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珊瑚は陽一の顔を見るのが怖くて、俯いたまま膝の上の拳を見つめた。カチャリと何かがぶつかる音がして、肩を揺らして視線を上げた。目の前に置かれたカップから、ゆらゆらと湯気が立ち上っている。
いつの間にか陽一がティーポットを片手に、二人分紅茶を淹れ直していた。ふわりと漂う優しい香りに、珊瑚はほっと息を吐いた。
「ありがとうございます」
「うん」
再び向かいに座った陽一が、カップに口をつけた。それに釣られるようにして、珊瑚もゆっくりカップを傾ける。味わってから一口飲み下すと、体の芯がじんわり温かくなった。
「人に触れるといつもそんなに酷い頭痛があるの?」
珊瑚は少しの間考えてから、小さく首を横に振った。
「いつもではありません。今日みたいに気分が悪くなることはありますけど。……でも、初めての酷い頭痛以来、毎年同じころに同じようなことが」
「じゃあ、今年は?」
「帝都へ着く少し前に、同じようなことがありました」
腕を組んで黙り込んだ陽一に、珊瑚はごくりと喉を鳴らす。まだ肝心なことを聞いていないのだが、それを言い出すきっかけが掴めない。
「それで、君はどうして帝都へ?」
珊瑚は視線を彷徨わせたあと、俯きがちに答えた。
「母が失踪したのです」
今からひと月ほど前、珊瑚は母と二人でいつもどおりの一日を過ごしていた。ふた月前に迎えた珊瑚の十七の誕生日を振り返り、来年は成人を迎えるから特別なお祝いをしようと母が言った。母に触れたところからは、心の底からそれを楽しみにしているような感情が流れ込み、珊瑚は余計に嬉しくなった。
しかしその翌日。目を覚ますと邸内がざわついていることに気が付いた。いつもと違う空気がひしひしと伝わり、なぜだか心臓が嫌な音を立てた。
不安を落ち着かせたくて、母の居室まで走っていった。いつもならとっくに身支度を済ませているはずの母の姿はなく、布団が乱れて床に落ちていた。
もしかしたら食堂に居るのではと、慌てて探しに行くがやはりいない。常日頃から目立たないようにしていた珊瑚が走り回るのを見て、使用人たちは不愉快そうにしていた。そんな様子に構う余裕もなく、只管母を探し続けた。
とぼとぼと母の居室へ向かっている途中、廊下の角に差し掛かったとき。向こう側から使用人の声が漏れ聞こえてきた。「突然旦那様がやってきて」とか、「私たちはどうなるの」とか。最後は「あの娘のために邸に残るなんて」と言っていた。
珊瑚は自分をモノのように見る父親の姿を思い出し、背中がゾクリと寒くなる。母が珊瑚に何も言わず出ていくはずはない。あの人が連れて行ったに違いない。
珊瑚の心は一瞬にして黒く染まる。まるで世界がモノクロになってしまったかのように、すっかり色褪せて見えた。珊瑚にとって世界の全ては母だったから。
いつの間にか辿り着いていた母の居室で座り込み、呆然とときを過ごした。
しばらくしてから辺りを見回すと、いくつもの思い出が浮かんでは消えていく。いつも一緒に座っていたソファ、幼い頃は添い寝をしてくれたベッド。成人を迎える前にと簡単な化粧を教えてくれた鏡台の鏡が、顔色を失くした珊瑚をそのまま映し出した。
それを呆然と見つめていると、ふとある日の光景が脳裏を掠める。
『珊瑚、成人を迎えれば大人の仲間入りよ。自分で身だしなみを整えられるようにしておきましょうね』
母はまるで自分のことのように楽しげで、弾むような声だった。
『成人の日は、お母さんがしてくれないの?』
『そうね、もしその日も出来ればお母さんがしてあげる』
『出来ればってどういう意味?』
『人生、何が起こるかなんて分からないものでしょ? 例えば、お母さんが寝坊して、間に合わないかも知れないじゃない』
『ふふっ。いつもしっかり起きてるお母さんに限って、そんな事ないよ』
