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陽一の変わらぬ表情を正面にして、珊瑚は驚きと戸惑いの気持ちで混乱していた。眼鏡を陽一によって外され、今まさにガーネットの目を晒している。右の次は左の下瞼を下げられ、貧血の具合を診察されている最中だ。
触れられた頬には陽一の静かな目とは真逆の、温かな体温が流れてくる。ところが、ただそれだけだ。そう、いつもなら流れてくるはずの感情を一切感じない。よくも悪くも人間は誰しも何かしら感じるはずだ。それなのに、それがまるで何もないのだ。
(どうしてだろう。いつもなら嫌な気持ちが流れてくるのに。同情すら感じないって、どういうこと?)
珊瑚は眼鏡を外す直前より深い混乱に陥っていた。眼鏡はないのに、無意識に顔の横で直す仕草を繰り返す。陽一は一瞬手を止めて、微かに目を瞠った。しかしすぐに温和な表情に戻り、何事も無かったかのように診察を続けた。
「軽い貧血だね」
紙にペンを滑らせながら、陽一は何気なく次の一言を呟いた。
「それより気になるのは……左目かな」
どくんと心臓が嫌な音を立てた。当然聞かれるだろうと思っていたが、いざ言葉にされると怖くなる。それでも彼は『平良』と名乗ったのだ。もしかしたらと期待する気持ちも湧き上がる。どうせもう目のことも知られてしまったのだ。ならば思い切って聞いてみるのもいいかも知れない。珊瑚はゴクリと喉を鳴らした。
「あの、失礼ですが。せ、先生は、『平良弘樹先生』と何か関係があるんでしょうか?」
陽一は動かしていたペンを止め、珊瑚の方に向き直った。
「なぜその名前を?」
「えっと、母が訪ねるようにと言っていたのが平良弘樹先生で。同じ平良先生ならもしかして、と思ったのですが。ち、違ったのならすみません」
「いいや。……そうだよ、平良弘樹は僕の叔父だ」
ペンを置いた陽一が、少し難しそうな表情を浮かべて続けた。
「この病院は叔父のものなんだ。僕は経験を積む意味もあってここで一緒に働いてたんだけど」
頬をかいた陽一は、困ったように弱々しい笑みを浮かべた。
「数日前、少し出掛けてくると書き置きを残したまま、帰ってきてないんだ。だから留守を預かってる状態だね。と言っても、僕もちゃんとした医師だから心配しないで」
「先生の叔父様で、今はお留守……」
「うん。君のお母さんは、叔父が目についての専門知識があるって知ってたのかな? こんな小さな診療所だけど、叔父はその道ではそこそこ名の知れた人なんだ」
珊瑚は落胆と同時にほんのりとした期待を寄せる。
(弘樹先生が居なかったのは残念だけど……この人なら、信用できるかもしれない。事情を話したら、何か力になってくれるかも)
穏やかな表情を浮かべた陽一を窺うように見つめる。話してみたい気もするが、本当にいいのだろうかと自問自答を繰り返した。
(話しても、きっと大丈夫。だって、この先生だって秘密を抱えてる。感情が流れてこないなんて、絶対普通じゃないんだから)
魔石のことを話せば、同時に陽一のこともわかるかも知れない。母が会おうとしていた人の甥だと思うと、少しだけ興味も湧いてくる。珊瑚はしばらく視線を彷徨わせた後に、決意を固めて陽一を見つめた。
「少し長くなりますが……私の話を聞いていただけますか?」
しかしその声は微かに震え、思いの外掠れて響く。真剣な表情を浮かべた陽一がしっかりと頷き、それを見届けた珊瑚は唇を噛み締めた。
「やめてっ! 珊瑚には……」
母の声が途中から悲鳴のように変わり、その後何を言っていたのか珊瑚にはわからなかった。
「絶対に許さないっ。……お願い、お願いだから止めてっ」
母が必死にしがみついているが、父親は何事もないかのように真っ直ぐ珊瑚へ向かって歩いてくる。珊瑚は何が起こるのかわからず、ただその場に立ち尽くしていた。
やがて目の前で足を止めた父親が、ゆっくり顔に向かって手を伸ばしてきた。珊瑚は頭を撫でてもらえるかもと、ほんの少しだけ期待を抱いた。しかし、その無機質な表情に気付き、反射的に逃げようとしたが足が動かない。使用人の手で引き剥がされた母が徐々に遠くなり、悲鳴のような声だけが耳に残っている。
父親の手が徐々に近づき、そこにキラリと光る何かが見えた。綺麗な石だと思った瞬間、全身に冷や汗が吹き出した。その刹那、左目が突然熱くなる。燃えるように熱を持ち、言い表せないような激痛へ変わる。全身を貫くような痛みに、珊瑚は声も出せずにその場に倒れ込んだ。
左目を抑えながら見上げた先には、モノを見るような目で見下ろす父親の顔があった。それきりぷつりと珊瑚の意識は途切れた。これは珊瑚の一番古い記憶で、三つのときだった。
父親は旧華族の出身だと聞いている。身分制度が廃止されたとは言え、今でもそこそこの影響力があるそうだ。母は平民だが裕福な家庭に生まれ、女には珍しく学問の道を志していた。魔石を扱うことに長けていて、珊瑚が魔道具を作れるのもそのせいだ。
