12-2
果たして珊瑚は、用意されたワンピースへと着替えることになった。トルソーに着せられていたのは、軽やかな淡いブルーのワンピースだ。丸い襟が左の肩の方に寄ったアシンメトリーのデザインで、ボタンのついた合わせも左側にある。襟元には小さな白いリボンがあしらわれており、合わせと襟の淵も白いラインで統一されている。ウエストを絞るリボンも白で、そこからふわりとスカートが広がっていた。
なぜこのワンピースを自分が着ることになったのか、珊瑚はまだ分からない。しかし、全身が映る姿見の前に立つと、そわそわするのにどこか嬉しくて、足元がふわふわと浮いたようになる。頬をほんのり赤く染め、鏡の中の自分をつい笑顔で見つめてしまう。
女将と雅はその様子を少し距離を置いて、あたたかく見守っていた。
「よかった。やっぱりぴったりだったわね」
「女将さん、さすがです」
「ふふっ。前の試着でちゃんと測っておいたのよ」
「……やっぱり、オーダーメイドは違いますね」
「そうよね、せっかくのお祝いだもの、こうでなくっちゃ」
珊瑚は二人の会話に振り返り、目を瞬かせて交互に見つめた。
「あの、まるで私のお洋服のように聞こえますが……」
「あら、そのとおりよ、珊瑚ちゃん」
「珊瑚ちゃんの為のオーダーメイドよ」
「す、すごくお高いのでは……。それに、なぜ私の為に?」
眉を寄せておずおずと尋ねると、女将と雅は目をぱちぱちと瞬いた。
「そんな事気にしなくていいのよ」
「そうよ。皆で少しずつ出し合ったから、大した金額じゃないわよ」
「皆で出し合った?」
女将は口に手を当て、楽し気に笑った。
「ちゃんと説明するわ。珊瑚ちゃん、あなた今日が何の日か忘れてるのね?」
「今日……ですか?」
「そうよ。今日は九月十六日よ」
「九月……十六日……っ!」
珊瑚はあっと声を上げ、両手で口を塞いだ。
「思い出した?」
尋ねる雅の声は、少しからかっているような口ぶりだが、優しさが滲んでいる。
「はい。今日は、私の……誕生日です」
「そうよね。しかも、十八歳。成人よね」
「はい……そうでした」
珊瑚は胸元のネックレスをぎゅっと握り締めた。母と迎えるのを楽しみにしていた成人の日だ。――どうして自分はこの日を忘れていたんだろう。
「若先生がね、珊瑚ちゃんにワンピースをプレゼントしたいって相談して来たのよ」
「先生が?」
「そうよ。『珊瑚君はこういうのが好きみたいなんですけど』って、大体のイメージは指定してきたんだけどね」
そう言えば、以前二人で連休中の閑散とした街を歩いた時、どんな洋装が好きなのか聞かれたことがあった。あの時からこれを計画してくれていたのだろうか。
「涼介にも相談したみたいなんだけど、流石にオーダーメイドのワンピースを一人で全額負担はちょっといろいろと重いじゃない?」
雅の言う重いの意味がよくわからず、珊瑚は首を捻る。金額が重いということだろうと納得し、小さく頷いた。
「そうよね、やっぱり重いわよね。だから、皆で出し合ってプレゼントしましょうってことなったのよ」
「皆さんとは?」
女将が頷き続きを引き受けた。
「若先生と篠塚さん、柴村さんに私と主人。それから、常連さんたちと一馬君も少しね」
「えっ、そんなに沢山ですか? い、いち君まで……」
「ええ。絶対自分も参加したいって、大変だったんだから」
視界が揺れて、涙で周りが滲んで見える。自分でも忘れていた誕生日を、成人を迎える特別な日を、こんなに沢山の人達に祝ってもらえるとは思ってもみなかった。母と二人きりで過ごすと思っていたこの日を、こんな風に迎える事になるとは。
母と過ごせない寂しさは残るが、それでも皆の気持ちが嬉しくて、胸の奥がじんわり熱くなるぽろりと涙が零れて、女将が手巾を差し出した。
「ねっ、女将さん。お化粧の前にちゃんと伝えてよかったでしょう?」
「本当ね。若先生が内緒にしとくから悪いのよ」
「本当ですね。まったく涼介も今日は来てるのに、仕方のない人たちですね」
「まあ、こんな可愛い泣き顔見られなくてよかったんじゃないかしら?」
「確かにそうですね」
珊瑚はふと昨夜の食堂を思い出した。女将がそわそわして、常連さんたちが笑いを浮かべていた。違和感を覚えたが、その答えがこれだったのだ。
さっきから着替えを手伝ってくれる女将と雅からは、ずっと楽しそうで、それでいて温かく見守ってくれるような、包み込まれる優しさが伝わっていた。成人を迎える珊瑚を、心の底から祝ってくれているのだと分かる。
