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診療所にきてから早五日。明日午後の休診を利用して、陽一が珊瑚の目を詳しく診察することになっていた。そのことを考えると不安と緊張が湧いてくるが、何かわかるかも知れないという期待も過ぎる。
診療所では少しずつ患者との触れ合いにも慣れてきて、多少は落ち着きも出てきたはずだ。気付けば眼鏡を触る回数も減っているし、会話もちょっとはできるようになってきた。とは言え、今までが今までだ。比較すればというだけで、実際のところはまだまだ浮いた存在に違いない。
初めてここへきたときに出会った悠真のように、触れることが役に立つことも何度かあった。彼ほど切羽詰まった人はそういないが、それぞれに色々な感情を隠しているものだ。
本当は痛くて辛いのに笑みを浮かべていたり、不安なのに平然と世間話をしていたり。悠真ほどの強い感情でないことが多くて、最初は声を掛けるのも躊躇われた。けれど、ある時思い切って声を掛けてみたのだ。
「あ、あのっ、もしよかったら」
珊瑚の差し出したクッションを見て、その患者は目を瞬いた後にほっとしたような息を吐いた。触れたときに苦しそうだったから、きっと座っているのも辛かったのだろう。背中にそっと添えてみると、その感情がいくらか弱くなった。「ありがとう」と声を掛けられ、珊瑚は口をモゴモゴと動かしながら頬を染めた。その様子はどう見ても挙動不審なのだが、今までに比べれば大進歩だ。
よくくる患者さんには、「新しい助手の娘は、若先生より気が利くな」などと揶揄われたりもした。他人からそんな言葉を掛けられた記憶のない珊瑚にとって、人の役に立てたことは新鮮な喜びだった。
そんなわけで、珊瑚は日々やる気に満ち溢れ、ちょっとばかり調子に乗っていたのかも知れない。さて今日も頑張るぞ、と気合を入れたところで、入口のベルがカラコロと鳴り響く。
「お父さん、いつまでも意地張ってないで、しっかり診てもらいなさいよ」
「うるさい! 医者なんぞに用はないと言ってるだろうがっ。それを無理矢理引っ張ってきおって」
「大丈夫な訳ないでしょ! 昨日だってほとんど眠れてない癖にっ」
「黙れっ。昨日は考え事をしてたから寝なかっただけだ! 眠れなかった訳じゃないっ」
入口の扉をくぐって来たのは、初老の男と娘と思しき女だ。父親らしき男は、厳しい顔つきで腕を組み、不服そうに横を向いた。
慣れ始めたとは言っても、珊瑚はまだ人との関わりに十分慣れていない。喧嘩しながら入ってきた二人の勢いに押され、カチャカチャと眼鏡を触る。どう声を掛けていいのかもわからず、頭の中が真っ白になって立ち尽くした。
しばらく二人が押し問答を続けていると、診察室から陽一が顔を覗かせた。「こんにちは」と穏やかな声が待合室に響いて、珊瑚ははっと意識を取り戻した。
「あのっ、こ、こ、こちらへ、どうぞっ」
慌てて二人に呼びかけて、診察室の中へ案内する。娘に引きずられるようにして歩き出した男は、珊瑚の横でふんと鼻を鳴らした。そのまま不服そうに診察室へ入ると、患者用の椅子にどさりと音を立てて座る。相変わらず腕を組んで、渋面を浮かべたままだ。娘のほうが「すみませんが、よろしくお願いします」と頭を下げるが、男は黙って明後日の方を向いた。「まったく」とぶつぶつ言いながら、娘は男の隣の椅子に腰掛けた。
(ど、どうしようっ。えっと、何をすればいいんだっけ)
珊瑚は自分のすべきことも忘れて、きょろきょろと辺りを見回した。本来なら患者用のカルテの確認をして、新患なら名前などを書き入れるまでが珊瑚の仕事だ。しかしそんなことすら頭から抜け落ちるほど、珊瑚は動揺していたのだ。
