2-4
『珊瑚、珊瑚っ』
「一悟にぃ?」
『珊瑚ちゃん、私も居るよ』
「二胡ねぇ」
『最近ちょっと楽しそうだったのに、また落ち込んでるな』
『珊瑚ちゃん。大丈夫よ、ちゃんと上手くやれてるんだから』
ああ、またいつもの夢だ。酷い頭痛に襲われた日や、嫌な感情が流れ込んで気分が落ち込むといつも見る夢。そう言えば、帝都に着いた夜には見なかった。あの日は一馬と陽一のお陰で、気分が楽になったせいかもしれない。
『珊瑚。お前だって、ちゃんと成長してるんだから元気出せって』
『そうよ、珊瑚ちゃん。他人と関わる仕事なんて、今までの珊瑚ちゃんなら絶対出来なかったわよ』
一度も会ったことなどない双子の兄姉は、珊瑚が産まれる前に亡くなっている。母から話を聞いたことはあるが、写真すら見たことはない。なのに夢の中の二人は、珊瑚が年を重ねるのに合わせて、同じように成長する。そうして夢の中で、いつでも珊瑚を甘やかすのだ。
「そうかな……。先生が置いてくれてるからお世話になってるだけで、自分で選んだわけでもないし」
『それだって、今までの珊瑚ならグズグズ言って結局断ってただろ?』
『そうよっ! それに、一人で殻に閉じこもってうじうじしてたじゃないっ』
おや、今日の二人はなんだか辛口だ。グズグズとかうじうじとか、今までこんな風に言われた覚えはない。今の自分は甘やかされるより、厳しい言葉を欲しがっているのだろうか。
『大体、先生だって自分で言ってたけど。おにぎりすらまともに作れないだろ?』
『自分で作れないってだけじゃなくて、あの発明品はちょっと凄かったわね』
一悟と二胡は、顔を見合わせてクスクスと笑い合う。
『あの時珊瑚は何を思い出した?』
『珊瑚ちゃんは懐かしいことを思い出してたわね』
あのとき一体何を思い出したのか、珊瑚は首をひねって考える。ああ、そうだ。初めておにぎりを作った子供の頃のことだ。
慌てて手を濡らさず握ろうとして、張り付いた米粒に顔を顰めた。手を洗って握り直したら、今度は湿りすぎてべちゃべちゃになった。塩加減が難しくて、まばらな味に目を白黒させたり。具のはみ出したおにぎりは、まるで先生の失敗作みたいで。だけど——。
「子供が失敗したおにぎりと、忠蔵さんを怒らせちゃったこととはやっぱり違うよ」
眉を下げた珊瑚に、二人は労るような笑みを浮かべる。
『まあな。でも、珊瑚は人との関わりについてなら、あの時と同じ子供みたいなもんだろ?』
『そうよ、珊瑚ちゃんはまだ人付き合いってもんが未発達だもの』
「でも、私もう十七だよ?」
子供扱いされたことが少し悔しくて、珊瑚はむきになって言い返した。
『人間関係だけで言ったらよちよち歩きの子供だな』
『その通り。お母さん以外、私と一悟しかまともに話した事ないものね』
果たして二人を人数に入れていいのか、疑問に思ったが口を噤んだ。もし入れなければそれこそ母しかいない。それはそれで複雑だ。
『悠真君にも自分で言っただろ? 大人だって痛かったり怖かったりするって』
『そうよ、少しずつ大丈夫になって行く事もあるのよね?』
「あっ、あれは子供に向けて言った言葉でっ!」
顔を見合わせた二人の兄姉は、同時にふっと笑いを漏らした。
『だーかーらー。珊瑚はまだ人間関係よちよち歩きだろ?』
『そうよ、やっと一人で歩き始めたちっちゃな子供でしょう?』
ぐっとうめき声を上げたまま、珊瑚は何も言えずに口ごもる。
そんな珊瑚を見つめる二人の眼差しはひどく温かで、珊瑚は口を尖らせながらふいっと横を向いた。