「あのっ、本当に……ありがとうございます」
深く頭を下げる珊瑚の声は震えていた。女将と雅が柔らかい笑みを浮かべて珊瑚を見つめる。
「いいのよ、珊瑚ちゃん。お礼なら後で若先生に言ってあげて」
「そうね。私も涼介伝手に聞かなければ知らなかったのだし」
「あとは皆の前で、綺麗に着飾って笑ってあげたらそれがお礼になるわよ」
「私もそう思うわ」
珊瑚は頭を上げて深く頷いた。
ケープを掛けて鏡の前に座り、女将と雅が化粧を施してくれる。母が教えてくれた化粧より、ほんの少し華やかだ。珊瑚は嬉しさと寂しさにまた涙が滲むが、瞬きをしてどうにか散らす。せっかくのお化粧を無駄にするわけにはいかない。
最後に雅が髪を捩じってハーフアップにする。
「珊瑚ちゃん。この簪はね、若先生からよ」
珊瑚は驚き女将の方を振り返った。
女将が手にしていたのは、小さな花の散りばめられた櫛形の簪だ。花の中央にはほんのり色付いた宝石が光っている。そこから垂れ下がるように控えめに伸びるレースに珊瑚は目を瞠る。
「このレース……」
それは、あの日珊瑚の目に留まったレースだ。あのときの陽一の言葉が、鮮やかに蘇る。
『綺麗だね、気に入ったの?』
『今度お店が開いてるときにきて、ゆっくり見ようか』
『和装だとダメなの?』
『珊瑚君によく似合いそうなのに』
女将が簪を少し左右に動かすと、レースだけがカチリと音を立てて外れた。
「この意匠なら和装でも合うって私は言ったの。でも若先生が『どちらでも珊瑚君が気にせず使えるように』って、取り外せるように誂えたのよ」
「これもオーダーメイドですか?」
「そうね。でも、ワンピース程のお値段じゃないから、気にせず使ってあげてね」
「……はい」
珊瑚は頬を染めて俯きがちに頷いた。あの日レースを諦めた珊瑚の気持ちをこんな風に掬ってくれるなんて。ワンピースだけでも十分すぎるほどに嬉しかったのに。この簪はその上をいく。
後ろに回った雅が、慎重に簪を刺して位置を整えた。珊瑚の後ろで大きめの手鏡を持ち、簪が映るように角度を変える。
「どう? 珊瑚ちゃん。よく似合うわよ」
「……ありがとうございます。とっても可愛い簪で、嬉しいです」
「ふふっ。後でしっかり見せてあげたらいいわ」
「はい」
雅と鏡越しに視線を合わせて笑い合う。母にも見て欲しかった。きっと似合ってると言って笑ってくれたはずだ。
雅と話している間に、女将が畳の上に紙を敷き始めた。何をするのかと眺めていると、白い靴が取り出される。
「鏡で見られるのがここだけだから、お部屋の中でお行儀悪いけど。今日だけだからいいわよね。まだ一度も履いてない綺麗なものだし」
珊瑚は新品の靴に緊張しながら足を通した。華奢な意匠で、踵の細さのせいもあって少し心許ない。雅が手を取りながら珊瑚に声を掛けた。
「珊瑚ちゃん、最初は慣れないと思うけど、ブーツとあまり変わらない高さだからすぐに慣れるわ。しばらく手を握って支えてあげるから、安心して」
手から伝わる柔らかな気持ちに、珊瑚の胸も温まる。現実で二胡に触れる事が出来たなら、こんな風だろうかと想像する。
「靴に合わせたバッグもあるけど、今日は荷物になるからいつか使ってね」
女将が箱を開けて、靴と揃いのバッグを珊瑚にそっと差し出した。ワンピースと同じ様な色合いの縁取りがされ、蝶の留め金の付いた上品なバッグだ。
珊瑚は頬を染めてそれを見つめた。「ありがとうございます」といった声がかすかに震える。
「珊瑚ちゃん、そろそろあちらも準備が出来たと思うから、一緒に行きましょう」
「準備……ですか?」
雅の言葉に珊瑚は目を瞬いた。
「ええ、そうよ。行けばわかるわ」
顔を綻ばせた雅に手を引かれ、珊瑚は食堂の方へ移動する。店との境目にある暖簾の近くまで足を進めるが、店内はシンと静まり返っていた。雅が珊瑚を振り返り、道を譲る。
恐る恐る暖簾を潜ると、店内は照明が落とされて薄暗くなっている。明るいところから暗いところへ来たばかりで、店内の様子がよく見えず、きょろきょろと辺りを見回した。
すると突然、パチパチと弾けるような音と共に明るい光が灯る。上を向くと小さな花火が一つ二つと増えていく。派手に光りながら天井に向けて撃ちあがった花火は、ぱらぱらと音を立てながら花のように広がって落ちてきた。珊瑚は降り注ぐそれに驚きつつ、思わず手を差し伸べた。掌に落ちた火花は、熱もなくすっと消えていく。魔石を使った火も煙も出ない花火だ。
途端に店の電気がぱっと灯り、珊瑚は眩しさに一瞬目を瞑る。
