第25章
アーロンは皆のほうへ向き直り、祭司に尋ねた。
「遺体の埋葬の儀礼に使う、没薬は十分にあるのか」
「は・・・・・・、はい!」
祭司は、驚いた様子で答えた。アーロンが部屋から出てきて城の中の誰かに話しかけることは、これが初めてであった。ある者は恐れ、またある者は好奇心から、更に彼の姿をよく見ようとした。すっかり慄いた様子の神官に、アーロンは更に問うた。
「没薬は十分にあるのか、と問うておるのだ。恐れず、答えるがよい」
「は・・・・・・、はい・・・・・・。ここに、これだけの分がございます」
祭司は壷に入った没薬を捧げ持った.
「差し当たっては、これで十分かと・・・・・・」
アーロンは冷静に頷き、壷の中を検分しながら答えた。
「亡骸は、既に炎によって清められた。儀式は、一日延ばしても差し支えなかろう。本日のところは、王妃の葬儀としては申し分のないものであったが、清めの儀式に使う没薬がこれだけとなると、後々物笑いの種にもなろう。飛脚を呼び、至急手配させるのだ」
まだ若い祭司は驚き、頷いた。側にいた小姓が、急ぎ飛脚を呼びに行った。ただ立ち竦む祭司に、アーロンは言った。
「私は魔術師だ。書物に親しみ、あらゆる儀礼の作法も学んだ。そなたよりも私のほうが、こうした儀礼には詳しいはずだ」
皆は驚いて、アーロンの言葉に耳を傾けた。つい今しがた、リュートを奏でていたときとはうってかわった彼の様子は威厳に満ち、それまで部屋にじっと篭っていたとは信じられぬほどであった。白い装束に包まれたその姿は、どこか危うげではあったが、まさに国王と呼ぶに相応しい姿であった。
アーロンは、それまでのことが嘘のように、てきぱきと宮殿の中のあれこれを差配した。そして、ヨアンナの葬礼を、全て滞りなく行わせた。葬儀とそれに続く諸々の儀礼が全て終わると、城内には平静が取り戻されたが、アーロンはそれまでの彼とは、まるで別人のように振舞った。
アーロンは、何かを忘れようとするかのように、寝食も忘れて政務に没頭した。彼は地方官を新たに任命し、国のあらゆる場所を視察させ、調査を命じた。そして、水の少ない地域には灌漑を整えさせ、病の蔓延する地域には、診療所を設けさせた。そして、領民に過度の負担を強いることのない、収穫高に合わせた税の取り立てを法として定めた。更に、彼は地域ごとに食料の備蓄を促し、それが十分になると、軍事訓練を強化させた。詩人となるべく生まれたアーロンではあったが、彼の王としての手腕は、全く見事といってよいものであった。数年のうちに国は富み栄え、以前よりもずっと豊かになった。
アーロンが全てを上手く差配し、善政を敷いたため、初めはこの新しい曰くつきの王を恐れていた民草も、やがて彼を慕うようになっていった。だが、宮殿の中でのアーロンは、常に孤独であった。彼が見せた不思議な魔術の能力と、甘美だが人を狂気に陥れるリュートの調べ、そして、ジーナの復讐を果たした際に彼が見せた冷酷さ、残忍さが、城内の誰をも恐懼させていた。アーロン自身は常に冷静で、誰にも理不尽な要求をしたことなどなかったし、事実ヨアンナの葬儀の日以来、彼は一度もリュートを奏でることも、魔術を使うこともなかった。だが、それが却って、廷臣や宮女、小姓たちには不安であった。そうしたわけで、アーロンのすることに口出しするものは、最早誰もいなかった。
実際のところ、アーロンは常に、たとえようのないほどの深い孤独に耐えていた。何もしていないと、彼は押し潰されるような絶望に、いたたまれなくなるのを感じていた。だからこそ、彼は政務に没頭することで、心に浮かぶあらゆる考えを振り払おうとしていた。だから、城内の誰もが彼をどこか避けるように行動していたことなど、彼にとってはどうでもよいことだったのだ。彼は新たな友を必要としていたのでも、信用できる臣を必要としていたのでも、はたまた彼自身の溢れる愛を注ぐことのできる、新たな妻を必要としていたのでもなかった。彼は未だ、ジーナのかげに飢えていた。
美しかったジーナ、たった独りで、哀れに死んだジーナ。幸福だった遠い日々、彼女は美しい碧玉のような瞳で、アーロンに微笑みかけていた。彼女の匂やかな黒い髪・・・・・・。アーロンは記憶の中の彼女の陰を、必死で追い続けた。だが、もう二度と会うことのない彼女の影を強く求める一方で、彼女の記憶そのものが、彼には既に血を吐くような苦しみのそのものとなっていた。思い出の中の彼女の影という呪縛から少しでも自由になろうと、彼は国王としての役目、政務に多くの時間を注ぎ込んだ。
そうして、数年が過ぎた。だが、幾ら政務に没頭し、我を忘れようとしたところで、ジーナの影は何年経っても、アーロンの心の中から消えることはなかった。彼は確かに、ジーナの死に対する復讐を遂げたが、それから数年もの年月が経った今も、実際には何も終わっていないような気がしていた。なぜなら、儀式のあともジーナは甦らず、彼の前に現われることもなかったからだ。
アーロンは地に這い蹲り、天を仰いで祈った。
―ジーナよ、私におまえを忘れることができないのなら、はっきりともう一度、もう一度だけおまえの姿を見せておくれ。私は、神の名を口にすることすら許されない罪を犯した人間だ。だが、私の祈りは小さなこと。神よ、どうかこの祈りをお聞き届けください。ジーナを忘れることができないのなら、せめてもう一度だけ、彼女の姿をこの目で確かめたいのです。
幾度、アーロンはせめて夢の中でだけでも、ジーナに会うことができればと願ったことだろう。幾度、せめてその美しかった姿を絵師に描かせ、常に手元に置くことができればと願ったことだろう。だが、ジーナの死から何年もの年月が流れた今、彼自身にも、もう彼女の細かな特徴が思い出せなくなりつつあった。それでいて彼の心の中のジーナは、益々美しくなるようでもあった。その美しい幻影に、彼は常に苛まれた。
ジーナの不在に加えて、ヨアンナとの間に生まれた息子の存在が、アーロンを更に困惑させ、苦悩させた。アーロンの息子は、父に似て美しく利発であった。彼は、神官や廷臣から、宮女や小姓に至るまで、誰からも愛される少年に成長した。だが父であるアーロンは、自分の息子の姿をまともに見ることすらなかった。