『ああ、もう時間だな』
一悟の言葉に二人を見上げると、その輪郭が淡く光っている。『またな』『またね』と優しい声が耳元に残り、珊瑚は眉を下げて見送った。
夢に後ろ髪惹かれる思いで目を覚ますが、瞼が重くて指で擦る。カーテンから差し込む光が顔を照らし、眩しさに顔を顰めた。はあと重いため息を吐いて、枕元の時計にふっと視線を合わせた。ぼやぼやとしていた視界がパッと晴れ、目に飛び込んできた針に慌てて飛び起きた。
(うわ、どうしよう! 寝過ごしちゃった。もうお昼前っ。先生の朝食を……)
そこまで考えてから昨夜のことを思い出した。気分が落ち込んであまりはっきりはしないが、確か昼までゆっくり休むようにと言われたはずだ。陽一の朝食だけ作り置きして、そのまま早めに休んだのだ。
もうすぐ十一時半。午前の診療が終わる時刻だ。初めての週末ということで、珊瑚は一人だけ午前も休みを貰っている。
胸元からネックレスを引き出した珊瑚は、そっと握りしめた。いつものように母を思い浮かべ、気持ちを切り替えるようにして起き出した。
身支度を整えると台所へ向かう。陽一と顔を合わせるのは少しだけ気まずいが、そうも言ってはいられない。カラカラに乾いた喉を潤そうと、コップに水を注いでゆっくり飲み干した。
「おはよう、珊瑚君」
いつもと変わらぬ陽一の姿に、珊瑚はほっと胸を撫で下ろした。
「遅くなってすみません。お疲れ様です」
「今日はゆっくりでいいんだよ。まだ疲れが取れないようなら、休んでても構わないから」
「いいえ、十分休ませていただきました。昼食の準備をしますね」
そう言ってたすき掛けをしようとした珊瑚を、陽一が「ちょっと待って」と引き止めた。
「今日はせっかく珊瑚君の初めての休日だからね。家事も休んで、この前の食堂へ行こう」
「はい」
これまでの珊瑚なら喜んで向かったのだが、今日は少しだけ気分が違う。あの食堂は好きだし、また行きたいとも思っていた。けれど、今は不安が先に立って足が重くなる。陽一がある程度はフォローしてくれるけれど、また忠蔵のようなことが起こらないとも限らない。同じように感情を口にしたりはしないが、あんな風にまた怒りを向けられたらと思うと今は怖くて仕方ない。
下を向いて黙り込んだ珊瑚の頭に、ぽんと何かが落ちてくる。ゆっくり顔を上げると、明るい笑みを浮かべた陽一の手が伸びていた。
「珊瑚君。昨日気付いたんだけど、僕が触ると楽にならない?」
珊瑚は目を瞬いた後に、「あっ」と声を上げた。失敗ばかりで頭がいっぱいになっていたが、言われてみれば陽一に肩を叩かれた瞬間流れていた感情が消えたのだ。
「そう言えば、先生が肩を叩いてくれた瞬間、すっと嫌な気分が晴れました」
「やっぱりそうだったんだ。それなら、珊瑚君が暗い顔して下を向いたら、思い切り背中を叩いてあげよう」
「た、叩かれるのは遠慮しますっ。さり気なくそっとでお願いします」
「はは、気をつけるよ」
「お、お願いします」
上目遣いで窺うように覗き込んだ珊瑚に、陽一はふっと笑みを深めた。また助けられてしまったと、情けなさも込み上げる。けれど、一悟と二胡の言うとおり。普通の人から見たら、人付き合い初心者なのだから仕方ない。そう開き直ることにした。
診療所から食堂までは、徒歩でたったの数分だ。あっという間に着いてしまい、心の準備ができていない。そんな珊瑚をよそに、陽一はさっさと店の扉を引き開けた。
「こんにちは」
「こ、こここんにちはっ」