「珊瑚くん、血圧計の準備をお願いできるかな」
ゆったりとした陽一の声に、珊瑚はビクリと肩を揺らした。気付けばいつの間にか陽一の手元には、患者のカルテが用意されている。珊瑚は顔を青くして、慌てて器具をしまった棚へと向かった。
(お、落ち着いて。せ、先生にも患者さんにも、迷惑かけないようにしなくちゃ)
考えれば考えるほどに汗が滲むが、どうにか手順を思い出す。微かに手が震えているが、唇を噛み締めて血圧計の準備を終えた。
「忠蔵さん、そんなに怒ると数値があがっちゃいますよ」
なんとものんびりとした陽一の声が、診察室の空気をほんのり緩めた。
「うるさい、若造。大先生はまだ戻らんのか」
「そうですねえ、まだ連絡も来ないのでしばらく戻らないかも知れませんねえ」
「ふん。まぁいい。さっさと終わりにしろ」
「もうっ。お父さんったら、先生に失礼な事ばっかり言って!」
「あはは、忠蔵さんは相変わらずですね」
慣れた様子で忠蔵を相手にする陽一の姿に、珊瑚はほっと息を吐いた。どうやらこれが日常のようだ。
陽一は忠蔵の顔の浮腫や下瞼の色などを手早く診ていく。聴診器を胸に当てられると、意外なことに忠蔵が大人しくなった。意地を張ってはいるが、陽一を信頼しているのかも知れない。慣れた様子を見ると、何度もこの診療所にきているのだろう。
少しだけ緊張の解けた珊瑚は、陽一に頼まれた血圧計を手に忠蔵の元へ向かった。いつもどおりに腕に巻き、自然とその手が腕に触れる。その瞬間流れてきたものに眉を下げ、思わず口を開いた。
「具合が悪いと、不安で怖くなりますね。眠れないのもお辛いですね」
診察室の空気が一瞬にして凍りつく。珊瑚はひゅっと息を呑むが、口に出した言葉はもう取り消すことなどできはしない。ガタンと椅子の音が部屋に響き、忠蔵が身体の向きを変えた。珊瑚を見上げた忠蔵は、真っ赤になって鬼のような形相だ。
「怖いだと? 誰が怖いと言ったんだ。儂が何を不安に思っていると言うんだ、この小娘がっ! 何も知らんくせに余計なことを言いおってっ」
最初は地を這うような低い声だったが、最後は怒鳴りつけるように大きくなる。忠蔵に手を添えていた珊瑚はすぐに離れたが、それでも一気に強い感情が流れてきた。俯いて表情を見ていない珊瑚にも、どれほどの怒りを買ったのかは痛いほど理解できた。
「す、すみません。あの、本当に……ごめんなさい。……ごめん……なさい」
すっかり顔色を失くした珊瑚は、謝る声も震えてどんどん小さくなっていく。最後には「ごめんなさい」と何度も呟くだけになった。下を向いて眼鏡をいじりながら、その身体も見る見るしぼんでいく。強い怒りに充てられて、気分も悪くなり今にも蹲りそうになった。
「珊瑚君、大丈夫だから落ち着いて」
ぽんと肩に置かれた手から、温かな体温が伝わってきた。その瞬間、今まで流れてきていた感情が一気に霧散する。ゆっくり顔を上げると、いつもの柔和な笑みを浮かべた陽一が珊瑚を見下ろしていた。その目はやはり静かなままだ。
珊瑚はほっと息を吐き、すぐに忠蔵の方へ視線を向けた。忠蔵はバツの悪そうな顔をしているが、部屋の空気は重いままだ。
「ふんっ。ちと言い過ぎたかもしれん」
「お父さんっ!」
ふいっと顔を背けた忠蔵は、腕を組んだまま口をへの字に結んでいる。
「忠蔵さん。娘さんに心配かけたくなかったんでしょう」
「な、何だ若造っ! いい加減なことを言うんじゃない」
忠蔵の娘は目を瞬き、父親と陽一を何度か見比べた。
「本当は痛くて夜も眠れない日がある。だけど、娘さんに知られたくなかった。母親をちょっと前に亡くしたばかりなのに、自分まで具合が悪いなんて分かったら。そう思ったら怖くて不安で仕方ないんでしょう?」
