14-2
西野と喫茶店で話をしてから二週間が経過した。珊瑚が帝都を、平良診療所を訪れてからもうすぐ一年が経つ。
珊瑚は三階の窓を内側から拭きながら、懐かしさに目を細めた。この窓から落ちそうになって以来、外側を拭くのは専門業者に任せている。真冬に吹く帝都特有の突風さえなければ簡単なことだが、あれ以来陽一の許可が得られなかった。
すでに食器洗い機も完成し、あとは全てが終わった時に披露するのみだ。効果を付与したタイピンは、渡せるかどうか実は自信がない。涼介が兄のように慕っていた人からの贈り物を嬉しそうに掲げていた姿を思い出す。自分が陽一に贈り物をして、あんな風に喜ばれるのだろうか。でも、自分は貰って嬉しかったのだから、きっと迷惑には思われない筈だ。
「珊瑚君、そろそろ涼介が来る時間だよー!」
一階から響く陽一の声に、珊瑚は慌てて返事をした。
「はいっ、今行きます!」
掃除道具を手早く片付け、たすき掛けを解く。支度を整えて一階へ降りると、丁度診療所の呼び鈴が鳴った。
「よっ。陽一、珊瑚ちゃん!」
いつも通り軽そうな笑顔で、涼介が扉を潜る。
「涼介、今日こそは勝手に街に出たりするなよ」
「わかってるって! ちゃんと大人しくここで珊瑚ちゃんのお守りをしてやるよ」
「お、お守りって! 篠塚さん、私はもう大人ですっ」
「いいか、珊瑚ちゃん。成人を迎えたからと言って誰でも簡単に大人になれるわけじゃないんだぜ」
「……そうですね、篠塚さんもまだ大人とは言えませんよね」
「お? やるか?」
「ほら、そういう所が先生や雅さんと違って子供なんですよっ」
「くっ、相変わらず厳しいな」
陽一が呆れ顔で肩を竦めた。
「相変わらず仲良しだね」
「どこがですかっ!」
「そうだな」
間髪入れずに答える声が重なるが、その返事は真逆だ。
「……そういうところかな?」
返事をしながらコートを羽織る陽一は、すっかり出掛ける準備は万端だ。
「じゃあ、そろそろ出掛けるけど、本当に二人とも気を付けてね」
「はい。先生も気を付けてくださいね」
「おう、任せとけって」
「……涼介だけじゃなくて柴村さんにも来て貰えばよかったな。いや、そうだ、今から食堂に」
「大丈夫だから早く行ってこいっ!」
陽一の声を遮るように涼介が急かした。
「……じゃあ、行ってくるよ。珊瑚君は叔父さんが転院したら一緒に会いにいこう」
「はい。楽しみにしてますって伝えてください」
「うん」
陽一は二人に片手を振って診療所を後にした。
「よし、俺たちは……大人しく待つしかないな」
「ふふっ。そうですね」
今日は、弘樹が大学病院に転院する日だ。日程が決まってから陽一が西野に連絡を取り、手配は予定どおり任せた。陽一は家族として署名しなければならない書類があったり、弘樹を一人で移動させる事への不安もあり、付き添うことになっている。
珊瑚も同行すると申し出たが、陽一と弘樹だけでなく、西野にも反対された。統司が珊瑚を利用する可能性を考えると、本調子ではない弘樹と一緒に外へ出ることはリスクが高いからだ。神殿の警護も、珊瑚が診療所で大人しく待っている方が都合がいい。人員はそれなりに割けるので、それぞれを警戒する方が効率的だ。
二人はいつもの発明品置き場で、珊瑚が入れた紅茶を飲んでのんびり陽一の帰りを待つ。
「それにしても、懐かしいな」
「何がですか?」
「ほら、初めて珊瑚ちゃんに会ったのがこの部屋だったと思って」
「……そうでしたね」
珊瑚は初対面の涼介を思い出し、顔を顰めた。陽一が不在になる状況を作って、珊瑚を値踏みしに来たのだ。今にして思えば、単に陽一を心配していただけなのだが。当時の珊瑚は涼介の態度に驚きはしたが、それ以上のことは感じなかった。自分に負の感情を向けられることには慣れていたからだ。だが、振り返って今考えてみると、涼介はずいぶん珊瑚を挑発していたように思う。
