第32話
涙に濡れた枕の上で、アリアは目を醒ました。傍らには、母が眠っていた。彼女は浅いまどろみのなかで、昨夜の母の話を思い出していた。彼女には、それがまるで、一瞬の悪い夢のように思われた。だが、それは夢ではなかった。
半ばまどろんだままで、アリアは更に、思いを巡らした。王子と二人きりの空想の世界のなかの彼女は、美しい異国の王女であり、愛する王子と必ず結ばれる運命にあった。だが、それは限りなく美しい幻想にすぎなかった。現実の彼女も、空想の中の異国の王女と変わらず、美しいには違いなかった。だが彼女にはもう、それが自分の現実での幸福には、何の役にも立たないことを知っていた。これまでの彼女にとって、満月のように美しい王子と、人を幻惑させるような甘い香りの漂うあの花園は、まさに世界の全てであった。そして彼女自身、それだけが自分にとって意味のあることなのだと無意識に信じていた。だが実際の彼女自身は、歴然とした、容赦のない現実に縛られていた。それを受け入れることは彼女にとって、死の宣告を受け入れるよりも酷であるように思われた。
アリアは物憂げに目を開き、ぼんやりと天井を見上げた。その目はどんよりと虚ろで、あの碧玉のような、いきいきと澄んだ輝きは失われていた。あの東屋にいるとき、二人だけの美しい世界のなかで、王子はいつでも、どのような窮地からでも、彼女を救い出した。高い象牙の塔の上から、蛮族の村から、そして、獅子や竜の棲む、暗く湿った洞窟かさえも。けれども最早、アリアは十分すぎるほど悟っていた。現実の彼には、彼女をこの現実というくびき、下女という身分から救うことはおろか、彼女をこの哀しみからさえも、救い出すことはできないであろうことを。
美しい幻想は硝子の破片のように砕け散り、アリアの心も、また砕け散った。砕けた幻想の破片には、満月のように美しい王子の姿だけがくっきりと映し出され、こちらに向かって微笑みかけているようであった。彼の優しい微笑み、彼女を見つめる、憂いを含んだ青玉のような瞳、風になびく長い金色の髪、彼女を抱きしめる、すらりとした腕、そしてあたたかく広い胸。彼女は目を閉じた。その緑色の瞳から溢れた涙は、頬を伝って流れていった。
アリアが再び、その大きな瞳を開いたとき、そこには悲壮なまでの覚悟の色が、はっきりと浮かんでいた。彼女は愛らしい葩のようなその形が歪むほど、ぎゅっと唇を結び、寝台から身を起こした。
―もう二度と、王子様にはお会いすまい。どうしても結ばれることができないのに、これ以上会うことは、互いの心を苦い涙で満たすだけ・・・・・・。
アリアはその日以来、あの東屋に出かけることは決してなく、王子の食事の世話をすることもなくなった。だが、彼女の恋人である王子は、彼女が彼とは二度と会うまいという、悲壮な決意を固めていることなど、全く知る由もなかった。王子は数日の間、夜明けから夕暮れまで、東屋でアリアが来るのを待ち続けた。だが、彼の愛する少女が、姿を現すことはなかった。彼は訝しみ、不安に駆られた。
―美しいアリア、私を、愛しい人と名づけてくれたアリア。私に愛を誓ったあの娘が、数日も姿を現さぬことなどありえない。
胸騒ぎに囚われ、王子は悪寒に襲われた。彼は居ても立ってもいられなくなり、花園を駆け出した。緩やかに結わえた艶やかに長い金色の髪を乱し、切れ長の、青玉のような目をかっと見開いて、彼はノンナの部屋へと走った。普段は大人しい王子の尋常ならざる様子に驚いた召使たちが、訝しげに彼を見つめていたが、彼は構わず走り続けた。やがてノンナの部屋に辿り着くと、王子は大きく肩で息をしながら、激しくその扉を開いた。




