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第33話

 「アリア!アリア!」

 王子は狂ったように扉を叩き、恋人の名を叫んだ。すぐさま扉の向こうから、ノンナが顔を出した。彼女は王子がやってくるであろうことなど、とうに予測していたし、何より彼女には、自分は王子にとっては母親同然の身近な存在なのだという自負もあった。だが髪を乱し、その目にどこか人をぞっとさせるような険しさを秘めた王子の様子に、ノンナは覚えず怯んだ。彼女は努めて平静を装おうとしたが、その目に浮かぶ狼狽の色は、隠そうにも隠しきれなかった。だが王子は、そのような乳母の様子には構うことなく、更に激しい口調で訊ねた。

 「ノンナ、アリアは?アリアはどこにいる?」

 ノンナは口を開きかけたが、王子は彼女を押し退け、部屋の中に押し入ろうとした。

 「お待ちください!」

 ノンナは、自分よりも頭一つ分異常も背の高い王子に必死で縋りつき、彼を止めようとした。その様子に、王子はふと我に返った。ノンナの彼を見上げる目には、不安と動揺、そして恐怖の色さえ浮かんでいた。彼は漸く、自分の険しく、取り乱した態度に気付いた。

 「すまない、ノンナ・・・・・・。許しておくれ」王子は項垂れ、乳母を優しく抱きしめた、「もう、大きな声を出したりしない。きっとだ、約束するよ」

 王子は真っ直ぐに、まるで雲ひとつない空のように澄んだ青い瞳でノンナを見つめた。彼はやや憔悴しているように見えたが、その表情からは、既に険しさは消えていた。彼は今一度、乳母に問うた。

 「ノンナ、私はアリアに会いたいのだ。アリアは毎日、私を東屋に訪ねてきてくれていたのに、ここ数日、まるで姿を見せないのだ。私たちは兄妹のように育ち、あれほどいつも一緒にいたというのに。ノンナ、答えてくれ。アリアはどこにいる?まさかアリアの身に、何かあったのではないだろうね?」

 「アリアは・・・・・・、無事でおります。何も、変わりはございません」

 俯いたままではあったが、ノンナそう答えた。王子は胸を撫で下ろした。だが、彼女はやがて顔を上げ、彼の顔を真っ直ぐに見つめながら、やや厳しい口調で言葉を続けた。

 「アリアは無事でおりますが、あれがどこにいるか、それだけは王子様にお教えするわけには参りませぬ」

 「何故?それは何故だ、ノンナ?」

 王子は思わず訊ねた。その澄んだ瞳に当惑の色を浮かべ、王子はじっと乳母の顔を見つめた。そのあまりにもあどけない様子に、ノンナは思わず目を逸らした。だが、彼は乳母の顔をじっと見つめたまま、尚も畳み掛けた。

 「ノンナ、おまえは、私が聞いたことには、何でも答えてくれたではないか。それなのにどうして、今度は答えてくれないのだ?」

 ノンナは口を開きかけたが、王子のひたむきな様子を見ると、何も言うことができなくなってしまった。彼が訪ねて来たら、その時こそ、何故アリアが彼に会えないのか、会ってはならないのか、乳母として諭してやらねばと思っていたのに、舌はまるで凍りついたように動かず、彼女はただうろたえるばかりであった。

 狼狽し、口を噤んだままの乳母の様子を見て、王子は真顔になった。彼は一旦目を閉じ、大きく息を吸うと、やがてまたゆっくりと目を開けた。そして穏やかな、そして真剣な様子で話し始めた。

 「ノンナ、こうなった以上は、本当のことを話そう。私はアリアを愛している、子供の頃からずっと、私は・・・・・・」

 王子の言葉に、ノンナは思わず顔を覆った。彼女の打ちひしがれた様子に、王子はややまごついた。王子は、彼とアリアに限りない愛情を注いできてくれたノンナならば、きっと二人が結ばれることを喜んでくれるに違いないと、子供心に信じていたからである。彼は乳母に優しく声を掛けた。

 「ノンナ、今までそなたにこのことを話さなかったのは、本当に悪かったと思っている。許してほしい。率直に言おう、私はアリアに、結婚を申し込んだ。アリアも、いいと言ってくれた。ノンナ、今までそなたに黙っていたのは、本当に悪かったよ。けれども私がじきに十六歳になって、アリアを正式に妻に迎えられるようになったら、真っ先に話すつもりだったのだ。本当だ、嘘偽りはない」