「あれ? なんか俺余計な事言った?」
「……あの時の篠塚さんは、かなり意地悪でしたよね」
「いや、悪かったって! 珊瑚ちゃんのこと何も知らなったからな。陽一のほうが心配だったんだ」
「わかってますよ。でも、忘れませんから」
「……まずったな」
「初対面の印象ってとても大切ですよね。篠塚さんのお陰で勉強になりました」
満面の笑みを作った珊瑚に、涼介は頭を掻いて決まり悪そうだ。
「それにしても、もう一年経つんですね」
「そうだな、あっという間だな」
「色々ありましたからね。でも、こうやって穏やかに笑って過ごせる日もあるんですよね」
「そうだよな。今日みたいに平和な一日をのんびりと満喫したいもんだな」
「……篠塚さんが居るのに平和ですか?」
「おっ、珊瑚ちゃんも言うようになったな」
紅茶を飲みつつ軽口を交わし、のんびりと陽一の帰りを待つ。部屋の空気は穏やかで、初対面の時のような張り詰めた雰囲気が嘘のようだ。そんな緩やかな空気を切り裂くように、診療所の呼び鈴と扉を激しく叩く音が響いた。
珊瑚はびくりと肩を揺らした。涼介が珊瑚を留め、素早く出入口へ向かった。
「私だっ、西野だっ……開けてくれ!」
涼介は珊瑚を振り返り、慌てて診療所の扉を開く。
「西野さん、どうしたんですか?」
ぜえぜえと息を切らした西野が、扉に手を掛けたまま腰を落とした。
「す、すまん、珊瑚君、篠塚君。……私の、私の判断ミスだ。護衛の配置を変更しなければ……」
珊瑚は慌てて診療所の出入り口に駆け寄り、西野の様子を窺った。
「すまない……陽一君が……、攫われた!」
珊瑚は何を言われたのか理解出来ず、茫然と立ち尽くす。
(――攫われた? 誰が? 今、西野さんは……誰の話をしてるの?)
「西野さん、どういうことですかっ?」
涼介の声が遠く聞こえる。珊瑚は何も考えることが出来ずに、二人の様子をただ見つめる。
「え、駅に向かう途中で、突然現れた馬車に引きずりこまれて……」
珊瑚は視界が黒くなっていくような気がして、ぱちぱちと目を瞬いた。
(先生が……攫われた? そんなはずない。きっと何かの間違いだ)
「珊瑚ちゃんっ! しっかりしろっ」
涼介に肩を掴まれ、流れ込んでくる感情に珊瑚はやっと正気に戻る。
「せ、先生が……私のせいで、先生がっ!」
珊瑚は居ても立っても居られず、西野の横をすり抜けて診療所の扉を潜る。考えるより先に走り出していた。行く先は陽一が通ったはずの駅への道だ。
「珊瑚君っ、待つんだっ!」
「珊瑚ちゃんっ、落ち着けっ!」
二人の声が追いかけてくるが、珊瑚の耳には入らない。自分に危険があるとか、誰かに迷惑を掛けるとか、いつもなら考えるようなことも頭の隅にすら浮かばない。
全速力で走り抜けて、駅の近くに人だかりを見つけた。近付こうと一歩踏み出したところで、後ろから力強く腕を引かれる。その勢いのまま振り向くと、息を切らして額の汗を拭う涼介がいた。
「珊瑚ちゃんっ、……一人で走るなって、陽一に言われたんだろ?」
「で、でもっ!」
「気持ちはわかる。……俺だって心配だ」
珊瑚の取られた腕から伝わる涼介と自分の感情が混じり合う。不安、焦燥、怒り……どちらがどちらの感情なのかも分からない。
涼介は珊瑚の腕を取ったまま、人込みを掻き分けてその中へと進んでいく。人の途切れた先にあったのは、散らばった陽一の荷物と、争ったような跡だ。
珊瑚は心臓をぎゅっと掴まれたような気がして、胸元を握りしめた。腕から伝わる感情は、怒りが強い。