そんな風にあり得ないと笑う珊瑚に、母はどんな顔をしていたっけ。
『珊瑚、いつ何が起きるかなんて解らない、それはよく覚えておいて』
『……うん。なんだか分からないけど、覚えとく』
その時触れた母からは、不安と心配の感情が流れてきた。けれどそれは、普通ではない珊瑚が歩む未来を案じてのことだろうと思っていた。
『そうだ、もし困った事があったら……その時お母さんがいなくても、必ず帝都へ行きなさい』
『帝都? 私一人で帝都に行って、どうするの?』
『お母さんの旧い友人を訪ねて。お母さんも行ければいいけれど、……もし駄目なら一人でも』
一人で帝都へなんて、とても無理だと首を横に振った。町へ行くのも怖いのに、よりにもよって帝都だなんて。十七にもなって情けないとは思うが、珊瑚にはどうしても勇気が持てない。
困ったように眉を下げた母は、立ち上がって鏡台の方へ向かっていく。不思議に思ってその後ろ姿を見つめていると、母が鏡台の鏡裏を珊瑚に見せた。そこには小物を置ける収納がついていて、いくつかの箱が並んでいた。その一つから鍵の通された鎖を出し、珊瑚の細い首にそっと掛けた。
『これは、珊瑚がずっと持っていて。きっとこれが導いてくれるから』
再び鏡台の箱の前に戻ると、そのうちの一つを手に取った。
『その鍵は、この箱のものよ。この中を見れば、訪ねる場所が分かるから。覚えていてね』
珊瑚はよくわからないままに頷き、首にかけられた鍵をそっと握り締めた。
陽一から視線を外した珊瑚は、着物の首元から鎖を引き出す。そのままずるずると鍵を出し、陽一にも見えるように指で摘んで胸の前に掲げた。
「この鍵で開けた箱の中には、『平良弘樹先生』の名前と住所の書かれた紙がありました」
陽一は「なるほど」と言ったきり、しばらくの間黙り込んだ。
母が弘樹先生のことを、目の専門医として知っていたのかはわからない。古い友人だと言っていたから、知っていてもおかしくはない。困ったときに訪ねるようにと言われたが、母が何を願っていたのかは結局のことろ聞いていない。珊瑚はいつか一緒にくるつもりだったから。
珊瑚が考えを巡らせていると、陽一がふうっと大きく息を吐いた。一気に現実に引き戻されて、慌てて眼鏡を直そうとするが今は眼鏡を掛けていない。
「君は、触れた人の感情が流れてくるって言ったよね?」
突然核心をついてきた陽一に、珊瑚はひゅっと息を呑む。聞きたいとは思っていたが、こんな風にいきなり話題にするとは思ってもみなかった。
珊瑚はしばらく視線を彷徨わせてから、躊躇いがちに頷いた。それを見た陽一が、無表情になって続けた。
「それなら、僕が触れて何か思うことはなかった?」
ぴんと空気が張り詰めて、珊瑚は緊張に喉が狭くなったような気がした。ごくりと喉を鳴らすが、飲み込むものは何もない。その様子を見た陽一は、感情の浮かばない目のまま少しだけ微笑んだ。
「ごめんね、怖がらせるつもりじゃないんだ。……もう気付いてると思うけど、僕もどうするべきか答えがでなくて」
気まずそうに頬をかく陽一は、感情がないとは思えないような表情だ。けれどよく見れば、やはり目だけがどこか静かだった。珊瑚はふうっと息を吐き、陽一を真っ直ぐ見つめて口を開いた。
「先生が触れたとき、正直すごく驚きました」
「うん」
「でも、ほっとしたのも本当です」
「ほっとした?」
目を瞬いた陽一は、首を傾げて続きを促した。
「邸にきてくださったお医者様は、皆触れると嫌な感情が流れてきて。とても……怖かったです」
「それは、嫌な医者に当たってしまったね」
「いいえ。普通の人が私の目を見れば、同じように感じると思います。だけど先生からはなにも」
言葉を切った珊瑚は、少し迷うように俯く。やがて顔を上げて、陽一の目を見ながら頷いた。
「先生の目は、とても静かで落ち着きます」
「僕の目が、落ち着く?」
