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「結構深いな。泣きもせずに我慢できるなんて、偉いね」
陽一は傷口の様子を見ながら、そっと少年の顔色を伺った。
先程まで号泣していた妹の方は、ぐずぐずと鼻を鳴らしながら母親の羽織りをぎゅっと握り締めている。母親はそんな妹を抱き上げ、椅子に腰掛け背を擦った。
「怪我をしたのはお兄ちゃんなのに、小夜子のほうが大泣きしていて。二人とも怪我をしたんじゃないかと思ったんですよ」
小夜子の頭をゆっくり撫でて、母親が苦笑いを浮かべた。
「聞けば小夜子のお気に入りの帽子が風で飛ばされて、手の届かない木の枝に引っかかってしまったようで。それを取りにお兄ちゃんが登ったみたいなんです。無事に帽子は取れたそうなんですけど、突然強い風に煽られて足を滑らせて」
「それで落ちて、運悪く下にあったガラスの欠片で怪我しちゃったんだね?」
少年は口を真一文字に結んだまま、こくりと頷いた。
「数針縫うけど、頑張れるかな?」
少年はまた一つ頷く。
「怖いかも知れないけど、麻酔をするから痛くないはずだよ。ちょっとチクチクするかもしれないけどね」
少年は再び頷くと、しっかりした口調で「大丈夫」と一言答えた。
それを見た妹が、「おにいちゃんいたいの? こわい?」と呟くが、母親が「お兄ちゃんは強いから大丈夫よ」と窘めた。
少年は処置の間何の声も上げず、表情も至って落ち着いていた。まだたった七つなのに、眉の一つすら動かさない。陽一は微かにもやもやとしたものが胸を掠めた気がするが、それも一瞬のことだ。
「よし、これでお終いだよ。よく頑張ったね」
少年の顔に変化がないかを見ながら、陽一が柔らかに微笑んだ。それらしい表情を作るのは、感情をなくす前から得意だった。それを見た少年はほんの少し肩の力を抜き、やはり我慢をしていたことが窺いしれた。
「あとは傷口の消毒を朝晩二回お願いします。抜糸は十日後くらいになるので、その頃また来てください」
母親は、ほっとしたように「わかりました」と返事をする。その様子に腕の中の小夜子も安心したのか、泣き疲れてうとうとし始めた。
一段落ついた陽一は、珊瑚が果たしてどうしているのか気になったが、一先ず患者を見送る事にした。
「休診日だったのに申し訳ありませんでした」と頭を下げる母親に、「急ぎの場合は、僕がいる時ならいつでもどうぞ」と返した。
診察室の扉を開くと、待合室のすぐ手前の椅子に珊瑚がぽつんと座っていた。しかし眼鏡をしきりにいじって、どうにも落ち着きがない。開いた扉から出てきた母子に気づくと、びくりと肩を揺らして徐に立ち上がった。
珊瑚は立ち上がってはみたものの、どうしたものかと二の足を踏んだ。しかし、不思議そうにこちらを眺める四人に向かって、意を決して歩き出した。母子を交互に見比べながら、「あ、あのっ!」と思い切って声を掛ける。
「あら、先程のお嬢さん。やっぱり患者さんだったのね。ごめんなさい」
母親が申し訳なさそうに頭を下げるが、珊瑚は「ち、ち、違いますっ」と慌てたように両手を振った。首を傾げた母親に見つめられ、眼鏡を触って視線を彷徨わせた。その直後、ごくりと喉を鳴らして少年の前にしゃがみ込む。
「あ、あのっ。初めまして、私の名前は珊瑚です。あなたの名前を教えてくれますか?」
少年は驚いたように珊瑚を見上げ、「悠真」と一言短く答えた。
「ゆ、悠真君。き、傷は酷かったのですか? 痛くはないですか?」
心配そうに尋ねる珊瑚に、悠真は小さく首を横に振る。