涼介の腕からそっと抜け出し、珊瑚は陽一の荷物へ近付いた。途中珊瑚を制止しようと近付く者が居たが、追い付いた西野がそれを退ける。
珊瑚はゆっくり地面にしゃがみ込み、陽一の荷物を一つ一つ震える手で拾い集めた。いつか珊瑚の手当に使ってくれた、タオルや包帯も落ちている。拾い集めていく内に、徐々に怒りが湧いてくる。その怒りは、統司に対してなのか、誘拐犯に対してなのか、それとも珊瑚自身に対してなのか。
わからないまま拾い集め、鞄を閉めたところで珊瑚の手が止まった。
そこに落ちていたのは、ブローチの枠だ。その意匠はどこかで見たことがある。そっと手を伸ばし、拾い上げた。本来石が入っていたであろう場所が空洞で、何気なくそこに触れる。その瞬間、ひやりと冷たさを感じる。そして、珊瑚は微かに視界が揺らぎ、眩暈を覚えた。
(ああ、そうか、そうだったんだ。だから冷たく感じたんだ……)
珊瑚は振り向き、涼介の方へ歩き出した。
「篠塚さん、先生の荷物をお願いします。それから、これは緑丘さんに返しておいてください」
「あ、ああ」
涼介は戸惑ったように陽一の鞄を受け取り、掌に乗せられたブローチの枠を眺めた。
「これは……ブローチか?」
「そうです。マラカイトが入っていたものです」
「いい思い出の品じゃないだろう。返さなくていいんじゃないか?」
「……いいえ。これはきっと緑丘さんに必要になります。だから、必ず返してください」
「珊瑚ちゃん、一体……いや、なんだかわからんが、わかった」
訝し気な表情を浮かべつつ、涼介は珊瑚の言葉に頷いた。
「サンゴってお姉さんのこと?」
突然子供の声が聞こえて視線を下げると、近くに五歳くらいの少女が立っている。珊瑚は屈んで視線を合わせ、首を傾げた。
「そうですよ。私に何かご用ですか?」
「うん。これ、知らないおじさんが、ここにサンゴってお姉さんが来たら渡せって」
少女の差し出した紙を読んだ珊瑚は、目を見開きくしゃりと紙を握りしめた。
「ありがとうございます。お礼はこのお兄さんがくれますから」
珊瑚は涼介を指さし、少女に向かって小さく笑みを浮かべる。
「ちょっと待った。珊瑚ちゃん、その紙はなんだ?」
問いかけた涼介の手に、無言でしわくちゃの紙を押し付けるようにして渡す。
「じゃあ、お願いします」
言うや否や珊瑚は踵を返して走り出す。
「えっ? おいっ、珊瑚ちゃんっ!」
「珊瑚君っ!」
またしても涼介と西野の慌てる声が聞こえるが、珊瑚は足を緩めず走り出す。向かう先はただ一つ、藤原統司の屋敷だ。
紙に書いてあったのはたった一行。
『帝都の屋敷に一人で来い』
勢いよく走り出した珊瑚は、中心街へ向かっていく。このまま走っていくのは到底無理だ。中心街で馬車を拾う必要がある。息が苦しくなっても走り続け、もうすぐ馬車乗り場へ着くと思ったところで足を止めた。肩で息をした珊瑚は、どの馬車に乗ればいいのか分からず、きょろきょろと辺りを見回す。
「珊瑚っ!」
突然響いた声に振り向けば、そこに居たのは一馬だ。
「いち君っ!」
走り寄った一馬は、珊瑚の様子に眉を顰める。
「……そんなに慌ててどうしたんだよ?」
「せ、先生がっ! 先生が……ごほっごほっ」
息を切らして咳き込む珊瑚に、一馬が慌てて待ったを掛ける。
「お、落ち着け珊瑚! よくわかんないけど、若先生になにかあったんだな?」
珊瑚は何度も頷いた。
「それで、どこに向かってんだ?」
「て、帝都の……はずれの……」
珊瑚は必死に統司の屋敷の場所を伝える。
「なるほど、そこに急いで行きたいんだな。分かった。ちょっと待ってろよ!」
