第27章
王子は独り、広い花園のなかの四阿に佇んでいた。かつて、アーロンが初めてヨアンナに出会い、そして二人が逢瀬を重ねたあの四阿に。花園には、甘く心地よい香りが漂っていたが、花はどれもまだ開ききっておらず、膨らんだ蕾が微かに綻び初めるところであった。
王子は穏やかな眼差しで、愛らしい桃色の蕾のひとつを見つめた。そして、そっとそれに手を触れた。蕾は存外柔らかく、彼は思わず、手を引っ込めた。
こうして全てを忘れ、花を愛でることが、王子の心にかろうじて安寧を齎していた。彼自身、この広い宮殿の中で、ここだけが自分に相応しい場所であるように感じていた。彼は、四阿に設えられた長椅子に横になった。高い夕暮れの空に、群れを成して鳥が飛んでゆく。いつしか彼の心は、群れ飛ぶ鳥とともに、異郷の空を彷徨っていた。
「王子様!」
突如、鈴を打ち振るような愛らしい声が、王子の空想を遮った。彼はがばと起き上がり、声の主のほうを見た。
王子を呼んだのは、一人のうら若き乙女であった。艶やかな栗色の巻き毛を背まで垂らし、その円い額には、侍女が使う金色の輪飾りを嵌めている。陶器のように滑らかな白い肌、弓のような眉。小さく尖った鼻に、ふっくらとした薔薇色の頬、そして、朝露を含んだ紅い葩のような唇。ぽっちゃりとした剥き出しの腕、長いスカートの裾から覗く小さな足。どこをとっても天使のようといってよいほど愛らしい少女だったが、とりわけ美しいのは、碧玉のような緑色をした、ぱっちりと大きな双の眼だった。
少女は美しい碧玉の瞳を細め、弧を描いた眉を顰めてみせた。
「また、ここにいらしたのですね。もう随分遅いのに、いつまでもこのような所にいらっしゃったのでは、きっとそのうちご病気におなりですよ」
「アリアか。驚かせないでくれ」
王子も形のよい眉を顰めて、軽く少女を睨んでみせた。
「あら、だって母がこれを・・・・・・」
少女は困ったように言うと、美しい装飾のある毛布と、籠に入った蜜入りパンを差し出した。
「母が、四阿に長くいらっしゃるとお寒いでしょうし、お腹もお空きでしょうって。あの、お邪魔だったでしょうか」
王子は顰め面を解き、微笑んだ。
「毎日私の様子を見に来るくせに、何を今更。来てくれるのではないかと思って、私は待っていたのに」
王子の言葉に、少女ははにかみ、思わず俯いた。その様子を見て、彼も自分の言ったことに気付き、ふっと顔を赤らめた。二人はやがて顔を上げ、そっと見つめ合った。だが、なぜかすぐにおかしさが込み上げてきて、彼らは陽気に笑い転げた。
「それにしても」
アリアに椅子の片端を譲りながら、王子は話し始めた。
「いつもノンナには、有難いと思っているよ。私の乳兄弟である、おまえの兄という立派な息子がありながら、私に対しても実の息子にするように気遣ってくれるだろう。もし私の母が今も生きているとすれば、やはりノンナのように優しく私を気遣い、時には厳しく諭してくれるものなのだろうか?私には母がいないから、乳母だるおまえの母が、本当の母親のように思えるのだよ」
アリアが愛らしい声で答えた。
「母も、兄以上に王子様が愛しく思えてならないと、いつも私に申しております。ですが母は乳母、王子様は王子様ですもの。そのように思うのは、あまりにも僭越だと申して・・・・・・」
「王子様、か」
王子は唇の端を吊り上げ、やや悲しげに微笑んだ。その面差しはひどく大人びて見え、少女は覚えず心を動かされた。
「アリア」
暫しの沈黙の後、王子はやがて口を開いた。
「お前は、何故だと思う?」
少女は、訝しげに問い返した。
「何故って、何がでしょうか?」
「私に、名がないことだ。皆私を王子様と呼ぶ、お前の母であってもだ。だが私には、王子という呼び名のほかに、私自身を呼び表す名前がない。父である王には、国王であるということのほかに、アーロンという名がある。おまえにも、この城の侍女であるということとは別に、アリアという名がある。だが、私にだけそれがないのは、何故なのだろうな。どうして、私にだけは名がないのか・・・・・・」
アーロンの息子である王子は、最後はまるで、誰に問うともなく呟くように言った。それから彼はおもむろに立ち上がり、アリアのほうを向いた。憂いを含んだ彼の青い瞳が、夕暮れに紅く染まっていた。父に似て、背の高い美丈夫であった彼であったが、夕闇の中に佇むその姿は、どこか掻き消えそうに儚く見えた。彼は高い空を見上げた。
「皆私を王子と呼ぶが、私は一体、王子として何をしてきたというのだろう。ただ漫然と日々を過ごし、この四阿に佇むだけだ。私は一体何者で、何故ここにいるのだろう。この花園の花々は、今まさに天に向けて伸びやかに花開こうとしているというのに、私はいつまでも変わらず、この宮殿に閉じ込められたまま、蒙昧な一生を終えねばならぬのか。この城に生まれて、もうじき十六年にもなろうというのに、私を残して黄泉に去った母のことも、あの厳粛な面持ちで私を忌み嫌う父のことも、そして自分自身のことすらも、私は何一つ知らないのだ。こうして何者でもない者として、虚しく歳を重ねるのが、私の運命なのであろうか・・・・・・」
「王子様」
王子の口をついて出た悲痛な言葉に触れ、アリアは思わず、彼の広い胸に縋りついた。少女の突然の行動に彼は戸惑い、彼の心臓は早鐘を打った。その心臓の音を聞きながら、少女はあどけない、ひたむきな目で彼を見上げ、やがて愛らしい唇を開いて言った。
「これは、母が王子様には申し上げてはならないと申したことなのですが、王子様ご自身のことですから、お話致しましょう。辛い事実ならば知らぬほうがよいというようなお考えは、王子様はお持ちになりますまい。それに私が王子様なら、やはり本当のことが知りたいと思うに違いありませんもの。でも、このことはきっと、秘密になさって下さいね」
少女の真剣な様子に、王子は厳かに頷いて言った。
「アリア、私はきっと、秘密は守る。たとえどんなことを聞いたとしても、おまえが話したのだということは、決して誰にも言わないよ。そして、何を聞いても驚くまい。だから父や母、そして私のことで、おまえが知っていることを、全て私に話しておくれ」
王子の切れ長の青い瞳が興奮の色を帯び、アリアはやや戸惑ったが、半ば請うような彼の切実な様子に胸を打たれ、彼女はゆっくりと語り始めた。




