第20章
アーロンは無気力に目を開き、ヨアンナの姿を見た。そこには、彼の知る幼い少女とは違う、まるで大地のように揺るぎない、一人の女の姿があった。アーロンはくぐもった声で答えた。
「私は、王になることなど・・・・・・、望んではいない・・・・・・。私はただ・・・・・・」
アーロンは、ゆっくりと首を横に振った。彼は、そこから先の言葉を続けることができなかった。ヨアンナは暫し彼の姿を見守っていたが、やがてまた穏やかに口を開いた。
「アーロン、落ち着いて聞いて」
彼女は微笑んだ。その様子は、子供をあやす母親のようでもあった。
「あなたはそれでも、王にならねばならないの。私の父は死に、母ももういない。父母だけではないわ。宮殿は、最早死に絶えました。生き残ったのは私独りよ。そして、もうひとり・・・・・・」
彼女は静かに、上衣の帯を解いた。彼女の白い腹が、僅かに膨らみを帯びていた。彼女は慈しむようにそれを撫で、跪くと、アーロンの目を真っ直ぐに見つめた。
「アーロン、これは、私とあなたの子よ。私と、あなたの・・・・・・」
その言葉に、アーロンは一瞬目を見開いた。それは彼を、更に深い絶望へと突き落とした。口の中がからからに乾き、深い闇に突き落とされたような眩暈に襲われ、彼は思わず俯いた。絶望に打ちひしがれる彼に、ヨアンナは更に言葉を続けた。
「アーロン。あなたは、王宮を滅ぼした。けれども、私はあなたを恨んではいない。あなたは、来るべくして来たのだもの」
「私は・・・・・・、おまえなど・・・・・・、愛してはいない・・・・・・」
アーロンはそう呟くと、憂いに満ちた、もの問いたげな目をヨアンナに向けた。彼女の目は神々しいまでに澄み、優しく彼を見守っていた。
「わかっているわ、アーロン」
彼女は微笑んだ。
「あなたが私を愛していないことなど、初めから私にはわかっていたわ。私があなたを初めて見たのは、あなたが、父が死に追い遣ったあなたの恋人を抱き、城門の下で嘆き悲しんでいた、丁度その時だったのだもの」
彼女は更に続けた。
「私は覚えているわ、あなたの恋人であった人を。碧玉のような瞳と黒い髪をした、とても美しい人だった・・・・・・。私は見ていたわ、あなたの恋人を、父が無理に自分のものにしようとするのを。抵抗して生娘のまま死んだあの人を、父が城門から投げ捨てたのを。私はそのとき、怖ろしくて震えていた。私は恐怖のために、どうすることもできなかったの。来る日も来る日も、私は自分の部屋の窓から、死んだあの人を、成す術もなく見ていた。そして、心の中で詫び、祈っていたわ。すると、あなたがやってきたの。あなたが死んだ恋人を胸にかき抱き、嘆き悲しむ姿を、私はあの夜、窓から見ていたの。あなたは、まるで天使のように美しかった・・・・・・」
ヨアンナは一瞬目を閉じ、そしてまた言葉を続けた。
「そして、そのときから、私の心はあなたの虜となった。けれど、私にはそのときからわかっていたわ。あなたが愛することができるのは、ジーナという名の、あの美しい人だけ。他の誰をも愛する余地など、あなたの心にはないのだと・・・・・・。けれども、二年経ってあなたがここへやって来たとき、私はとても嬉しかったわ。あなたが何をしにきたのか、私にはわかっていたけれど・・・・・・。そして、そのことで、随分苦しみもした。けれど、あなたが私を愛していないということなど、私にはあまり重要ではないの。大切なのは、私があなたを愛しているということ、そして、この子がいるということだから・・・・・・」
ヨアンナはそう言うと、再び優しく自分のなかに宿った小さな命の膨らみを撫でた。そして、慈しむようにアーロンに微笑みかけた。その目は、まるで空のように青く澄み渡り、アーロンには正視することができなかった。彼は思わず、沈痛な面持ちで目を閉じ、そして深い絶望の淵から、再び高い空を見上げた。どこまでも澄み渡る広い空の下で、己の存在も、自分の心の中の愛も憎しみも、全てがあまりにも卑小であるように感じられ、彼は再び目を閉じた。
「ヨアンナ・・・・・・」
彼は頭を垂れたまま、呟くように女の名を呼んだ。