言うが早いか一馬は診療所のある方へ走り出した。息の上がった珊瑚は、一馬が戻るまでに息を整えようと深呼吸を繰り返す。逸る気持ちで一馬の去った方から馬車乗り場の方へと視線をさ迷わせた。
しばらくすると、珊瑚の前にガラガラと音を立てて走ってきた荷馬車が、車輪を軋ませながら急停車する。驚いた珊瑚が一歩後ろに下がると、荷台から一馬が顔を覗かせた。
「珊瑚っ、待たせたな。早く乗れ!」
手を引かれて荷台に飛び込むと、珊瑚はきょろきょろと中を見回した。そこには野菜の入った箱がいくつか積まれている。
「あ、あのっ、この荷馬車は一体……?」
一馬は御者台を一瞬振り向き、にやりと笑う。
「近所の兄ちゃんに頼んだんだ。いつもは野菜の運搬をやってるんだけど、今日はちょっと無理言って馬車を出してもらった」
珊瑚は驚きに目を瞠る。
「だ、大丈夫なんですか?」
「ああ。いつも何かと面倒みてくれる兄ちゃんなんだけどさ。人の命が掛かってるって言ったら、二つ返事で来てくれたんだ」
一馬の肩越しにちらりと見える男は、体格がよくて少し強面だ。
「兄ちゃんの弟が俺と同い年なんだ。前に悪さしようとしてるところを俺が止めた事があって。それ以来家族ぐるみの付き合いなんだ」
一馬は少し照れ臭そうに、鼻の下を搔きながら視線を逸らす。
「そうだったんですね」
珊瑚はこんな時だと言うのに、一馬の優しさに笑みが漏れる。
「珊瑚。……若先生に、何があったんだ?」
珊瑚は唇を引き結んだあと、小さく息を吐いてから答えた。
「先生は……私のせいで連れ去られたんです」
「珊瑚のせい? どういう事だ?」
「いち君に、詳しいことは話せません。巻き込むことになりますから」
「……っ! 若先生は知ってて、俺は駄目なのかっ?」
「とても危険なんです。だから、知らないままでいて欲しいです」
「……でも、俺はついていくぜ?」
「い、いち君、一緒に来るつもりなんですかっ? 絶対に駄目ですよっ!」
珊瑚は驚きに目を見開いた。
「それに……一人で来るようにって言われてるんです」
「なんと言われようがついてくぜ。ほら、これ見ろよ」
そう言って一馬が取り出したのは、両手で抱えるほどの大きさの鞄だ。
「さっき診療所に寄って、役立ちそうなものを漁ってきたんだ」
珊瑚は鞄の中を見て、目を丸くする。
「せ、先生の発明品ですかっ?」
「うん。兄ちゃんを呼ぶついでに診療所に寄って、勝手に拝借してきた」
珊瑚は肩の力が抜け、徐々にこみ上げてくる笑いを押し殺そうと、肩を震わせる。
「ふ、ふははっ。いち君……いつも先生の発明品をからかってるのに」
「な、なんだよ珊瑚、突然笑いだして」
「だって、いつもあんなに冷やかしてるのに。こういう時に頼りにするなんて、やっぱり先生のこと、信頼してるんですね」
「い、いや、そんなこと……くっ。そうだよ! 若先生はいつも頼りになるからなっ!」
少し拗ねたように言う一馬の様子に、珊瑚はますます笑いがこみ上げる。
ひとしきり笑って一馬がそっぽを向いたところで、馬のブルルッという鼻息と共に馬車が停車した。
「一馬、着いたぞ!」
声を合図に一馬が荷台から飛び降り、珊瑚も手を借りて慌てて降りる。
「あの、急なことですみません。ありがとうございました」
慌てて頭を下げる珊瑚に、荷馬車の持ち主は真剣な面持ちで頷いた。
「悪いが馬車はこれ以上近寄れないんだ。この道をまっすぐ登っていけば目的の屋敷に辿り着く。国の重要人物らしいからな、気を付けて行けよ」
「はい、ありがとうございます」
珊瑚は再び礼を告げる。
「兄ちゃん、ありがとなっ!」
「……ああ。気をつけろよ」
男は一瞬一馬に何かを言いかけるが、何も言わずに御者台から小さく頷きかえし、手綱を引いて来た道を引き返して行った。




