第34章
ノンナの部屋から走り去った王子は、王家の人々が眠る墓が立ち並ぶ庭園に入った。他の墓から少し離れたところに、白い大きな大理石の墓石があった。この下に、彼の母である王妃ヨアンナが眠っていた。王子は独り、美しい大理石の墓石の前に佇んだ。
王子はじっと、墓石に刻まれた、若く美しい母の彫像を見つめた。幼い頃に乳母のノンナに連れられ、初めてここへ来て以来、彼が瞼の裏に思い描く実母の姿は、この美しい彫像の姿であった。母の顔は優しく微笑み、彼をあたたかく見守るように思われた。
王子に残されたのは、最早この既にいない母の幻影だけであった。彼は墓石に取り縋り、母親によく似た青玉のような瞳から、大粒の涙を流して慟哭した。母と同じ金の髪が乱れ、彼の美しい面に纏わりついた。泣きながら、彼は天を仰いだ。母のあたたかい肉体は、この墓の下に眠り、魂は空から自分を見守っているように思われた。彼はもう一度、大理石に刻まれた、美しい母の姿を見た。涙がとめどなく溢れ、彼はそれを抑えることができなかった。
やがて泣き疲れて、王子は地面に倒れ伏すようにして眠ってしまった。どのくらい眠っていたのだろう、気付くと既に、夕闇が迫っていた。まどろみの中で、彼は愛らしい歌声を聞いた。
愛の喜びは短いのに
その苦しみは
一生続く
王子は思わず目を開き、がばと起き上がると、辺りを見回した。彼はその歌声を、はっきりと聞いた。聞き逃しようがなかった。それは懐かしい、アリアの声であった。彼女が姿を現さなくなってからまだ数日しか経っていないというのに、彼はもう何日も彼女と会っていないような気がしていた。彼は目を凝らし、必死で恋人の姿を探したが、彼の目は彼女の姿を捉えることができず、歌声はすぐに遠ざかってしまった。
再び、アリアの歌声が聞こえてきた。今度は、少し離れたところから。王子は思わず、声を追って駆け出した。今会わなければもう一生恋人に会えないような気がして、生垣と墓石で迷路のように入り組んだ墓地の中を、彼は夢中で走り回った。幾つ生垣の角を曲がっただろう、そして、何度墓石にぶつかり、よろめいただろう。もどかしく長い道程の末に、彼の目はついに、恋人の長く美しい巻き毛が、生垣の角を曲がった瞬間を捉えた。心が急き、彼女に追いつく前の数秒の時間が、彼には何時間にも思われた。泣き出したいほどの焦燥感に駆られつつ、彼は顔を歪め、必死に走った。そして彼は漸く角を曲がり、愛しいアリアの姿を、ついに全てその目に捉えた。彼女は蹲り、墓石に白い花を供えていた。
「アリア!」
王子は思わず叫んだ。少女の歌声が止まった。彼女はさっと顔を背け、逃げ出そうとした。
「待ってくれ、なぜ逃げるのだ?」
王子は夢中でアリアを追いかけ、彼女を抱き止めた。そして、彼はひたむきな眼差しで、恋人に問うた。
「アリア、何故だ?何故、私から逃げようとする?どうしておまえは、私の目を見ようとしないのだ?アリア」
アリアは碧玉のような目を閉じ、両手で顔を覆って懇願した。
「お願いです、私を放して下さいまし!」
「いや、放すものか、」王子は首を横に振った、「私たちは、ずっと一緒にいようと約束したのに、おまえはそれを違えようとしたのだもの。放すものか。もう決して、放さないよ」
王子は一層強く、アリアを抱きしめた。彼女は顔を覆い、身を捩って答えた。
「王子様、私たちは、決して結ばれてはならないのです。王子様は王子様、私は所詮、はしためにすぎません。私たちが結ばれることは、互いを不幸にするだけなのです」
「ノンナだね」王子は言った、「ノンナがおまえに、そう言ったのだね。でなければおまえが、私の許を離れる筈がない。おまえは私に、あれほど素敵な名前をつけてくれたのだもの。おまえは私を愛していた、そして、今も愛してくれているはずだ。そうだろう?」
「お願いです、私を放して下さいませ!」
アリアは、更に身を捩った。
