まで向かえ。ああ勿論だが、この手紙は忘れるな」
椅子から立ち上がり、まだもう少しばかり吸えそうな煙草を灰皿に押し付け、ヘルモルクは手紙を投げ渡す。そして困惑している様子のクランハルトを横目に、ドアノブに手をかける。
「閣下、まさかとは思いますが、今からですか?」
「勿論だとも。できる限り迅速に頼むぞ」
「それでは、それまでのラグノーブルは魔導兵が不在ということになりますが…」
便箋の表裏を確認し、困惑した様子で尋ねるクランハルト。事実、現在のラグノーブルで魔導兵としてのまともな戦力はクランハルトしか存在していなかった。その為、クランハルトがラグノーブルから離れることになると、第四十七師団はネームドに対抗する術を失ってしまうことになる。となれば、たとえこれから撤収を開始するとしても、『魔女』の奇襲によって壊滅的な被害を被る可能性が十分にあった。
「それについてのこともその手紙の中に入っている。だから、早く荷造りを済ませるんだな。私達を殺したくない限りは」
「閣下は、本当にお人が悪い」
ヘルモルクが残した言葉を噛みしめながらクランハルトは誰もいなくなった部屋の中で一人恐縮した。
「つまり、これは私を死なせたくないと、後方への片道切符だと」
休むために戦っているのではない。経緯はどうあれ、今のクランハルトはその気でいた。そして、ついに自分は戦場を離れる。四十名余りが、例え己が悪くなかったとしても、結果的に眠るこの地を。
「さて、次はいつ花を添えられるのか」
まだ完全に固まりきっていない封蠟を潰さないように丁寧に手紙を懐にしまい、廊下に既に足音がしないことを確認してクランハルトもこの部屋を後にする。
「確かに、復讐に支配されていた私は視野狭窄だったのだろう。だが、だがだ。誰がこの心にこびりついた虚無感をこそぎ落としてくれるのだろうか。…ランカラに到着したら、今日は一杯ひっかけよう」
◆
「既に後悔は無い。ポーカーは得意だが、やはり最大の詐欺師にして賭け狂いには敵わんな。今のところは誰もが確かに抱く疑念に負けたに過ぎん。だが、これからよ。衝撃というのはやはり可能な限り大きくなくては。結果的とはいえきゃつの誘いに乗ることになったのは業腹だが、同じ皇帝の臣民として、と言われてしまえばだれが断れようか。貴族の奴がだぞ!?」
ヘルモルクは窓から冷気が漏れ、如何ともし難い廊下を上機嫌に歩く。暖房設備も貧弱で、そのくせ長い廊下を歩かせるようなここの造りには 彼も不満を零さずにはいられなかったが、今回ばかりはそんなことなどどうでもよいと思えてしまうほどに、彼の足取りは軽かった。
第一軍のラグノーブル撤退はつつがなく進行している。野砲群は形式上は展開しながらも、明日の夜明けと共にトラックで後方へと牽引される手筈となっており、歩兵を凍えさせることの無いよう半日でバルトニークまで輸送することができる数のトラックは用意させた。その後はつつがなく山脈沿いの防衛線に再配置を行いランカラへの補給線を断固として保持。そして敵の攻勢が始まり次第平野部では機動防御を、山岳地帯では遅滞戦術を行い、新大陸を少しでも延命させる。それが、ヘルモルクが今まで誰にも明かすことなく心の中で練り上げてきた新大陸の防衛計画だった。
「恐らく、発案者のリーベルトは私の動きを見て察したな。だが、あとは心配する必要もないか。…いや、一人だけ、奴の師範が厄介か」
彼の脳裏に浮かぶのは帝国陸軍まさにそのもの。レーリッヒ・フォン・ライレン上級大将。彼は、世界大戦で不敗だった。つまるところ、定刻の勝利の象徴でもある。
「いいや、厄介だ。だが、まあ、アレがあればどうにかお目こぼしを願えるかな。さあ、私も一度帰宅の用意をしなければ!そして、年末の帝国舞踏会のためにもよさげな衣服を手に入れなければならないな。…このご時世だ。まさかこんなことでもコネを頼らなければならないとは」
彼は、恐らく、いや確実にこちらが何をしでかそうとしているのかを察知していることだろう。ヘルモルクはそう考えてまた笑い、そして厄介事に巻き込まれる気配に肝を冷やす。
「…最初からここまで分かっていればあのようなことを追記しなかったのだが、いやまあ、これは私の浅慮だな。はあ、手痛い授業料を頂戴されそうだ」
とは言いつつも、やはりヘルモルクの足取りは軽快で、気分は上々といったところだった。ひとまずは、己の策が今まさに花開こうとしていることに乾杯。彼は勢いそのまま七本目の煙草に火を付けた。




