第21章
アーロンは、暫し祈るように頭を垂れていたが、やがて顔を上げ、ヨアンナの姿を見た。その姿は慈悲に溢れ、その両腕は優しく彼に向かって広げられていた。その彼女に、アーロンは大きく見開かれた黒い宝石のような目を向けた。その眼差しは頼りなく、見知らぬ大人に頼る、寄る辺なき子供のそれのようであった。
「ヨアンナ・・・・・・。私はこれから、どうすればよいのだ・・・・・・?」
アーロンが自らヨアンナに縋るのは、これが初めてのことであった。彼女は優しい微笑を浮かべたまま、諭すように言った。
「アーロン、あなたは私の夫となり、この国の王となるの。私たちの子供も、じきに生まれるわ。そうすれば、あなたは、父親にもなるの。王家の血を引く者の父として、あなたは王に」
彼女はそう言うと、地に落ちた宝剣を拾い上げ、それでアーロンの親指を傷つけた。そして、彼の親指を、広げた羊皮紙に押し付けた。
「アーロン、これに、あなたの名を記せば、あなたもこの国の王よ。全てはここから、また始まるの」
ヨアンナはそう言うと、アーロンにペンを渡し、署名するよう促した。だが、彼の指は酷く震え、まともにペンを握ることすらできなかった。ヨアンナはアーロンの手を支え、その名を紙に書いてやった。
「アーロン、この国の王、わが夫、そして、わが息子の父」
ヨアンナは、優しく、アーロンを見守りながら言った。そして、そっと彼を抱きしめようとした。仄かな光のような安堵に包まれ、彼はその抱擁に、一瞬幼子のように身を任せようとした。だが、彼はそうしなかった。彼は自分の身を、そっとヨアンナから引き離し、リュートを抱えると、力なくふらふらと立ち上がった。そして彼は、ゆっくりと宮殿のほうへ向かった。
「アーロン・・・・・・、どこへ行くの?」
ヨアンナが、不安に満ちた面持ちで、彼の後姿に問いかけた。彼は、ゆっくりと振り返った。苦悩、諦念、哀れみ・・・・・・。その黒い泉のように深く憂いを含んだ目は、彼自身のなかの様々な感情を映し出し、ヨアンナをじっと見つめていた。
どこへも」
アーロンは、穏やかに答えた。だがその超えは、深い悲しみに沈んでいた。
「待って、アーロン」
ヨアンナは彼を追おうとしたが、彼の悲しげな、懇願するような眼差しに気圧され、彼女は思わずその場に座り込んだ。
「・・・・・・すまない、ヨアンナ・・・・・・」
アーロンは目を伏せ、そう呟くと、未だ血腥さの残る宮殿へと、足を踏み入れていった。
「アーロン・・・・・・」
独り中庭に残されたヨアンナの瞳から、大粒の涙が溢れた。彼女は、痛々しいほどに悟っていた。アーロンはここに留まるであろう、だが、それは彼女に対する愛からではない。彼自身の絶望が、彼をこの宮殿に留まらせるであろう。だが、彼女には、彼を癒すことは永遠にできない。彼女は彼のため、母さえも殺した。だが彼女は、彼を恨んではいなかった。なぜなら、それは彼女自身が自らの意志でしたことだから。彼女はただ、彼が心に抱えた重圧、そして永遠に失われたジーナの美しい面影だけを思っていた。
ヨアンナは、傍らに置かれた宝剣と、膨らんだ自分の腹を、愛おしげに撫でた。愛するアーロンを思いながら。