「悠真は名前の通り、穏やかで真っすぐで、とても我慢強い子なんですよ」
母親は微笑みながら、我が子の強さを当たり前のように褒めた。
「今回の怪我もだけれど、いつも我儘や泣き言も言わずに。よく妹の小夜子の面倒も見てくれる、とてもいい子なのよ」
ゆったり微笑む母親は、まるでいつものことなのだと言うように息子の肩を軽く叩いた。一方の悠真は黙って静かに立っている。珊瑚はその様子に微かに顔を歪めてから、悠真の顔をじっと見つめた。
「少しだけ、手を握ってもいいですか?」
驚いたように一瞬身体を仰け反らせた悠真は、珊瑚の顔をじっと見つめる。柔らかに微笑む珊瑚をしばらく眺め、やがて躊躇いがちに頷いた。珊瑚はそっと悠真の手を自分の両手で包みこんだ。
「悠真君……素敵なお名前ですね。我慢強くてとてもいい子。でも、怖かったら、不安だったら、そう言っていいんですよ?」
陽一と母親が、その言葉にはっと息を呑んだ。小夜子だけが、母親の腕の中ですやすやと眠っている。
「ぼく、別に怖くなんか……」
「いいえ、怖かったはずです。だって、……私だって絶対怖いですから」
「お、お姉さんは大人なのに?」
「そうですよ、大人だって痛いし怖いし、泣いちゃう事だってありますよ」
柔かく微笑む珊瑚の顔を見ながら、それでも悠真は少し考えてから唇を噛みしめる。
「でも、お姉さんは……女だもん」
「痛かったり怖かったりするのは、大人も子供も、男も女も関係ないんですよ」
そこでふと陽一の顔を見上げた珊瑚は、「ね、先生?」と問いかけた。一瞬動きを止めた陽一は、すぐに珊瑚の隣に膝をついて悠真と視線を合わせた。
「そうだよ、悠真君。僕だって痛かったり怖かったりしたら泣いちゃうよ」
眉を下げて肩をすくめた陽一の顔を、悠真はまじまじと見つめる。
「でも、ぼくは妹が出来たから強くなきゃいけないんだ。小夜子を守らなきゃだから」
その言葉に母親が「あっ」と声を上げた。珊瑚は悠真の手を軽く握り直す。
「痛がったり怖がったり、泣いてしまったって、小夜子ちゃんを守るお兄ちゃんにはなれますよ」
それに、と続ける。
「大人になったらちょっとずつ、今痛かったり怖いと思うことも、自然と大丈夫になっていったりするんです。だから、今からそんなに我慢しなくていいんですよ」
「ね、お母さん?」と母親に問いかけると、言葉もなく何度も頷いている。それを見た珊瑚は、ほっとして自然と安堵のため息を吐いた。
すると突然、悠真の目から次から次へと涙が零れ落ちてくる。ぽろぽろ、ぽろぽろと流れ落ちるのは、透明できらきらと光る宝石みたいに綺麗な雫だった。
「よく頑張りましたね」
ふわりとほほ笑んだ珊瑚は、悠真の頭を優しく撫で、木綿のハンカチで涙をそっと拭った。悠真の背に軽く手を添えて、母親の方へと促してやると「お母さん……こ、怖かったよぉ」と泣きながら母親に抱き着いた。小夜子を抱いたままだった母親はしゃがみ込んで、悠真の事も抱きしめる。
「ごめんね、ずっと気付いてあげられなくて。お母さん悠真に悪いことしたわね。ごめんなさい」
母親は何度も謝るが、タガが外れて涙の止まらない悠真は「怖かった、痛かった」とひたすら泣きながら繰り返した。
ひとしきり泣いて悠真が落ち着くと、母子は珊瑚と陽一に何度も頭を下げてから帰っていった。手を繋いで遠ざかっていく後ろ姿を見送りながら、珊瑚は母を思い出しそうになって軽く頭を振る。
余計なことかと思って躊躇っていたが、いい結果に転んでホッとした。内心では不安で怖くて仕方がなかったのだ。今になって膝が震えそうになっている。
