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カーテンの隙間から差し込む光が、珊瑚の顔を照らし出す。眩さに顔を顰め、目を擦りながら伸びをした。大きな欠伸を一つして、ぱっと目に飛び込む景色に思わず飛び起きた。
(ああ、そうだった、ここで雇ってもらえる事になったんだっけ)
見慣れぬ部屋は平良診療所の三階だ。ドキドキと騒がしい胸に手を置き、襟元から母に貰ったペンダントの鍵をそっと抜き出す。視線を落としてから軽く握りしめ、小さく息を吐いた。
診療所に住まわせて貰えることになっただけでなく、陽一が改めて珊瑚の目を診てくれることになっている。とは言え、駅に着いたときから具合は悪いし、滞在するなら急ぐこともない。少し休んで落ち着いてからにしようと提案したのは陽一だ。
昨夜は頭を掻きながら気まずそうにした陽一が、家事ができないからと食堂に連れていってくれた。そこは、珊瑚がこの診療所にくる道すがら見たあの賑やかな食堂だった。笑い声の漏れ聞こえるその場所に気持ちが浮き立ったが、同時に誰かの感情を受け取りそうで怖くもあった。しかし実際は、陽一のさりげないフォローで杞憂に終わった。
(皆楽しそうだったし、私も仲間に入れて貰えたみたいで嬉しかったな)
食堂の様子を思い起こして、自然と笑みがこぼれる。明るい気持ちで起き出した珊瑚は、「よしっ」と気合を入れると、手早く身支度を整えて部屋を後にした。
最初に向かったのは台所だ。陽一は料理ができないと言っていたので、食事の支度は珊瑚がすることになった。その分の給料を上乗せすると言われたが、家賃の分で帳消しにしてもらうことになっている。
出入り口がレトロな扉だったので、台所はどうだろうと少しだけ心配だった。ところが意外なことに、水道やコンロなど一通りのものは魔石を使った道具だった。これなら邸で母と使っていたものとほとんど変わらない。
ご飯を炊いて、残っていた野菜を使った味噌汁にお浸し。甘めに焼いた卵焼きは母の味だ。昨夜食堂で分けて貰った干物を焼いて、同じく頂き物の漬物を添えれば完成だ。さて、陽一は何時に起きてくるのだろうかと思ったところで、直ぐ側の扉が音を立てた。
「うわあ、いい匂いのする夢の続きかと思ったら、本物だった」
整いきっていない髪のまま、ベストとスラックス姿の陽一が台所を覗き込んだ。
「せ、先生! お、お、おはようございますっ」
眼鏡をいじりながら出した声は、心なしか裏返っている。
「おはよう、珊瑚くん。久しぶりにまともな朝食にありつけて嬉しいよ。ありがとう」
目を細めて微笑む陽一は、本当に感情がないのかと疑ってしまうほどに機嫌がいい。
「すぐに召し上がりますか?」
「うん。あっちのテーブルで頂こう。僕も手伝うよ」
陽一は珊瑚の盛り付けた料理を手早くテーブルに並べていく。料理はできないと言っていたが、運ぶのだけは手慣れていた。きっといつも弘樹の料理を同じように並べていたのだろう。
全てを並び終えると、向かい合って席に着く。二人同時に「いただきます」と声が重なり、思わず顔を見合わせた。
「はあ、久しぶりに味噌汁が飲めた。珊瑚くんは味噌汁作りの天才だね」
「そ、そんな大げさなっ。これくらい誰だってできますよ」
「いやあ、実は僕も一回作ってみたんだけどね。なんだか物足りなかったんだよ。なんでだろう?」
首をひねりながら椀を見つめる陽一に、珊瑚は考え込むようにして尋ねた。
「どうやって作ったんですか?」
「水に具を入れて煮込んで、味噌を溶かした」
「先生、足りないのは出汁ですね」
「出汁?」
きょとんとした顔で珊瑚を見つめる陽一は、思っていたより表情豊かだ。その目だけが静かなことに、きっと気付く者はそうはいないだろう。