鶏のような声を出してしまった珊瑚は、顔を赤くしながら扉を潜り抜けた。
「あらあ、若先生と珊瑚ちゃん、いらっしゃい。またきてくれて嬉しいわ」
にこやかに迎えてくれたのは、この店の女将だ。主人は奥で黙々と料理を作っているが、二人に気付くと「っらしゃい」と無愛想に声を掛けてきた。
店内は程々の客入りで、前に見た顔もちらほらとある。中には診療所にくる人もいて、「珊瑚ちゃん」などと呼びかけられたりもした。少しだけ怖くなり、何度か眼鏡を触ってしまう。けれど、気さくに呼んでくれた人の顔を見ると、みな笑みを浮かべていた。ちょっとは帝都に馴染めたような気がして、今度は逆に気分が上向く。
珊瑚は誰とも触れない壁際に座り、向かいの陽一と共にメニューと睨み合った。朝食を取らなかったこともあり、余計にお腹が空いてきた。食欲の無かったさっきまでが、嘘のようだ。
日替わり定食を頼んでしばらく待てば、盆を持った女将が機嫌よさそうにやってきた。目の前に置かれた料理からは、湯気とともに食欲をそそる香りが立っている。顔を上げると陽一と目が合い、いつものように「いただきます」と声を揃えた。そんな二人を少し離れたところで、女将が笑みを浮かべて見守っていた。
気分よく食べ進めていると、入口の扉がガラガラと音を立てた。すっと冷たい空気と共に、聞き覚えのある声が店の奥まで響いてきた。
「女将、いつもの」
「いらっしゃいませ。はいはい、いつものね。かしこまりました」
ビクリと肩が跳ねて、珊瑚の箸がピタリと止まる。気付いた陽一が怪訝な表情を浮かべて、珊瑚の視線の先を辿った。出入り口を振り向いてから、「ああ」と小さく呟いた。声の主もこちらに気付き、決まり悪そうに視線を彷徨わせた。しかし、青ざめる珊瑚の様子に目を留めて、女将に何か耳打ちをした。
「こんにちは、忠蔵さん。その後の調子はいかがですか?」
「若先生。今のところは何も変わらんな」
「少しでも気になることがあったらいつでもきてくださいよ」
忠蔵から視線を逸らした珊瑚は、青ざめたまま俯いた。その様子に気付いた診療所の顔見知りが、「忠蔵さんは口が悪いんだから」と声を掛ける。「うるさい」と一言答えた忠蔵は、じっとこちらを見たままだ。
「忠蔵さん、お急ぎの一品をどうぞ」
ムッとしたように女将を見返した忠蔵が、差し出された皿を受け取った。そのまま珊瑚と陽一の方へ真っ直ぐ歩いてくる。珊瑚は昨日のことが思い出され、更に顔色を悪くして身体を硬くした。
二人のテーブルの横で立ち止まった忠蔵は、ぬっと皿を突き出した。珊瑚は怪訝な表情でそれを覗き込んでから、忠蔵と皿を往復する。乗っているのは大変美味しそうなレバニラだ。同じように皿と忠蔵を見比べていた陽一が、ふっと思いついたように口を開いた。
「忠蔵さん、もしかして珊瑚君が貧血だと思ってます?」
「う、うるさいっ! うちの娘も同じように青い顔してるときは、いつもこれを食ってるんだ」
「珊瑚君を心配して?」
「そう言うわけじゃないっ。見る度血の気がないからちょっとばかり……」
「気になったんですね?」
口をモゴモゴとさせながら黙り込んだ忠蔵は、再び皿を珊瑚に差し出した。珊瑚は嫌いな人間をなぜ放っておいてくれないのかと思うが、陽一に促されて恐る恐る手を伸ばした。また触れてしまうのが怖かったが、気にすればするほど手が震える。両手でそっと皿を受け取るが、やはり指先が忠蔵に触れて心臓がどくんと大きく跳ねた。その瞬間、はっとして忠蔵の顔を見上げた。
「な、なんだっ」
「ありがとうございます、いただきます」