両親の出会いは帝都の大学だった。父の一目惚れがきっかけだったと聞いているが、詳しいことはわからない。ただ、母が進んで結婚したわけではないことは、珊瑚にも分かっていた。
そんな二人だったので、仲がいいとはお世辞にも言えなかった。この出来事以降、それが決定的になったと言えるだろう。
痛みに気を失ってから、五日が経った頃。
目を覚ますと父親の姿はなく、いつもの天井らしきものが目に入った。顔を横に向けると、母が居た。珊瑚は包帯を巻いた左目はもちろん、右目もぼんやりとしか見えなかった。輪郭だけなんとなく浮かび、母の表情はわからなかった。酷い鼻声だったから、きっと泣き腫らしたあとだろう。
ろくに寝ずに看病をしてくれた母は、きっと自分も辛かったと思う。それでも珊瑚の頭を撫でながら、「ごめんね」とか「目が覚めてよかった」と、何度も繰り返していた。
それから更に一週間。ようやく身体を起こせるようになったが、診察した医師には気味悪がられた。三つの子供にしては、格段に回復が早かったからだ。理由は珊瑚が尋常ではないほどの、膨大な魔力を持っているからだと言われた。その魔力がこのとき以外、何かの役に立ったことはない。
包帯が取れてからは、特に何も変わらなかった。目に映る景色はいつもどおりで、違和感はない。ところがなぜか、人に触れる度に嫌なものが流れてくるようになった。珊瑚にはまだそれが何かわからず、度々顔を顰めた。そんな珊瑚を見た邸の使用人たちは、可愛くないとか性根が悪いと囁いていた。
流れてくる感情を少し理解できるようになったとき。笑みを浮かべた使用人にふと触れて、「あなたはあの人が好きなのね」と近くの男を指さした。場の空気が一瞬にして固まり、翌日その人はいなくなった。それから使用人たちは珊瑚のことを、それまで以上に避けるようになった。
歳を重ねる内に、それが他人の感情であることがわかるようになった。周囲の人間が自分を避けるのが、そのせいだと理解した。左目の魔石は異常なもので、自分の存在が異質であること。それでも母だけは変わらず、嘘偽りない愛情を注いでくれた。
幸い珊瑚の家は、裕福だった。普通に学校へ通うことは叶わないが、母は沢山の知識を持っていた。それらを惜しみなく与えられ、珊瑚は沢山のことを学んだ。それは普通に学校へ通っていても、教えては貰えないものだっただろう。特に魔石や魔道具に興味を持ち、やがて母の知識だけでは追いつかなくなった。
勝手に邸の中を探索しては、珍しい魔石をこっそり部屋へ持ち帰ったものだった。なぜそんな高価な魔石や、変わった本があるのかは今でもわからない。母は珊瑚が魔石を使っていることも知っていたが、ある程度は目をつぶっていた。一度だけ、使ってはいけない魔石を持ち出したこともあったが、咎められたのはそれだけだ。
「お母さん、見てっ! この眼鏡、すごいでしょう?」
それは今でも使っている珊瑚特製の眼鏡だ。これを掛ければ、途端に珊瑚の目はどちらも同じ濃茶に見える。自慢げに胸を張る珊瑚に、母は目を見開いた。
「どうしたのっ? まさか、珊瑚が作ったの? すごいわっ、本当にすごいっ」
母に抱きしめられると、途端に温かな気持ちが流れ込んでくる。
「これでお母さんと、町を歩ける?」
その一言で、流れてくる感情が突然変わった。それは温かさは残るものの、どこか切なく、そして深い後悔の念だった。
眼鏡を作ったのは十歳で、そのころ町ではまだ珊瑚の目の秘密は知られていなかった。母と手をつなぎ、普通の子どものように町を歩く。その手から流れてくるのは、喜びや楽しさだ。しかし、そうした珊瑚の振る舞いをよく思わなかった使用人が、町で珊瑚の秘密を囁いた。
たまにおまけをしてくれた明るいパン屋のおばさんも、母への贈り物を一人で買いに行ったとき、優しい子だねと頭を撫でてくれた花屋のおじさんも。誰も彼もが珊瑚に触れることを恐れて、目を背けるようになった。
珊瑚は町へ出なくなった。そして、眼鏡を外すのは、未だに心底恐ろしい。
その翌年、初めての激しい頭痛に襲われた。きっかけはわからない。そのとき誤って触れてしまった使用人の負の感情を拾ったからなのか。母には元々恋人がおり、だから両親が不仲であるとか。父親が珊瑚を可愛がらないのは、きっと他の男の子供なのだとか。そんな話をする使用人の声を聞いてしまったせいかもしれない。
それまで負の感情に触れる度、具合が悪くなることはあった。けれど、その時の頭痛はその比ではなかった。激しい痛みに蹲った珊瑚は、いつの間にか意識を失っていた。通りかかる使用人は、誰もそれを助けようとはしなかった。倒れてから母に見つかるまでの数時間、珊瑚は冬の寒い廊下の隅で凍えたまま転がっていた。