「具にも寄りますけど、大抵はかつお節とか煮干しとか、そういうので出汁を取るんです。きっと先生の選んだ具材は、それが足りなかったんだと思いますよ」
「ふうん、なるほどね。珊瑚くんは料理を作り慣れてるみたいだけど、いつも作ってたの?」
珊瑚は一瞬顔をこわばらせ、すぐに気まずい笑みを浮かべた。
「それなりに裕福で、使用人もいたのに……って思いますよね。私の食事はあまりまともなものが出てこなかったもので」
「ごめん、無神経なことを聞いたね」
「いいえっ、いいんです。実は楽しくもありましたから」
慌てて首を横に振る珊瑚に向かって、陽一は首を傾げた。
「母は裕福とは言え平民ですから。一応家事はできるんです。と言っても、簡単なお料理くらいでほかは苦手でしたけど」
小さな笑みを浮かべた珊瑚は、本当は料理でも失敗を重ねていた母を思い出す。
「この卵焼きも」
珊瑚は卵焼きを一口大に切り分けて、ぱくりと口に運んでみせた。
「ふふっ、自画自賛ですが美味しいです。だし巻きも好きですけど、少し甘めのこの味は、大好きな母の味なんです」
いつか食べて欲しい人がいたのだと、ぽろりとこぼしたことがあった。それが誰のことなのか、珊瑚にはわからない。もしかしたら結婚する前にいたという、恋人なのかも知れない。
「ほんのり甘くて優しい味だね。これ、僕の叔父さんも好きな味だよ、きっと」
頬に手を当てて幸せそうに微笑んだ珊瑚を、陽一が一瞬眩しそうに見つめた。二口目を噛みしめるその表情からは、何を思っているのかはわからない。
ゆったりとした食事を終えると、陽一がせめてもと片付けを買って出た。この家に食器洗いの魔道具はないようだ。
「先生、この診療所は魔道具があったりなかったり、色々ですね。出入り口の扉や、診察室の道具も旧式のものが多いですし。その割に台所は魔道具が揃っているのは、何か理由があるんでしょうか?」
便利に使えるのはありがたいが、この診療所はなんともちぐはぐな印象を受ける。大抵の病院は、患者の出入りが楽になるよう自動にするのが一般的だ。
「うん。そうだね……極稀になんだけど、魔石に反応しない程魔力の少ない患者さんがくることもあるんだ」
「魔石に反応しない? そんなに僅かな魔力しか持たない人もいるんですか?」
生まれたときから膨大な魔力を持っている珊瑚には、到底想像もできない話だった。この魔道具だらけの世の中で、その人達は一体どうやって暮らしているのだろう。
「本人も周りの人間も、隠したがるからあまり知られてないけどね。そのことで相談にくる患者さんもいるんだ。体調を崩しやすかったりするしね」
そう言えば、珊瑚の左目の傷が早く治ったのも、その魔力量のせいだと言われた。それなら魔力の少ない人は、さぞ暮らしにくいことだろうと思う。珊瑚の体質と、どちらがより大変なのかは分からないが。
「そう言えば昨日の夜に行った食堂も、出入り口が旧式でしょう?」
「あっ、そう言えばそうでした」
珊瑚は自分で扉を開けなかったし、かなり緊張していたのであまり覚えていなかった。しかし思い返してみれば、陽一が手を使って開けていた。
「あそこのご亭主と女将さんも、そういうお客さんにもきて欲しいからって旧式を使ってるんだ」
「そうだったんですか」
珊瑚は頷きながら、胸の奥がぽっと温かくなるのを感じた。母の知り合いである平良弘樹という先生は、どうやらそういう人のようだ。そして目の前の陽一も。更にあの賑やかな食堂までと思うと、とても幸運な出会いに恵まれたのだと笑みが浮かぶ。
「さすがに生活圏は旧式だと不便だから、魔道具を使ってるけどね」
そう言って笑った陽一は、「だけど食器洗いの魔道具はちょっと高くて買えないだけ」と頬をかいた。
(滞在のお礼に、いつか作ろうかな)
珊瑚がそんなことを考えている間に、陽一は皿を洗い終えて既に拭き始めていた。手慣れた様子から、本当は少しくらいなら料理もできるのではないかと疑ってしまう。
