第18章
衛兵は突然、その若い男の姿に見覚えがあるように思った。丈高くすらりとした姿、艶やかな黒髪と象牙のような白い肌、尖った鼻梁に、薄く形のよい唇。そして、その腕に抱えられた古いリュート・・・・・・。
―――あいつだ。あのリュートの男だ!
目隠しをして、国王の側でリュートを爪弾いていたアーロンの姿、他の楽人に混じり、手探りでリュートの弦を締めていたアーロンの姿が、衛兵の脳裏に過った。そして、彼が奏でる、聞くものの心を蕩かすような楽の調べも。
「き・・・・・・貴様・・・・・!一体何奴・・・・・・!」
うろたえながら剣を構える衛兵に、アーロンは目を細めて答えた。
「知りたいか?ならば教えてやらぬでもない。それまでおまえが生きていられればの話だがな」
アーロンは衛兵の目を見据え、ゆっくりとリュートを奏で始めた。衛兵の腕が彼自身の意志に反して、勝手に動き出した。アーロンに向けていた剣の切っ先が、抗い難い力で衛兵自身の喉に向かった。
「や・・・・・めろ・・・・・・!」
衛兵は呻きとも叫びともつかない声をあげた。そして、必死に刃の向きを変えようとした。だが、どうしても手がいうことをきかなかった。アーロンは更に彼を見据えて言った。
「教えてやろう。私は宮廷楽人などではない。私はここに、復讐のためにやってきたのだ」
「復・・・・・・讐・・・・・・?」
衛兵は問い直した。だがその直後、刃の切っ先が衛兵の喉笛を掻き切り、彼は断末魔の叫びをあげて絶命した。
今や、異変に気付いた多くの衛兵たちがアーロンを取り囲んでいた。しかし、彼等は仲間の一人に起こった予想外の出来事に躊躇し、どうにも手を出しかねていた。国王を殺したのもアーロンであることは、最早誰の目にも明らかだった。衛兵たちはアーロンを取り囲み、じっと彼をねめつけた。彼を囲む衛兵たちの輪がじりじりと狭まっていったが、彼の面には、怯む様子も、焦る様子も浮かんではいなかった。ただ彼は、太古の昔、神々を喜ばせた若い楽神のさながらに、リュートを軽く抱え、微かな笑みを浮かべて、衛兵たちに向かい合っていた。
突然、衛兵の一人が雄叫びを上げ、剣を振りかざしてアーロンに踊りかかった。アーロンはすかさず、リュートを爪弾いた。アーロンを襲った衛兵は突如振り仰ぎ、仲間の一人を一刀のもとに斬り伏せた。それは、あっという間の出来事だった。鮮血が飛び散り、返り血を浴びた件の衛兵は、はっと我に返り、漸く仲間を殺してしまったことに気付いた。
「お、俺は・・・・・・・」
衛兵の顔が苦痛に歪んだ。激しく動揺した彼は、思わず残った仲間の顔を見回した。だが、既に彼らは皆、アーロンのリュートの魔力の虜となっていた。ある者は目を剥いて痙攣し、ある者は爛々と目を光らせている。楽の音に魅せられた仲間の一人に斬りかかられ、彼自身も血しぶきを上げて床に斃れた。
最早誰も、狂った衛兵たちとアーロンを止めることはできなかった。衛兵たちは互いに刃を向け、剣を滅茶苦茶に振り回した。千切れた腕や足、生首が宙を舞い、大理石の白い床はぬらついた赤い血に塗れ、屍で埋め尽くされた。
アーロンは、辺りに溢れる鮮血の色に酔っていた。血の臭いに満ち満ちた殺戮の光景は、彼自身が思い描いていたよりも尚壮絶で、凄惨を極めるものであった。その目に映る血の赤と、辺りに立ち込める死の臭いは、突き上げるような衝動を彼のなかに呼び起こした。それは、まさに彼の妻を再びこの世に呼び戻すための供儀そのものによって呼び起こされる、太古の祭司の興奮であり、血に飢えた獣の興奮であった。
―――血だ、贖いの血だ。古老が語った伝説どおり、生者の血により、死者の魂は贖われるのだ。何よりも尊く美しい私の妻のために、更に多くの血が流されるであろう。この血の儀礼の末に、遂に我が妻は蘇り、私をその優しい胸にかき抱き、祝福してくれるであろう―――。
遂にその腕に抱くことの叶わなかった美しいジーナの微笑む姿が幾度も瞼にちらつき、アーロンは眩暈と幻惑を覚え、その身を震わせた。それはこれまでに感じたとのない恍惚の境地であったが、それでも彼は、尚もジーナの影を求めて、激しくリュートの弦を掻き鳴らし続けた。まだ生きている衛兵たちが、ぎくしゃくと彼に付き従っていった。
今やアーロンの祭具と化した衛兵たちは、宮殿中を駆け巡り、小姓や宮女、国王の妻妾たちを次々と手にかけた。宮殿は阿鼻叫喚の巷と化し、人々の断末魔の叫び、苦しみ呻く声、そして無数の屍で覆い尽くされた。
アーロンはリュートを抱えたまま、中庭に出た。そして彼は、天を仰いだ。血に紅く染まる宮殿に対し、空は目が染みるほどに青く、穏やかであった。アーロンは跪き、両腕を天に向かって伸ばした。祈りにも似た叫びが、彼の口をついて出た。
「どうか、神も照覧あれ!私が妻の肉体と魂を贖うためにこの手で行った、この盛大なる祭礼を。ジーナ!どうか見てくれ、私がおまえのために行った、この復讐の儀式を。私はおまえがいなくなってから、ずっとこの時を待っていた。おまえがいなくなってからの年月、ただおまえの復讐のためだけに、私は苦しい修行に耐え、いかなる屈辱も甘んじて受けてきた・・・・・・」
アーロンの大きく見開かれた黒い瞳から、大粒の涙が溢れ出た。
「ジーナ・・・・・・、私は・・・・・・」
空の青さが、彼の目を射た。