「珊瑚君、成人おめでとう」
陽一の声を皮切りに、聞き覚えのある声で「おめでとう」という声と拍手の音が響き渡った。
ゆっくりと目を開いた珊瑚の視界には、陽一を始め、一馬や涼介、忠蔵の他にも食堂の常連たちの姿が映る。じんわりと涙が浮かび上がりそうになるが、慌てて瞬きをして散らす。陽一を中心に集まってくれた面々をゆっくりと見回し、珊瑚は静かに口を開いた。
「皆さん、私のために集まってくださってありがとうございます。こんな風に成人の日を迎えられるとは、少しも想像していなかったので……。本当に、とっても……とっても嬉しいです。素敵なお洋服に袖を通したのも初めてで、ちょっと緊張します。こんなに沢山の人たちにお祝いしていただけるのも初めてで、信じられない思いでいっぱいです」
珊瑚はふわりと柔らかに微笑んで、言葉を続けた。
「私、帝都に来てよかったです。皆さんと知り合えて、本当によかったです。一言では足りないですが、これしか思い浮かばなくて。……ありがとうございます」
ゆっくり頭を下げる珊瑚に、再び拍手が沸き起こる。頬を染めて顔を上げた珊瑚に、陽一が一歩ずつ近付いてきた。
目の前で立ち止まった陽一から差し出されたのは空のグラスだ。その後ろから歩いて来た涼介は、瓶を手にしている。珊瑚の横でくるりと反転し、集まった人たちに向けてそれを掲げた。
「よしっ、じゃあ今日は奮発して旨いシャンパンを開けるぜっ!」
わっと歓声が起こり、珊瑚は目を瞬いた。
涼介が瓶を斜め上に向けて、栓を親指で押す。ポンッと小気味のいい音がして栓が飛び、シャンパンが溢れ出す。
珊瑚はその光景に目を白黒させ、驚きに一歩後ずさった。
「おい、涼介。珊瑚君のお祝いなんだから静かに開けろって」
「珊瑚ちゃん、すまん! シャンパンなんて普段飲めないからちょっと調子に乗った」
悪びれずに笑う涼介に、珊瑚は首を傾げた。
「そのお酒は珍しいんですか?」
「ああ。結構高い酒だからな。実はこれ、西野さんからの差し入れなんだぜ」
「えっ、西野さんまでお祝いを?」
珊瑚の問いに陽一が答える。
「うん。今日も来たがってたけど、あっちも忙しいみたいで残念がってたよ」
「そうだったんですか。今度お礼を言わなくちゃ」
「またその内会う機会もあるよ」
「そうですね」
頷く珊瑚の目の前に、ぬっと酒瓶が差し出された。
「まずは珊瑚ちゃんからだ。ほら、グラス出しな」
涼介に急かされた珊瑚は、グラスを慌てて差し出した。ゆっくりと注がれるシャンパンは黄金色に透けて、グラスの中にいくつもの気泡が出ては消える。飽きもせずに眺めるうちに、全員にいき渡った様だ。
「よし、一馬以外は配り終わったな?」
「……俺だけ仲間外れとかずりぃよ」
「仕方ないだろ、一馬はまだ子供なんだから。リンゴソーダで我慢しとけ。見た目には分からん」
「ちぇっ。しょーがねえな」
口を尖らせた一馬に、珊瑚は眉を下げた。その顔を見た一馬が、はっとしたようにグラスを突き出した。
「さ、珊瑚っ! 俺はリンゴソーダが好きだから気にすんなっ……あっ、そうだっ。シャンパンがまずかったらこっちのを分けてやるよ!」
珊瑚はその言葉に目をぱちぱちと瞬き、ふわりと笑う。
「いち君、ありがとうございます。もし飲めなかったら分けてください」
「いいぜ!」
その言葉を区切りに、陽一がみんなに向かってグラスを掲げた。
「では、珊瑚君の成人を祝って。乾杯っ!」
一斉に乾杯の声が上がり、それぞれにグラスを傾ける。
珊瑚は恐る恐る口に含み、じっくりと味わった。爽やかな酸味とほのかな甘み、芳醇な香りが口の中に広がり、炭酸の心地よい泡ですっきりとした後味だ。
「珊瑚君、初めてのお酒の味はどう?」
「美味しいですっ!」
「そう。それならよかった。でも、初めてだから飲みすぎには気を付けてね」
「はいっ」
満足気に笑いながら返事をした珊瑚は、陽一の顔を見上げてはたとする。
「先生」
「どうしたの?」
「あ、あのっ、これっ!」
そう言いながら、後頭部を見せるように首をひねった。
「か、簪っ。ありがとうございます」
「……よく似合うよ。やっぱり思った通り、珊瑚君によく似合う」
「素敵な簪をありがとうございました。レースも」
「うん。気に入ってくれたならよかった」
陽一の柔らかな笑顔に、珊瑚の顔は耳まで赤く染まる。どきどきと煩い心臓と、熱い頬は初めてのシャンパンに酔ったのだろうか。片手を頬に当てた珊瑚は、その気持ちに目を瞑った。




