12-3
主人と女将が用意してくれた豪華な食事に、西野が差し入れてくれたシャンパン、いつもより賑やかな食堂の空気。温かな雰囲気に包まれた珊瑚は、些か酔っていた。先ほど鼓動が煩く、頬が熱かったのは、やはり酔いのせいだ。
困ったような顔で珊瑚を見下ろす陽一が、コップを片手に口を開いた。
「珊瑚君、大丈夫?」
「はいっ、らいじょうぶれす」
「……駄目みたいだね。ほら、水を飲んで」
「れも、このシャンパンとってもおいしくて」
するりと珊瑚の手からグラスを奪い、コップを手渡しながら陽一が答えた。
「また今度、少しずつ飲もう」
「しぇんしぇい、今日は意地悪れすね」
「……」
額に手を当てた陽一を、珊瑚はじっとりと見上げる。
「ダメだよ珊瑚君。ちゃんと水を飲みなさい。医者の言う事はしっかり聞くように」
「……今日のしぇんしぇいはケチれすね」
珊瑚は口を尖らせながらもゴクゴクと素直に水を飲んだ。珊瑚と陽一の様子に気付いた涼介がやってきて、眉を顰めて声を掛けてきた。
「おい、陽一。珊瑚ちゃんは下戸なのか?」
「……いや、結構飲んでる。さっきまで顔色も態度も全然変わらなかったから、まさか酔ってると思わなかったけど」
「なるほど。中々やっかいな酔っ払いだな」
涼介の言葉にぴくりと反応した珊瑚は、じろりと視線を向ける。
「やっかいって私のことれすか?」
「い、いや、違う違う。珊瑚ちゃんのことじゃないから気にするな」
「……なんか、焦ってますね」
「なんで酔ってるのに鋭いんだよ」
「それは、酔ってないかられす!」
涼介とのやり取りを隣で見ていた陽一は、誰かに呼ばれる声で振り返った。珊瑚の方にちらりと視線を戻し、どうしようかと迷っている様子だ。
「陽一、戻るまで俺が見ててやるから行ってこいよ」
「……それも不安だ」
「おいっ」
「ははっ、冗談だよ。じゃあ、頼む。すぐ戻るから」
陽一は少し名残惜しそうに呼ばれた方へ足を向けた。
「先生は、モテモテれすね」
「ぶっ。陽一を呼んだのは常連のおっさんだぞ?」
「ふふっ。おっさんにもモテモテなんれすね」
「珊瑚ちゃん、もうちょっと水を飲もうか」
「お腹いっぱいれもう飲めませんよ」
お腹を摩りながら珊瑚は視線を下に向ける。目に入った淡いブルーのワンピースに頬を緩めてスカートを摘まんだ。
「気に入ったみたいだな」
「はいっ。とっても素敵で嬉しいれす」
「よかったな。洋装で化粧をすると雰囲気も変わって、一段と大人に見えるぜ」
「そうれすか?」
「ああ。珊瑚ちゃんによく似合ってて可愛いよ」
珊瑚は眉をひそめて涼介を見上げた。
「……さすがれすね」
「は? 何がだ?」
「篠塚しゃんは、さすがれすね。さらっと誉め言葉がれてくるのれ」
「何言ってんだ。皆にも褒められただろ?」
「そうれすね。女将さんもご主人も、いち君も常連さんたちも、可愛いって褒めてくれました」
珊瑚は満足気に笑みを浮かべる。
「そうだろう? ……って、陽一は?」
「……髪飾りは聞いたら似合うって言ってくれました」
「ワンピースは?」
「特になにも言われまひぇん。私が着たら、先生が思ってたのと違ったんれしょうか?」
「いや、そんな筈ないだろ」
首を傾げて考え込む珊瑚を横目に、涼介は離れた場所に居る陽一にちらりと視線を向け軽く舌打ちをした。
「まあ、誰が見ても似合ってるから気にするな」
「ありあとうごらいます」
いつもの癖で珊瑚の頭を掻きまわそうと手を伸ばした涼介は、はっとした様子で手を止めた。きょろきょろと辺りを見回し、ブルリと身体を震わせた。「雅さんに」などと呟いているから、何か釘を刺されたのかもしれない。
「そう言えば、珊瑚ちゃん」
「……なんれすか?」
「簪を贈る意味を知ってるか?」
珊瑚はこてんと首を傾げた。
「知らんのか。ちょっと耳を貸せ」
そうして耳元で涼介が言った言葉に、珊瑚は眉を寄せてますます首を傾げた。
「……なんれすかそれ?」
「ははっ、この酔っ払いが。まあ、いいさ。酔いが醒めても覚えてるといいけどな」
背の高い涼介の顔を見上げるのに疲れた珊瑚は、ふいと視線を下に降ろす。目の前にきらりと光るものを見つけて、口を開いた。
「篠塚さんて、いつもネクタイをお洒落なピンで留めてますね」
「ん? ああ、これは雅さんの恋人からのプレゼントだ」
「なぜ雅先生の恋人さんから?」
「雅さんの恋人は、俺の近所に住んでた兄貴みたいな人だったって言ったの忘れたか?」
