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朝からやけに疲れたが、診療時間が始まるのはこれからだ。ひと仕事と言うには重労働だったような気がするが、本番に向けて珊瑚は気を引き締めた。
そわそわと入口のベルが鳴るのを待ってはみたものの、一向に患者は訪れない。肩透かしを食らったように思えて、珊瑚は待合室をふらふらと歩き回った。
「珊瑚くん、まあ落ち着きなよ。こっちにきてお茶でも飲もう」
のんびりとした口調で、陽一が珊瑚を手招きした。連れて行かれたのは、昨日陽一が昼寝をしていたという部屋だ。ここはどうやらガラクタならぬ陽一の発明品が置かれた部屋で、奥には衝立で仕切られた小部屋があった。どうやらそこが陽一の昼寝場所らしい。
少し大きめの机と椅子の向かい側には、簡易的な応接セットが設えられている。机の後ろ側には沢山の本が並び、珊瑚は思わず口をぽかんと開けて本棚を見上げた。それから周囲を見回すと、沢山置かれた棚の中には、陽一の発明品が並べられているようだ。さっきの命綱もここにあったものだろう。例のポットもここにあるのだろうかと探し始めたところで、カチャンと食器の音が響いた。
「患者さんがこないに越したことはないよ」
部屋を物珍しげに見回していた珊瑚は、応接セットに置かれたティーカップに視線を向けた。ゆらりと白い湯気が立ち上り、すっきりとした紅茶の香りが漂ってくる。
陽一に促されて応接セットのソファに座ると、礼を告げてカップに口をつけた。ほうっと息を吐き出してから、陽一を見上げて首を傾げた。同じようにカップを傾けていた陽一が、ゆっくりそれを置いてひとつ頷く。
「病院って普通、具合の悪い人がくるものでしょう? 誰も来ないってことは、皆元気で何事もなく過ごしてるってことだからね。それって喜ばしいことじゃない?」
珊瑚は、はっとしてから俯いた。
(初仕事だって浮かれて、そんなこと考え付きもしなかった。患者さんがくるのを今か今かと待ち構えてたなんて……私、なんて恥ずかしいことをしてたんだろう)
「でも、気持ちはわかるよ」
上目遣いで陽一の顔を窺うと、頬を掻きながら苦笑いを浮かべた。
「初出勤で叔父さんに同じことを言われたからね。しかも僕なんて医者なのに」
情けないやと続けながら、陽一は眉を下げた。珊瑚は陽一に限ってそんなことは無さそうな気がしたが、確かめるのは止めておいた。本当だったとしたらなんだか悪い気がしたし、嘘なのだとしたら珊瑚のことを思ってのことだろう。聞くだけ野暮というものだ。
二人揃って紅茶のカップを傾けて、ほっと息を吐いたところで軽やかなベルの音が鳴り響く。カラコロと乾いた音を響かせながら出入り口の扉が微かに軋み、陽一が真面目な顔をして立ち上がった。
「さて珊瑚くん。初仕事の始まりだ」
「はいっ」
部屋を出る陽一の後に続き、珊瑚は待合室に踏み出した。紅茶を飲む前の少しだけワクワクとしていた気分とはまるで違う緊張感に包まれて、珊瑚は大きく息を吐いた。
午前の診察は夢中でなんとかやりきった。患者と触れないようにビクビクと不自然な動きをしていたが、それとなく気にしてくれる陽一のお陰で問題は起きなかった。
そもそも病院を訪れる人は、負の感情と言っても強い怒りや苛立ちを持つ者があまりいない。不安や安心、ちょっとした苦痛や不快感などで、珊瑚は気の毒に思いこそすれ気分が悪くなるようなことも無かった。