「そんなわけあるかっ! 大体具合が悪いだなんて誰が言ったっ」
陽一は腰に手を当て呆れた風に忠蔵を見下ろし、大きなため息を吐いた。
「この間叔父さんが出した薬、副作用がでるかもって言いましたよね? 薬が合わなければ違うものに変えるから、何かあったら教えてくださいってお願いしましたよね?」
「な、何も変わったことなどないわっ」
「次の薬も合わなかったらって不安もあるんでしょうけど、一緒に探していきましょうって言いましたよね?」
口を真一文字にした忠蔵が、遂には黙り込んでうめき声をあげた。隣で様子を見ていた娘の方は、「なんでちゃんと話さないのよ」とブツブツ文句を言っている。
「じゃあ、診察を続けますよ」
手早く診察の続きを終えた陽一は、サラサラとカルテにペンを滑らせた。状態が悪化しているわけではないと聞いた忠蔵は、心なしかホッとしているようにも見えた。
「今度はこちらの薬を試しましょう。何おかしいと思ったら、すぐに飲むのは止めて、必ずここにきてくださいよ」
陽一は薬の袋を娘に渡し、笑みを浮かべるがどこかいつもと違って見える。忠蔵に目を合わせると、更に口の端を上げて「次に僕の助手を怒鳴り散らしたら、嫌だと言っていた先生の病院をご紹介しますね」と釘を刺すのも忘れない。
忠蔵は最後まで不服そうな顔をしていたが、娘は何度も頭を下げた。目も合わせない忠蔵に、娘が文句言っている。診療所の扉を出ていく間際、珊瑚の前を通りかかったとき。ビクリと肩を揺らした珊瑚に向かって、「怒鳴って悪かったな」と呟いた。それは空耳だったかと思うほどの、ほんの小さな声だった。
珊瑚の気分が晴れることはなく、どんよりとしたまま診察室に戻っていった。どうにか気分を立て直そうと、いつもどおりに片付けを進める。けれど、忠蔵の怒鳴り声が頭から離れない。
(酷いことを言われるなんて、慣れてるはずだったのに。どうしてこんなに苦しいんだろう)
珊瑚は胸に手を当て、ため息を吐いた。
(ここにきて、皆にお礼を言われて。先生が受け入れてくれて、一馬君も優しくて。まるで普通の人みたいに生きていけるんじゃないかって思ってたのかな。バカみたい。そんなわけないのに、調子に乗って。先生にも迷惑かけちゃった)
調子に乗った結果が今なのか。考えれば考えるほど、思考が底なし沼にはまっていく。眼鏡を触ることすら忘れて、自分の爪先をじっと見つめた。表情を作ることもできず、じわりと目元が熱くなる。
「珊瑚君、だめだよ」
ふっと掛けられた声に、慌てて顔を上げた。眉を下げた陽一が、心配そうに珊瑚を覗き込んでいる。
「今すごく落ち込んでるでしょう? 一人でぐるぐるしてたって、いい考えなんか浮かばないよ」
滲みそうな涙を見られたくなくて、再び俯いた。陽一が「ちょっと待ってて」と言いってから、診察室を出ていく。少しするとカラコロと出入り口のベルが鳴った。時計を見れば、もう診療時間を過ぎていた。きっと表の札をひっくり返しているのだろう。
診察室の前を一度足音が通り過ぎ、どこかの部屋で物音が響いた。きっとまた発明品を持ってくるのだろうと思うが、今の珊瑚は笑うこともできない。案の定何かを手にした陽一が戻ってきたが、珊瑚はいつものように言葉を掛ける気にはなれなかった。
「珊瑚君が一馬と一緒にここへ来た日に話してた、湯加減調整ができるティーポットだよ。その名も『茶葉の守護神セーフティー君』だ!」
いつもより少しだけ控えめな紹介は、珊瑚を気遣っているのだろうか。珊瑚は曖昧な笑みを浮かべて、頷くことしかできなかった。
「座って」と促された珊瑚は、素直に初めて座ったのと同じ椅子に腰掛けた。目の前には珍妙な名前のポットが置かれている。