「……ああ、そう言えばそうでしたね」
珊瑚は納得したように何度も頷いた。
「成人を迎えた時、お祝いにもらったんだ」
「そうなんですね」
「このタイタックが気になるのか?」
「いえ、篠塚さんはいつもしてますけど、先生はしてないなって思ったので」
「そう言えばそうだな。まあ、自分でわざわざ買おうとは思わないのかも知れんな」
珊瑚は顎に手を当てて考え込んだ。
「そういえば珊瑚ちゃんは、雅さんを名前で呼ぶようになったのか?」
「はいっ! 先ほどお化粧を手伝って貰ってる時に、名前でいいって言ってくれたので」
「そうか。俺にとって姉みたいな人なんだ。珊瑚ちゃんも何かあったら頼るといい」
「ふふっ。雅先生もそう言ってくれました」
「よかったな」
「はい」
珊瑚の口調が戻ってきたからか、涼介がほっとしたように笑みを浮かべた。
「篠塚さん」
「どうした?」
「相談したいことがあるんですけど」
「なんだ?」
「……ちょっと耳を貸してください」
少し屈んだ涼介の耳元で、珊瑚がこそこそと囁いた。
「……なるほどな。いいぜ、そういう話なら乗ってやる」
「本当ですかっ?」
「ああ、任せとけ。来週は連休があるだろ? その時にちょうど都合のいいことがあるからな」
「そうなんですか?」
「まあ、来週を楽しみにしてな」
「はい、ありがとうございます」
涼介と視線を合わせた珊瑚は、浮き立つ気持ちで笑みを浮かべた。
「何が楽しみなの?」
突然すぐ後ろから掛けられた声に、珊瑚は飛び上がりそうになって肩を跳ねさせた。
「せっ、先生っ! びっくりしました!」
「涼介と内緒の相談事?」
「いや、来週の話だよ」
「来週? 何かあったかな」
「ああ、ちょっと待て」
涼介は辺りを見回し、目的の人物を見つけて声を上げる。
「雅さんっ。ちょっとこっちいいですか」
少し離れた場所にいた雅が、声に気付いてゆっくりと近付いてきた。
「涼介、大きな声出してどうしたの?」
「来週の話、今してたところだったんで」
「あら、そうなの。もう返事は聞いた?」
「いや、まだ何があるかも話してませんよ」
「そこからなのね。いいわ」
雅は陽一に向き直り、笑みを浮かべて口を開く。
「前に珊瑚ちゃんと病院に来た時、靭帯の再建術の話をしたでしょう?」
「ええ、覚えてます」
「あの手術についての研修会を来週やるのよ」
「そうなんですか」
「よかったら平良君も参加しない? 外部の先生でも、私の推薦なら参加出来るわ」
「いや、しかし……」
陽一は珊瑚にちらりと視線を向けた。
「その日俺は参加しないから、珊瑚ちゃんの事なら気にしなくていいぜ」
「いや、でもそれは……」
口籠る陽一を見上げた珊瑚は、ふわりと笑みを浮かべた。
「先生は雅先生とお会いした時、すごく真剣に手術のことを聞いてました。本当は行きたいんですよね?」
陽一は困ったように顔を歪めた。
「でも、珊瑚君を置いていくのは……」
「だから、俺が居るから大丈夫だって」
「そうですよ。それに、私のせいでせっかくの機会をふいにするなんて、心苦しいです」
陽一は少しの間逡巡して、決心を固めたように答えた。
「……わかった。では、柴村先生、参加させて頂きます」
「分かったわ。話は通しておくから、詳細は後で連絡するわね」
「よろしくお願いします」
話がひと段落し、珊瑚はほっと息を吐く。
「ところで珊瑚君、もう酔いは覚めた?」
「はい、すっかり覚めました」
「次回お酒を飲む時は気をつけようね」
「……すみません」
「いや、ちょっと話し方が怪しかっただけで、何事もなくてよかったよ」
「もしかして珊瑚ちゃんは、一馬がいつ帰ったかも気付いてなかったんじゃないか?」
「あれ? そういえば、いつの間にかいち君が居ません!」
きょろきょろと周囲を見回す珊瑚に、陽一と涼介は肩を竦めた。
「一応声はかけてたけどな」
「返事もちゃんとしてたんだけどね」
「そうなんですね。……どうしましょう、全く覚えていません」
「まあ、一馬は気付いてそうもなかったから、大丈夫だよ」
「お酒とは、恐ろしいものですね」
「ははっ。飲みすぎなければ大丈夫だろ」
「そうだね。今日はいつもと違って、皆浮かれてたから、お酒が進むのもわかるよ」
「次は気を付けます」
「僕も気付けるように注意しとくよ」
陽一は店内を見まわし、主人と女将に視線を向ける。
「珊瑚君、そろそろ僕たちは帰ろうか」
「え? 皆さんを置いてですか?」