「珊瑚くん。僕はもう少し片付けてからいくから、先に二階へ行っててもらえるかな」
「はいっ」
珊瑚は真っ直ぐ台所へ向かい、昼食の支度を始めた。朝多めに炊いたご飯と焼いておいた魚をほぐし始める。他の具材も用意して、下準備が終わったところでカラコロと出入り口のベルの音が響いてきた。
急患でもあったのかと、慌てて手を洗って階段下を覗き込む。もっとよく見ようと身を乗り出すと、聞き覚えのある大きな声が二階まで駆け上がってきた。
「若せんせーい! お客さんがきましたよー」
「なんだ、一馬。今日はどんなお客様を連れてきたんだ?」
珊瑚はパチパチと目を瞬き、二人の会話に聞き耳を立てた。
「今日のお客さんは俺に決まってるだろっ」
「仕方のないやつだなぁ。来るのはいいけど、もう少し静かにできないかな」
「何だよ若先生、子供は元気が一番だろ?」
「一馬は子供扱いすると怒るくせに、都合のいいときだけそう言うんだから。全く口の達者なお子様だね」
何とも楽しげな話し声に、珊瑚はそわそわとした気持ちになる。自分も一緒に話してみたいような、けれど少し怖いような。躊躇う気持ちのほうがちょっぴり勝つが、昨日助けてもらったお礼をちゃんと言いたい。珊瑚は眼鏡がいつもの位置にあることを確認してから、階段に足を踏み出した。
「こ、こ、こんにちはっ」
変に裏返った声を出した珊瑚は、頬が熱くなって下を向きたくなるがぐっと堪えた。一馬はきっと、珊瑚がちょっとばかり挙動不審でも気にしない。昨日流れてきた純粋な気持ちは、彼の根が優しいのだと物語っているのだから。
「こんにち……は、えっ? あれ? 昨日のお姉さん! なんで上からっ」
驚いたように飛び退いた一馬が、挨拶をしながら更に後ずさった。すぐに珊瑚と陽一の顔をせわしなく見比べ、訝しげな表情を浮かべた。
「落ち着けよ、一馬。珊瑚くんは今日から僕の助手になったんだ。ここの三階で寝泊まりしてるからよろしくな」
あんぐりと口を開けた一馬は、今度はぱくぱくと開けたり閉めたりを繰り返す。珊瑚は「あっ」と声を上げ、きちんと挨拶をしなければと姿勢を正した。
「あ、あのっ。私、神崎珊瑚と申します。昨日は駅からここまで、ありがとうございました。きっ、きちんと名乗りやお礼もせずに、ご、ごめんなさい」
深々と頭を下げた珊瑚に、一馬は気を取り直して慌てた風に両手を胸の前で振った。
「えっと、昨日のことは気にするなって。あ、俺は一馬っ! いや、若先生が呼んだから知ってるか。……お姉さんは珊瑚か。なんか綺麗な名前だな」
「ありがとうございます、一馬君」
そう言ってはにかんだ珊瑚に、一馬はぽっと顔を赤く染める。
「珊瑚、よろしくなっ!」
「はい、よろしくお願いします」
真っ赤な顔で頭を掻く一馬に、珊瑚は笑みを浮かべた。落ち着かないその様子に、緊張していたのは自分だけではなかったのだと珊瑚は胸を撫で下ろした。そんな二人を眺めていた陽一は、やれやれと言った様子で一馬を軽く小突いた。
「一馬、いきなり女性を呼び捨てなんて失礼だよ」
「う、うるせえなっ。珊瑚が嫌じゃなければ別にいいだろ」
「そう大声でがなるなって」
大げさに耳をふさいだ陽一は、珊瑚に向かって軽く肩を竦めた。
「珊瑚くん、やかましいやつでごめんね。きれいなお姉さんに優しくされて、舞い上がってるだけだから気にしないで」
からかう様な笑みを浮かべた陽一に、一馬は再び口をぱくぱくとさせながら耳まで真っ赤に染め上がる。
(一馬君は、年上の異性が苦手なのかな?)