「珊瑚くんは診察時間までゆっくり休んでてよ」
「でも、お給金までいただくのにそういうわけには」
「あはは、真面目だなあ。本当なら長旅の疲れを癒すのに、数日くらいはゆっくりしててもいいくらいなのに」
「働かざるもの食うべからずです! できることならなんでもお手伝いします」
陽一は驚いたように珊瑚を見下ろし、すぐにいつもの笑みを浮かべた。
「じゃあ、診療時間はお願いするよ。それまでゆっくりしておいて」
「かしこまりました」
珊瑚はしっかりお辞儀をすると、気合を入れて部屋を出た。当然そのまま休むつもりなどない。簡単に掃除を済ませてしまおうと、体の前に握り拳を掲げた。
予め教えられていた掃除用具入れを覗き込む。魔石を使った掃除機も置いてあるが、これを使えば音で気付かれてしまうだろう。珊瑚は静かにできる窓拭きから始めようと、バケツと雑巾を手に口の端を上げた。
邸にいた頃から、部屋の掃除は自分でしていたから慣れたものだ。目に魔石が埋め込まれてから、珊瑚の世話はかなり手抜きになった。全くないわけではないが、どうにも中途半端で。気になる性分の珊瑚は、掃除も洗濯もいつの間にか自分でこなすようになっていた。
珊瑚と陽一の部屋がある三階の窓は、外から見上げたときからお気に入りの場所だ。美しいガラスで模様を象ったそれは、近づいてみるとかなり汚れていた。せっかくこんな素敵なものがあるのに、このままにしていては勿体ない。まずはここからやっつけてしまおうと、珊瑚は水を張ったバケツに浸した雑巾を、気合を入れてぎゅっと絞った。
半分開けた窓から身を乗り出し、いつもどおりに反対側の閉めたままの方を拭いていく。思った以上に汚れが酷くて、夢中になって擦っていた。ギリギリ届くかどうかのところへ思い切り手を伸ばした瞬間、突然身体が窓の内側に引っ張られた。驚いた珊瑚が悲鳴をあげそうになったところで、上から焦ったような声が降ってきた。
「何をしてるんだっ! 危ないじゃないかっ」
感情のないはずの陽一が、息を切らしながら珊瑚を見下ろしていた。いつの間にか窓枠下の床に座り込んでいた珊瑚は、心底不思議に思いながら首を傾げた。
「慣れているので大丈夫ですよ。私の部屋も同じ様な高さにありましたから、いつもやってたことですし」
陽一は一瞬眉を顰めてから、珊瑚の前に座り込んだ。
「そんな危ないこといつもしてたの? 君のお母さんもご存知だった?」
珊瑚は口を開きかけて、視線を彷徨わせた。珊瑚が身の回りのことを自分で済ませているのは、母もある程度は知っていただろう。けれど、窓を拭いていることは気付いていなかったかも知れない。母は元々家事に疎くて、そこまで気が回っていたとは思えないからだ。
カチャカチャと落ち着きなく眼鏡を触る珊瑚に、陽一はため息を吐きながらくしゃりと前髪を掻き上げた。
「怒ってるわけじゃないんだ。ただ心配だっただけで」
「は、はい。わかってます」
「窓の外は今まで叔父さんが業者に頼んでたんだけど。そろそろ頼まなきゃいけないのをうっかり忘れてた。僕も悪かったんだ、ごめんね」
「い、いえっ。人様のお宅で勝手なことをしたのがいけないんです。すみませんでした」
「いいんだ。悪いことをしてたわけじゃないんだから、そう落ち込まないでよ」
陽一は眉を下げて、淡い笑みを浮かべた。いつもの静かな目は、やはり何も感じていないのだろうか。珊瑚はなぜかそのことにほっとして、眼鏡を触っていた手をそっと降ろした。
(そう言えば、お母さん以外にこうやって心配してくれる人なんて、誰もいなかった。私の事情を知ってるのに、気味悪がらずにいてくれるなんて)
そんな風に思うとなんだか少しくすぐったい。
「あのっ、ご迷惑でなければ、後半分だけですから続けてもいいですか?」