珊瑚がはにかんだような笑みを浮かべると、忠蔵はほっとした様子で踵を返した。
レバニラと残りの食事を全て食べ終えて、二人揃って店を出た。珊瑚は行きよりずっと軽い足取りで、診療所への道を陽一と並んで歩く。診療所に着くと、診察室の椅子で陽一と向い合わせに座った。
目の前には陽一の淹れたお茶の湯気が、ゆっくり立ち上っている。一口飲んだ珊瑚は、ふうと息を吐いた。
「先生、忠蔵さんに触れたら。昨日と同じように、不安と恐怖であふれていました」
「珊瑚君がどんな反応をするか、怖かったんだろうね」
「私、てっきり嫌われてるんだと思ってました。だから、渋々形だけの謝罪をしてくれたのかと思って」
「ははっ。それはちょっとだけ忠蔵さんが気の毒だけど……まあ、自業自得かな」
珊瑚はちょっとの間考えて、言葉を選びながら話し続けた。
「私、負の感情を沢山受け取ってきました。どれも痛くて、気分が悪くて。人を攻撃するみたいなものばっかりでした」
眉を下げた陽一に、珊瑚は「だけど」と言いかけて、忠蔵の顔を思い出した。
「今まで、不安とか恐怖とか、そういうのにも種類があるって考えたことがなかったんです」
「なるほど、種類か」
「忠蔵さんが昨日感じてた不安とか恐怖って、単純に病気がってことじゃなかったですよね」
「もちろん、病気が怖いってのもあると思うよ」
「はい。だけど、今日忠蔵さんから流れてきた気持ちは、そういうものだけじゃなかったんです」
珊瑚はさっき流れてきた感情と、昨日のものとを思い返した。昨日は強い怒りに打ち消されて、その直前の気持ちを忘れていた。けれどあれは、ただ怖いとか不安なんて単純な気持ちじゃなかったのだと、今日になって気付いたのだ。
「忠蔵さんの気持ちには、相手を思うものが混じってたんです。最初は負の感情のほうが強かったから、そっちばかり感じ取ってましたけど。でも、娘さんを気遣う気持ちがちゃんとあったのは本当だったんだって、さっきやっと気づきました」
陽一は、「そう」と答えて納得したように頷いた。
「先生は、そういうのを直接感じてないのに、ちゃんと分かってましたよね。私は強く感じたものだけで、忠蔵さんがただ意地を張ってるんだと思ってました」
「それは、僕が元々忠蔵さんの家族の事情を知ってたからってだけだよ」
「それだけじゃないと思います。こんなことを言うのは恥ずかしいのですが」
珊瑚は俯き加減で言い淀む。それでも再び顔を上げて、ひとつずつ考えながら続きを話した。
「私は自分の力が役に立つって、過信してました。患者さんは皆、自分の体調に不安とか恐怖があるのは当たり前で。誰もが同じようなものだと思い込んでました。忠蔵さんがあんなに怒ったのは、娘さんへの思いを台無しにされたからだったのに」
「だからってあんなに怒鳴る必要なかったよ。珊瑚君はもう少し自分に優しくしてあげてもいいのにね」
眉を下げた陽一に、珊瑚は不思議に思って首を傾げた。
珊瑚は昨日の時点で陽一が忠蔵の本心を言い当てていたことを、心の底では信じていなかった。自分の受け取った感情が全てで、その中に気遣いなんてないと思い込んでいたからだ。
そもそも他人は皆、珊瑚に冷たかった。忠蔵みたいに面と向かって怒鳴ってくる人はそういなかったが、触れれば十中八九嫌な気分が流れてくる。その後触れる機会があっても、忠蔵のように自分を気遣う人などいなかったのだ。それが少しだけ嬉しい発見で、陽一にも伝えようと思っていたのに、なぜだか上手くいかなかった。