これで心置きなく出ていける、そう思ってトランクを持ち上げようとすると、なぜかそこにはトランクが無かった。不思議に思ってきょろきょろと辺りを見回すと、なぜか陽一がトランクを抱えて珊瑚を見下ろしていた。
盗まれるとは思わないが、一体なんだと不思議に思い、首を傾げて陽一を見上げた。
「ときに珊瑚くん。今夜の宿はもう決まっているのかな?」
何も考えていなかった珊瑚は「うっ」と短く声を上げた。しかしすぐに、そうだ陽一に紹介してもらえばいいと思い直す。
「いいえ、まだです。あ、あの、もしよろしければ宿の紹介をっ」
「ここで僕の助手をして欲しい! 是非っ!」
言い掛けたところで少々食い気味に遮られた。
「は?」
他人との距離を取るのが当たり前で、常に敬語でしか話せなかった珊瑚だが、面食らって変な声が出てしまう。それにも気づかず陽一をまじまじと見つめ、遂には眉を顰めた。
「珊瑚くんは僕の叔父さんを訪ねてきたんだよね?」
「え? は、はあ、そう……ですね」
だから何だと言うのだろうか。珊瑚は怪訝な表情を浮かべたまま、陽一をじっと見つめた。
「叔父さんはいつ帰ってくるかわからない」
「はあ、先程伺いましたが」
「そもそもこの診療所は叔父さんのもので、僕は助手だったんだ」
「はあ……」
珊瑚は陽一が何を言いたいのかわからず、益々顔を顰めた。
「今は叔父さんがいなくて、助手の僕がなぜか仮の責任者だ」
「……そのようですね」
「で、何か足りないと思わない?」
「何か……いえ、足りていると思います」
何やら不穏なものを感じて、珊瑚はあからさまに目を逸らした。
「そうだね、珊瑚くんの言うとおり、足りないんだよ」
「……いえ、私は何も足りないとは」
「そうだね、助手が足りないっ!」
「……」
感情がないのは嘘ではないかと思うほど、陽一は最高の笑顔を浮かべている。それをぽかんと見上げながら、どう断るかを考える。
(ど、ど、どうすればっ? わ、私が助手? 嘘でしょうっ! 人と関わるなんて無理、絶対、絶っっっ対に無理っ!)
「珊瑚くんがいれば、きっと僕の発明も捗ると思うんだ。ねえ、そう思うよね?」
(……発明? それが本命なら助手はおまけなのかな。でも先生の発明に魔道具の知識なんて大して必要ない気がする)
少し頭の冷えてきた珊瑚は、俯き加減で悩み始めた。
よく考えてみれば、珊瑚は世間知らずだ。それなりに裕福だったので、生活能力はほとんどない。家事は一通りできるが、生活とはそれだけでは済まないだろう。何せ特殊な体質だ。帝都に出て平良弘樹先生に会えれば、なんとかなると簡単に考えていた。これから先のことを考えると、珊瑚の体質は酷く厄介だ。その点ここなら、陽一が事情を知っている。
「どうかな、ここで助手をやってみない?」
考え込む珊瑚は、後一押しで折れそうだ。
「助手をやってくれるなら、きちんと給金も出すよ。宿が決まっていないならちょうどいい。ここは診療所兼住居になってるから、部屋がいくつか空いてるんだ。あっ、もちろん鍵は付いてるから安心して欲しい。どうかな?」
給金の言葉を聞いて、気持ちがぐらぐら揺れ動く。裕福な家だったとは言え、それは珊瑚のものではない。手持ちの金は帝都までの道のりでだいぶ目減りして、どうにも心許ない。弘樹先生が見つかるまで滞在するには、どう考えても足りないだろう。
唸り声を上げた珊瑚の前に、すっと一枚の紙が差し出された。そこに書かれた数字を目にした珊瑚は、慌てて両手で紙を摑んだ。
「やりますっ! お願いしますっ!」
深々とお辞儀をした珊瑚に、陽一は満足げな笑みを浮かべた。