「参ったな。……そうだね、どうしてもって言うなら試して欲しいものが」
ちょっと待っててと言い残して、陽一は急いで一階へ走っていった。珊瑚が階段を覗き込みながら待っていると、再び何かを抱えて階段を駆け上ってきた。
ハンドバッグほどの小さな箱を片手に、心なしか楽しそうに見える。本当に感情がないのかと疑いながらも、なぜかほんのり嫌な予感がした。「これを使ってくれるなら!」と言いながら箱から取り出したのは、どうやら発明品の命綱らしい。
「これは、高いところから落ちても絶対安心、その名も『安全第一ピタっと君』だ!」
誇らしげに掲げているが、何とも言えないネーミングセンスに珊瑚の顔が渋くなる。かと言って、他にいい名前が思いつくはずもない。珊瑚は引きつり笑いを浮かべながら、説明を聞いていた。
「先生、これは……」
珊瑚は両手を伸ばして、自分の身体を見下ろした。腰には堅いベルトが巻かれ、上半身に繋がる柔らかなベルトがたすき状に巻かれている。腰と背中を繋ぐ部分からはロープが伸びており、その先には滑車が着いている。どうやらある程度の場所まで伸びると、自動でロックが掛かるらしい。魔石が使われている様子はないので、魔道具ではないようだ。
陽一はロープの先端を階段の手すりに固定しながら、額の汗を手の甲で拭った。
「これでよし。万が一珊瑚くんが落ちそうになっても、これなら絶対大丈夫!」
「は、はあ……左様で」
もしかしたら雇われたのはこの実験のためなのかも知れない。珊瑚の心に一抹の不安が過ぎるが、背に腹は変えられない。どうせここしかいられる場所はないのだし、何より珊瑚が窓から落ちるはずなどない。
「では、続けます」
「うん。一応気を抜かないようにね」
珊瑚は目を逸らしながら「はい」と答えて、そのまま窓枠によじ登った。
普段と同じように窓を拭き続け、ようやくあとひと撫でで終わる。そう思った次の瞬間——。
びゅうううっと今まで出会ったことのないような音が身体に纏わりついてきた。それが風だと気付いた瞬間、窓枠にかけていた膝がずるりと滑る。「あっ」と呟いたときには既に窓から身体がはみ出して、目を見開いた陽一の顔が一瞬視界を掠めてすぐに消えた。
「珊瑚くんっ!」
落ち始めた珊瑚に向かって、陽一が慌てて手を伸ばしてきた。窓から身を乗り出して、落ちる珊瑚を必死に掴もうとしている。
珊瑚は落ちながらその様子をぼうっと見上げた。
(感情がないって言ってたのに、どうしてあんなに焦った顔をしてるんだろう?)などと呑気なことを考える。
なぜか一向にロープは止まらず、そのままどんどん伸びていく。珊瑚は目を閉じ、静かな気分で下から突き上げてくる空気に身を任せた。
(地面に落ちたらどれくらい痛いんだろう)
そんな考えが頭を過った瞬間、突然がくんと身体に衝撃が走る。強烈な圧迫感が腰と腕の付け根を襲い、珊瑚は思わずうめき声を漏らした。気付けばそのままゆらゆらと地面スレスレで揺れている。
「さ、さ、珊瑚くんっ!」
すぐ陽一の声が聞こえ、珊瑚はゆっくり顔をあげた。
「珊瑚くんっ、無事かっ?」
「先生……見てのとおりです」
確かに名前の通りピタッと止まった。けれど、地面スレスレだ。これは果たして成功なのか失敗なのか。そんな考えがぐるぐると頭を巡り、珊瑚は口をむずむずと動かした。どう考えてもロープが長過ぎる。止める場所を間違えているとしか思えない。
「安全第一……」
ぽつりと漏らした珊瑚の呟きに、陽一は膝をついて頭を抱えた。何度も頭を下げては、申し訳ないと平謝りだ。
このとき珊瑚は、やはり自分は実験台に雇われたのに違いないと悟った。そして、悠真の妹の帽子を飛ばしたのはきっとこんな風だったのだろうと思う。
珊瑚は目の前で謝り続ける陽一を見ながら、なんだかおかしなところにきてしまったと思い、こっそり笑みを浮かべた。