珊瑚はそんな風に考えながら、二人の気の置けないやり取りを見守った。そう言えば母は美人だと言われていたが、自分は一体どうだろうか。そもそも左目がこんな風なのだから、容姿がどうとも考えたことはなかったのだが。陽一はお世辞できれいだと言ったのだろうが、珊瑚はなんだかそわそわとした気分になった。
一馬は相変わらず赤い顔をして、なんだか少し怒っているようにも見えてきた。まだ名前の呼び方でぶつぶつ言っているところを見ると、珊瑚の許可を待っているのかも知れない。
「あの、私はどのように呼んでいただいても嬉しいです」
珊瑚の一言で、二人がぴたりと口を閉じた。口を真一文字に引き結んだ一馬を、陽一は呆れたように見下ろしている。
「ほ、ほら見ろっ! 呼び捨てでいいって言ってるんだからいいだろっ」
「一馬はかわいいやつだね。珊瑚くんが大人の対応をしてくれて感謝しなよ」
「なっ、か、かわいいってなんだよっ」
益々顔を赤くした一馬が、口をへの字にしてそっぽを向いた。珊瑚は少しだけ笑いそうになる口がむずむずとして、誤魔化すようにぽんと手を叩いた。
「そうだ、一馬君っ。今からお昼を準備するので、よかったら一緒にどうですか?」
一馬がくるりと顔をこちらに向けて、ぱっと明るい笑みを浮かべた。「ありがとな、珊瑚っ」と返事をするが、すぐに眉を下げて肩を落とす。
「嬉しいけど、家に戻らなきゃなんだ。弟が腹空かせて待ってるから、何か買って帰らないと」
「そうですか、弟さんが」
答えた珊瑚が考えたのは一瞬で、すぐにうなずき一馬に視線を戻した。
「ちょっとだけお時間いただけますか?」
「へ? まあ、先生のくだらない発明品の進み具合を見に来たところだから、ちょっとくらいなら平気だけど」
「わかりましたっ。少々お待ちくださいっ!」
珊瑚はすぐに踵を返し、階段を駆け上がった。二階の台所に戻ると、さっき用意しておいた具を使って急いでおにぎりを作る。多めに作っておいた卵焼きも添えて、二人分を丁寧に包んだ。何か入れ物はないかと棚を開けしめしていると、ちょうどいい具合の手提げを見つける。丁寧にその中にしまってから、「よし」と呟きそっと抱えた。
「一馬君っ!」
手提げを抱えて階段を降りると、一馬が何かを手にこちらを振り向いた。珊瑚がそっと手提げを差し出すと、目をパチパチと瞬いている。
「昨日のお礼と、お詫びに。先生のお宅のもので作っておいてずうずうしいのですが……もしよかったら、弟さんと召し上がってください」
「えっ? 俺、そんな大したことしたわけでもないのに。本当にいいのか?」
遠慮する素振りで手を上げ下げしているが、一馬は口元の笑みが隠せていない。
「一馬、せっかくだから受け取りなよ。まあ、要らないなら僕が貰うけど」
「なっ、なんで若先生にっ」
一馬は半ば奪うようにして手提げを受け取り、胸の前で抱え込んだ。
「珊瑚、弟の分までありがとなっ。今度お礼に約束した帝都を案内するから、楽しみにしといて」
「ふふっ。そうしたらまた私もお礼をしなくちゃですね。いつまで経っても終わりがきませんよ」
一馬は目を瞬いた後に、照れくさそうに視線を彷徨わせる。珊瑚はその様子を見て淡い笑みを浮かべた。二人の様子を見比べた陽一が、少し間を置いてから口を開いた。
「縁ってそうやって続いていくもんなんじゃない?」
珊瑚は陽一の顔をまじまじと眺めてから、少しだけ泣きそうな顔で笑った。
(私にも、そんな縁ができるのかな。例えば先生や、一馬君と。この先もずっと)