「珊瑚ちゃん、大丈夫だよ。ほとんどがお祝いにかこつけて、遅くまで飲みたいだけのやつばっかりだから」
「そうなんですか?」
「もちろん、お祝いしたいのが一番だけどね」
「そうだな。それには違いない」
珊瑚は楽しそうに飲み食いしている店内の人々に視線を移し、目を細めて笑みを浮かべた。
「とっても楽しかったし、嬉しかったです。先生、篠塚さん、本当にありがとうございます」
「珊瑚君が楽しかったならよかった」
「まあ、言い出しっぺは陽一だからな。陽一に沢山感謝しとけよ」
「はい。先生、ありがとうございます」
「なんだよ涼介、余計な事言うなよ。珊瑚君も、そんなに畏まってお礼なんてしなくていいから」
陽一は首の後ろを搔きながら、照れたように顔を顰めた。その様子に珊瑚はくすりと声を立てて笑う。
「よし、女将と主人に挨拶して帰るか」
涼介の言葉に頷いた二人は、挨拶を済ませて食堂を後にした。
夜の空気は冷たくて、珊瑚の上気した頬を心地よく冷やす。
「珊瑚君、上着が無くて寒くない?」
「大丈夫です。ちょっと暑かったくらいなので、気持ちいいです」
「そう。ならよかった」
少しの距離を歩いて、診療所に着くと、帰ってきたという実感が湧いて肩の力が抜ける。
扉を潜り、先に入った陽一が照明を一つだけ点けた。薄暗い待合室で、陽一が珊瑚を引き留める。
「ちょっと待っててくれる?」
「はい」
発明品置き場の部屋へ足早に向かう陽一を、珊瑚は不思議に思いながら見送った。後ろ手に何かを隠しながら戻ってくる陽一に首を傾げる。
「珊瑚君。改めて、成人おめでとう」
祝いの言葉とともに陽一が差し出したのは、白とピンクのダリアの花束だ。
「えっ。わ、私にですか?」
「もちろん」
珊瑚は両手を口に当てて、驚きに目を丸くする。微かに震える手を伸ばし、そっと花束に手を添えた。
「ありがとうございます」
受け取った花束を胸元に引き寄せ、ダリアを見つめながら顔がぽっと熱くなる。
誰かに花束を貰うのは初めてだ。幼い日、花屋のおじさんに、母に渡す花束を作って貰った事を思い出す。母の喜ぶ顔が見たくて、緊張しながら馴染の花屋を訪れた。どんな花がいいかと相談しながら、浮き立つ気持ちで花束を作って貰った。
邸に戻って母に渡したとき、どんな顔をしていたっけ。今の自分も同じような顔をしているのだろうか。
視界がじんわり滲み、耳まで熱くなっている。けれど、薄暗いこの場所ではきっと陽一には気付かれまい。
「とても綺麗です。嬉しいです」
「喜んで貰えたならよかった。お祝いの花束なんて初めて買ったから、どんなのがいいかよくわからなくて」
「そうなんですか?」
「うん。まあ、母にお見舞いの花束なら買ったことあったけど」
「それなら、慣れてるのでは?」
「いや、最初から束になってるのと、選んで作ってもらうのは全然違ったよ」
「先生が選んでくれたんですかっ?」
「一応、珊瑚君のイメージに合うかなと思ったんだけど……」
「とってもかわいい花束で、本当に嬉しいです。ありがとうございます」
「そう。そう言ってもらえてほっとしたよ」
陽一がほっと息を吐きだすのが聞こえ、珊瑚はそっと花束を抱きしめる。
「明日珊瑚君は午前中ゆっくり休んでいいからね」
「え? でも……」
「いいから、休んでて。きっとみんな察して急患以外は遠慮してくれるよ」
「確かに、そうかも知れませんね」
「うん。夢で、お兄さんとお姉さんにゆっくり報告しておいで」
「そうですね。きっと今夜も会えると思います!」
「楽しみだね」
「はいっ」
部屋へ戻り花瓶に花を飾った珊瑚は、寝支度を整えて布団に潜る。一悟と二胡の言っていた、忙しくて楽しい一日がもうすぐ終わる。二胡の言っていたとおり、思い出深い一日だ。
目を瞑って夢へ落ちたらきっと、『ほら言っただろう?』『楽しい一日だったわね』と、一悟と二胡が笑顔で迎えてくれるだろう。
二人はどうして珊瑚の気付かなかった事に気付けたのか、今夜はじっくり聞いてみよう。昨晩教えてくれなかったのは、珊瑚を驚かせたかったのに違いない。陽一がいつからこの日を計画してくれていたのか、どうやって一悟と二胡が知れたのか。それから、来週陽一が居ない間の計画も。
いつにも増して、夢で二人に会うのが楽しみになる。
布団をしっかり被り直した珊瑚は、楽しかった一日を思い返しながら、穏やかな笑顔を浮かべる。胸元から母に貰った鍵を取り出し、そっと掌で包み込んで眠りに落ちた。