「はい。大抵の人は、私を見るとき、もっと冷たい目をしてますから。だけど先生の目はずっと静かで」
「それは、ただ感情が浮かばないから」
珊瑚は首を横に振って続けた。
「先生の目は、静かだけど怖くないです。ただ感情がないだけなら、きっともっと冷たいと思います」
そう言って笑った珊瑚に、陽一は微かに瞳を揺らす。すぐにはっとしたようにサイドテーブルを振り向き、乗せてあった珊瑚の眼鏡を手にして向き直った。
「はい、これ。まさか魔道具だとは思わなかった」
「あはは、我ながら自信作です」
「僕の役に立たない発明品とは大違いだなあ」
珊瑚はぱちぱちと目を瞬いた後に、一馬との会話を思い出した。そう言えば、よくわからないポットを作っていると言っていたっけ。
「そ、そんなことありませんよっ。先生の発明だって、す、素晴らしいはずです! 多分、きっと……」
最後は声が小さくなって、眼鏡を掛けながら視線を逸らして誤魔化した。くしゃりと頭をかき混ぜた陽一が、決まり悪そうな笑みを浮かべた。まるで本当にそう思っているかのように、それでもやはり静かな目で。
「それにしても、せっかく叔父を訪ねてきたのにがっかりだよね。君の住まいは遠方なの?」
「がっかりなんてそんなこと。す、住まいは……鈍行を乗り継いでここまで、三週間ほどかかりました」
「そんなに大変な思いをして帝都まで出てきたのに、本当に申し訳ないね」
珊瑚は慌てて首を振り、小さな笑みを浮かべた。
「いいえ、連絡もなく突然訪ねてきたのはこちらの都合ですから」
「でも、本当に悪いことをしたな。叔父が出掛けたのは、多分僕のせいで——」
陽一の言葉が終わるかどうかのところで、カラコロと出入り口のベルの音が響いてきた。すぐに幼い女の子の泣く声が響き、珊瑚と陽一はそちらへ視線を向けた。
はっと顔を上げた珊瑚は、慌てて立ち上がりトランクを持ち上げた。
「突然押しかけてしまって申し訳ありませんでしたっ! 患者さんがいらしたようですから、私はこれで」
ぺこりとお辞儀をした珊瑚に、「あ、ちょっと待って。君も患者だよ」と陽一が慌てたように声を掛ける。しかしすぐに診察室の扉の前まで、女の子の泣き声が迫ってきた。ノックの音と共に扉が開かれ、顔を覗かせたのは真っ赤な顔をした幼い少女だ。
おずおずと部屋に足を踏み入れてきたのは、優しそうな母親だった。少女の手を引きながら、もう一人の少年と共に部屋の入口で立ち止まる。よく見れば、怪我をしているのは少年の方だった。膝に巻かれたハンカチが、真っ赤な血で染まっていた。少女とは対照的に、少年は顔色一つ変えずに平然としていた。表情だけ見れば、患者は少女の方だと思うだろう。
少女は五歳くらい、少年は二つ三つは年上だろうか。大人びた佇まいに、珊瑚はなぜか胸が痛む。
「あら、患者さんがいらっしゃったんですね。ごめんなさい」
母親が少女の手を引き立ち去ろうとするのを、珊瑚が慌てて止めに入る。「わ、私はもう帰るところですからっ」と、震える声で返事をしながら眼鏡を直した。身体を斜めにずらし、ぶつからぬように横をすり抜けようとした。その時、歩き出した少年がふらりとよろけて、珊瑚に向かってぶつかってきた。トランク片手に抱きとめると、思わず「あっ」と声を上げる。
不思議そうに珊瑚を見つめる母親に、珊瑚は口をもごもごと動かした。くっついていた温かなものがすっと離れ、見下ろすと涼しい顔をした少年がこちらを見上げていた。「お姉さん、ありがとう」と言ったきり、少年は診察室の中へ歩き出す。珊瑚は唇を引き結んでから、「お大事に」と声を掛けてその場を後にした。
陽一が珊瑚に向かって手を伸ばしかけたが、拳を握り込んでそのまま降ろした。
珊瑚が扉を閉める間際、診察室の中で優しい笑みを浮かべる陽一の顔が見えた。静かな目なのにやはり温かくて、ほっと息を吐き扉を閉めた。