そうであったら嬉しいなと思いながら、二人の顔を交互に見つめる。久しぶりに母とそうであったような、自然な笑みが浮かんでいた。
「じゃあ、早く弟に食わせてやりたいから、俺は帰るよ。珊瑚、ありがと。またなっ!」
照れ笑いを浮かべた一馬が、扉に向かって駆け出した。
「はい、一馬君っ。また!」
「慌てて転んで落とすなよ」
「若先生と違って俺はしっかりしてるから大丈夫っ! じゃあな」
そう言って扉から出ていった一馬の後には、カラコロと軽やかになるベルの音だけが響いていた。扉を見つめた陽一が、「まるで嵐みたいなやつだね」と珊瑚をちらりと見下ろした。声を立てて笑った珊瑚は、頷きながら陽一と目を合わせる。
「じゃあ、僕らも昼食にしようか」
「はいっ」
二人は揃って二階に向かい、作りかけの昼食の準備に取り掛かることになった。
それから十数分。珊瑚は目の前のおにぎりを凝視して、一体何がどうなったのかと首をひねる。陽一の前に置かれた皿にも同様に、具のはみ出したぼろぼろのおにぎりが置かれていた。
「先生、これは酷いです。控えめにいいますが、酷いです」
「珊瑚君、オブラートって知ってる?」
「失礼しました。控えめにいって、ありえません」
「珊瑚君……おにぎりだって海苔で包まれてるのに、言葉を包まないのはどうしてだろう」
珊瑚は十数分前の自分を呪っていた。一馬と別れて階段を上ってから、台所に入る直前に陽一が「ちょっと待って!」と珊瑚を引き止めたのだ。そうして部屋の一番端にあった棚から、珍妙な発明品を取り出した。
「これは、おにぎりを握るための発明品なんだっ! その名も『おにぎり職人にぎる君』だ!」
珊瑚はとてつもなく嫌な予感がしたが、おにぎりくらいなら大丈夫だろうと任せてしまった。その結果が目の前のこれだ。
とてもおにぎりとは言えないような代物を、珊瑚は黙って見下ろした。
「おにぎり職人の技がこれとは」
「ごめん、珊瑚君。作り直してちゃんとしたのを食べよう」
「いいえ、いただきます」
珊瑚は目の前のおにぎりを慎重に手にとって、ゆっくり口に運ぼうとした。その途中でぼろぼろと崩れ落ち、みるみる内に形を失っていく。口元まで残っていたのは、ほんの一口程度だった。珊瑚はそれを呆然と眺め、その手が徐々に震えだす。
「ふっ、ふふふっ。職人が握ったのに、なんですかこれ。ふふっ。にぎる君なんて職人らしくもないし、下手くそなのも納得です」
「珊瑚君、ごめんね。ちゃんと改良して今度こそ完璧なおにぎりを披露するよ」
「先生……それより、自分の手で握れるように練習したほうが、絶対に早いですよっ。ふっ、あはははっ」
肩を落とした陽一が、「まいったな」と言いながら苦笑いを浮かべた。
「私も子供の頃は、上手くできなくて。こんな風だったのを思い出しました」
目尻を拭いながら笑う珊瑚に、陽一が目を細めた。ふわりといつもの柔らかな笑みを浮かべ、珊瑚とおにぎりを見比べた。
「今や家事ベテランの珊瑚君でも、そんな失敗してたんだね」
「ふふっ。始めは誰だって失敗しますよ」
「それって、僕の発明が失敗だってこと?」
「これで成功なんて言われたら、おにぎり職人が怒ります」
「やっぱりオブラートがないっ」
「まあ、いいけどね」と、陽一が少しだけ拗ねたような言い方をした。珊瑚はその様子に再び笑いが込み上げる。
幼い珊瑚の作った形のないおにぎりを、笑いながら母と食べた。今頃母はどうしているだろうか。そんな思いが胸を過ぎるが、誤魔化すように笑い続けた。