ガラスのポットには、水に生姜、蜂蜜が入っている。その上の受け皿に、レモンとシナモンがセットされた。陽一がカチッとスイッチを押すと、あっという間に湯が湧いた。ふつふつと煮立つ湯の中で、生姜が泳ぐように揺れている。珊瑚はそれを見つめている内に、少しずつ気持ちが落ち着いてきた。
五分ほど眺めていると、カチンと音がして装置が止まる。受け皿のレモンとシナモンが投入されて、どうやらできあがったようだ。
「はい、どうぞ。特製のジンジャーティー」
「ありがとうございます」
目の前に置かれたカップから、ふわりと生姜とシナモンの香りが立ち上る。陽一が向かいに座って手にしたのを見てから、珊瑚も同じようにカップに口をつけた。
ピリッとした刺激にほんのりと甘さが広がり、飲み込むと身体の芯がぽっと温かくなる。一度息を吐いてからゆっくりもう一口飲み込むと、さっきまでの泣きたかった気持ちが大分薄れていた。
「先生、この発明品の名前って」
「どうしたの? 『茶葉の守護神セーフティー君』だよ」
「でもこれって、ジンジャーティーというか、生姜湯ですね?」
「ん? まあ、紅茶を使わないのもジンジャーティーって言うから間違ってはないと思うけど」
珊瑚はテーブルに置いたカップをじっと見つめてから、深く頷いた。
「茶葉の守護神なのに、茶葉を使っていないなんて、名前負けしてませんか?」
「あれ、気付いちゃった?」
「煮立ったお湯を眺めている内に、頭を過ったんです。いつ茶葉を使うんだろうって」
「あはは、案外冷静に見てたんだね」
頬を掻きながら苦笑いを浮かべた陽一に、珊瑚はクスリと笑みをこぼした。けれどいつものようにはならず、上手く笑顔が作れない。
「まあ、名前負けしてまだ成功とは言えないけど。珊瑚君がちょっとでも元気になったなら、僕が発明を続ける意味もあるってことだね」
珊瑚は目を瞬き、陽一を見つめた。元気づけようとしてくれたことは分かっていたが、発明品に何か意味があるとは思っていなかった。
「僕は感情を失くしてから、医者になっていいのかどうか分からなくなった。子供の頃からの夢だったし、諦めたくなかったけど。患者さんを笑顔にできるような医者を目指したいってずっと思ってた。だけど、相手の気持ちに寄り添うことはより難しくなったし、どうしたらいいのかなって」
陽一はポットをそっと撫でてから、ふっと息を漏らした。
「自分じゃ何も感じないけど。僕の下らない発明品で気分の落ち込んだ患者さんが、ちょっとでも笑ってくれたらいいなって思いついて。そのうち僕も楽しくなれたりしないかな、なんてね。……だから僕は、これからも下らないって言われても、どんどん新しい発明品を作っていくよ。一馬はいつもバカにするけど、なんだかんだで楽しそうでしょう?」
珊瑚は今までちぐはぐだった陽一の本音を知って、胸がなんだかぎゅっとなる。
「失敗したっていいじゃない。珊瑚君は忠蔵さんを怒らせようと思って言ったわけじゃないでしょう? 忠蔵さんだって分かってるよ。中には絶対取り戻せない失敗ってやつもあるけど、今度のは違うから」
唇を強く噛み締めた珊瑚は、俯き加減で首を横に振った。珊瑚の失敗と陽一の発明品では、失敗の重さが全く違う。
「すぐに立ち直るのは無理だろうけど。さっき珊瑚くんが忠蔵さんの気持ちを口にしたから、僕だって何でだろうって思い当たったんだ。忠蔵さんは怒ったけど、本音が分かってよかったこともあったと思う」
なおも俯いたままの珊瑚に、陽一が「それに」と続けた。
「僕のボロボロのおにぎりを見て、誰でも始めは失敗するって言ってくれたのは、珊瑚君でしょう」
そう言って笑った陽一の顔をゆっくりと見上げ、珊瑚は余計に泣きたくなった。