 尚も打ちひしがれた様子の乳母の手を取り、王子は更に優しく語り続けた。

 「ノンナ、そなたはアリアが私と結婚したら、これまで通り一緒に暮らせなくなると思って、悲しんでいるのだね?安心おし、私はノンナを悲しませるようなことは、絶対にしない。ノンナの好きなときに、いつでもアリアに会えるようにしてあげる。そうだ、私たち三人、いや、おまえの息子のオリヴィエも一緒に、四人で同じ棟に住もう。オリヴィエも結婚したら、その妻も子も増える。とても賑やかになるであろうな。そのためには何をどのようにすればいいのか、私にはまだわからないが・・・・・・、きっと、そのようにできるよう、何とかしてみせるよ。きっとだ、約束する。だからどうか、もう悲しまないで」

 王子はあどけない、だが真剣な眼差しでノンナを見つめた。そのあどけないひたむきさが、老いた乳母の心をますますかき乱した。そもそも、王子が下女を正妻にし、また乳母やその家族と同じ場所に住むなど、ありえようはずがない。ノンナは深く嘆息したが、王子には宮廷の儀礼のことも、ノンナの心の内も、全く知る由がなかった。彼は是までになく苦渋に満ち沈痛な乳母の面持ちに、ただただ戸惑うばかりであった。いてもたってもいられなくなった彼は、思わずがばと跪くと、乳母の膝に取り縋った。

 「ノンナ、お願いだ、」王子は哀願するように言った、「お願いだから、もうそんなに悲しい顔をしないでおくれ。私たち二人のことを、ノンナに黙っていたのは、この通りだからどうか堪忍しておくれ。そして、さっきの約束も本当だ。ノンナ、私がおまえとの約束を、一度でも守らなかったことがあるか?子供の頃から、私はおまえとの約束は、きっと違えなかったではないか。だからお願いだ、許しておくれ。そして、アリアがどこにいるのか、どうか私に教えておくれ・・・・・・」

 「そんな、どうかお顔をお上げ下さいまし、」とうとうノンナは口を開き、王子を助け起こそうと屈みかけた、「王子様が、乳母の私にお願いだなどと・・・・・・」

 乳母の言葉に、蹲ったままの王子の長身の体が、ぴくりと動いたようであった。彼の双眸か、一筋の涙がこぼれ、ノンナの膝を濡らした。彼は起き上がり、乳母から身を離した。

 「王子様、王子様か・・・・・・」

 涙に濡れ、半ば閉じられた虚ろな切れ長の瞳で、王子は言った。口の中が乾き、彼の声は震えていた。

 「ノンナも私をそう呼び、そして妙な具合に、私を避けるのだね。他の召使がそうするように、形ばかりの王子である私を・・・・・・。私には母がいない、だからノンナ、私は、もし母がいたとすれば、きっとおまえのようだろうと思って、これまでずっとおまえを慕ってきたのに、それなのにおまえは・・・・・・。やはりおまえにとっても、私はただの名ばかりの王子、それだけの存在にすぎなかったのだね。おまえもやはり、他の召使たちと同じだったのだね・・・・・・」

 「それは違います!」ノンナは思わず否定した、「王子様、そうではないのです。ただ・・・・・・」

 「もうよい!」

 王子は涙に濡れた目を閉じて叫ぶと、踵を返し、乳母の部屋を大股に出て行った。溢れる涙を拭おうともせず、彼はそのまま、母の墓がある庭園へと走っていった。

 部屋には独り、置いたノンナだけが残された。彼女は思わず、その場に泣き崩れた。王子とアリアが幼かった頃には、彼女は二人のために、何でもしてやることができた。だが二人が成長した今、彼女はあまりにも無力で、ただ月並みな虚しい言葉で彼らを諭すよりほかなかった。彼女は、子供たちはもう自分の手の届かない、遠いところへ行ってしまって、もうどうしてやることもできないのだということを悟った。それが彼女を、救い難いほどの深い悲しみと、嘆きの底へ追い遣った。

 涙に暮れながら、ノンナはまた子供たちの将来を思った。彼女は王子の深い孤独を理解し、憐れみ、だからこそ彼を自分の子供たちとともに、我が子同然に育ててきた筈であった。だがそのことが却って、身分という壁に阻まれた王子とアリアを苦しめる結果となってしまったのだと思うと、彼女は我が過ちに、身も心も張り裂ける思いがした。

 ノンナは壁に突っ伏し、ひとしきり声を上げて泣いた。深い悲しみの底で、母である彼女は、ひたすら神に祈った。だが何を?何を祈ればよいのか、彼女自身にもわからなかった。ただ彼女は、子供たちのために祈り続けた。母の涙は枯れることがなく、祈りも絶えることがなかった。

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