「アリア!」王子は遂に声を荒らげた、「私の目を見ろ」
彼はそう言うと、半ば強引に、アリアの顔を覆っていた両手を引き、彼女を抱き寄せると、そのほっそりと愛らしい顎に手をかけ、彼のほうを向かせた。彼女は、目を堅く閉じていた。王子ははっとして、思わず呟いた。
「可哀想に・・・・・・」
彼は切れ長の青い目を大きく見開き、そっとアリアの頬を撫でた。この数日で、アリアの薔薇色の愛らしい頬は、すっかり窶れてしまったようだった。アリアの閉じたままの双の瞳から、一筋の涙が頬を伝って流れた。王子は優しく恋人の髪を撫でてやり、囁いた。
「目を開けて、私を御覧。私の目を見ておくれ」
そして彼は、涙に濡れた、少女の閉じた双の目に、そっと口づけした。彼女はついに、その円らな瞳を開いて、愛する恋人の姿を見た。懐かしい、青い玉のように澄んだ美しい双の目が、彼女を優しく見つめていた。虚ろだった彼女の瞳に、碧玉のような澄んだ光が甦った。この数日、どれほど彼女は強く王子を求め、身も心も引き裂かれるような思いで過ごしてきたことであろう。少女はわっと泣き崩れ、若者の広い胸に顔を埋めた。
「王子様・・・・・・」彼女は言った、「もう、お会いできぬものと、お会いしてはならぬものと、アリアは心得ておりました。お会いすることもできませんのに、ここにいるのは何と辛いことでしょう。それで私は、明日の朝早くここを出て、城下に住む叔母の家に身を寄せるつもりでおりました。王子様のお姿を拝見すると、きっと悲しみにこの身が引き裂かれてしまうような気がして・・・・・・」
王子は、アリアを強く抱きしめた。
「決して、どこかへ行こうなどと思うな」彼は囁いた、「ノンナにあのようなことを言われたくらいでおまえと離れ離れになるような、そんな不実な男だと、おまえは私のことを思っていたのか。アリア、私はおまえを信じていた。だが今回のことは、私はもう何も言うまい。おまえに罪はないのだから。何があっても、私はきっとおまえを妻に迎えてみせる。だからおまえも、私を信じてほしいのだ」
王子は、切れ長の青い玉のような目で、確りとアリアの目を見て言った。その目は、それまでの夢見がちな少年の目とは明らかに違う、精悍といっていいほどの何かが宿っていた。アリアはその、鋭く美しい眼差しに見入られ、うっとりと恋人の姿を見つめた。
「おまえが欲しい」
王子は切なげにアリアを抱きしめ、愛らしい唇に激しく口づけした。これまでにない恋人の様子に少女は驚き、一瞬身を固くした。戸惑いと恥じらい、そして恍惚が、潮のように彼女のうちに沸きあがった。
「あの・・・・・・」
「怖いのか?」
王子は優しく問い返し、アリアの額にかかった前髪をそっと払った。そして静かに、彼女の円い額に接吻した。アリアはうっすらと微笑み、愛らしい仕草で、首をゆっくりと横に振った。若者はそっと少女を抱き上げ、柔らかい草の褥に横たえた。
アリアの薔薇色の頬は紅潮して火照り、鳩のような丸く愛らしい胸は、彼女の呼吸に合わせて上下していた。やや丸みを帯びた腰、滑らかな白い腕、草の上に広がる、艶やかな栗色の巻き毛、赤い葩のような、半ば開かれた小さな唇。そして何より、少女の自分を見つめる官能的な碧玉の双の瞳が、若者の心を強く捉えた。
王子はそっと、アリアの衣の紐を解いた。そして彼もまた、身につけていた衣を脱いだ。すらりとした彼の腕、広い胸、少年らしくほっそりとした腰が露になった。長身ではあるが、まだ線の細い彼の姿は、男というよりも、まるで神殿の壁画に描かれた少年神のようでもあり、緑の森に萌え出でた、伸びやかな若木のようでもあった。
若者は、空のように澄んだ精悍な青い瞳で少女を見つめた。彼はゆっくりと、柔らかな草の上に横たわる彼女の体に、己が身を重ねた。少女は白く滑らかな腕を伸ばし、若者を胸にかき抱いた。恥じらいは消え、恍惚のうちに、二人は互いを求め合った。




