12-1
窓を開けると流れてくる風に、少しの冷たさが混ざり始める。智の話を聞きに小旅行へ出かけてから、ひと月ちょっと経ち、季節も少しずつ秋めいて来た。
診療所の仕事も随分慣れた珊瑚は、以前のように風邪を引くこともない。もっとも、あれ以来外食も増えたお陰で、家事の負担が減った事もあるのだが。
珊瑚はそろそろ食器洗い機を作る為に、頭の中で引いた図面を紙に描き写していた。いつか診療所を出て行く時のお礼にしようと思っている。一つくらい物を残してもいいかも知れないと思うようになった。そこまで特別意味のこもった物ではないし、要らないから捨てようと思われる事も無いだろう。
ペンを走らせながら、自然と口元に笑みが浮かぶ。内緒で作って驚かせたい――そんな悪戯心が芽生えていた。けれど、陽一に気付かれずに材料を揃えるにはどうしたらいいだろう。設計図や組み立てよりも、そちらの方がずっと難しそうだ。
一見順調に図面を引いているが、その実頭の中は材料調達の方法でいっぱいになっていた。唸りながら図面を引く珊瑚に向けて、部屋の外から陽一の声が響く。
「珊瑚くーん、そろそろ夕食を食べにいくよー」
「はーい、今行きます!」
珊瑚は図面を手早く片付け、階段を下りて陽一と共に診療所を出た。薄暗くなり始めた道には、ぽつぽつと街灯が灯り始めている。
「日が落ちるのが早くなったね」
「そうですね。風が気持ちいいです」
「うん。昼間はまだちょっと暑いけど、過ごしやすくなってきたかな」
「はい」
涼みながら歩いていくと、いつもの食堂に辿り着く。ガラガラと引き戸を開けて、陽一に続いて珊瑚も店内へ足を踏み入れた。
「こんばんはー」
「こんばんは」
「あら、いらっしゃいませ」
「っらっしゃい」
いつも通りの挨拶を済ませ、定位置の席に向かう。珊瑚はなんだかいつもと違う店の空気に足を止めた。
「珊瑚君、どうしたの?」
「……いえ、なんだか皆さんの様子がいつもと違うような……」
「……そうかな?」
「はい。何となく、視線が優しいと言うか、皆さん含み笑いを浮かべている気が」
「そう? 僕には分からなかったな」
珊瑚は周囲をきょろきょろと見回した。
女将はいつもより柔和な笑顔を浮かべている。――けれど、なんとなくそわそわしている気がする。周囲の常連さんたちも、なんとなくニヤニヤしているように見えるのは、気のせいだろうか。主人だけがいつも通りの涼しい顔だ。
「なんか、皆さん笑ってませんか?」
「気のせいでしょ」
珊瑚は唸りながら周りを窺うが、空気以外に変わった様子は見当たらない。目の前の陽一は、いつもは手に取らないお品書きを眺めている。
「今日は何か変わったメニューでもあるんですか?」
「うーん、いつもは頼まないものを頼んでみようかなと思って?」
なぜか語尾を上げて疑問形で返事をする陽一に、珊瑚はますます首を傾げた。心なしかページを捲る手つきもぎこちない。
お品書きを見た割には、いつも通りの定食を注文する陽一に、珊瑚は胡乱な目を向けた。
「お待たせしました」
女将がお盆に乗せた料理を手に、軽やかな口調で声を掛けてきた。
「ありがとうございます」
今日も美味しそうな香りと立ち上る湯気に、さっきまでの違和感が珊瑚の頭から消え去る。
「そう言えば、明日は診療所、お休みなのよね」
「えっ、そうなんですか?」
初めて聞く話に珊瑚は目を見開いた。視線を陽一に素早く移動させると、決まり悪そうに苦笑いしている。
「先生、まさか珊瑚ちゃんにまだ言ってなかったの?」
「ああ……えっと、言うタイミングを逃しちゃって」
さっきから何かがおかしいと思ったのは、このせいだったのかと珊瑚は納得した。けれど、ただ診療所が休みというだけで、なぜこんなに不審な言動なのかという疑問が湧く。
「あの、急にお休みとは一体何があったんですか?」
弘樹や母、神殿の事が脳裏をかすめる。珊瑚の胸が冷やりとする。
「珊瑚君、悪い事じゃないから心配しないで。急に決めたって訳でも無いから。明日は珊瑚君にも手伝って欲しい事があるんだ」
慌てて答える陽一の様子に、珊瑚はほっと胸を撫でおろした。
「そうですか。私に出来る事なら何でも言ってください」
「うん、よろしく頼むよ」
肩の力を抜いて答えた陽一に、女将が「ちょっと、しっかりしてくださいよ」と肩を軽く小突いていった。
それにしても、急な休みなのに前から予定していた様な口調に少しの引っかかりを感じる。何か面倒な頼み事でもあるのかも知れない。とは言え、陽一が珊瑚に出来ない事を頼むこともない。考えるのは止めだ。どうせ明日になれば分かるのだから。
食事を終えて店を出ようとすると、陽一が女将から何かを受け取った。不思議そうに手の中の風呂敷包みをじっと見つめる珊瑚に、陽一はきまり悪そうに口を開いた。
「これは、明日の朝食だよ。せっかくの休みだから、女将さんに頼んだんだ」
「そうですか。朝から何かお手伝いする事があるんですか?」
「……いや、ゆっくり過ごして欲しかっただけだよ。ついでに言うと、昼食は涼介がカフェのランチを持ってくるみたいだから、珊瑚君はのんびりしてて」
「わかりました。私のお手伝いはその後ですか?」
「うん。お昼を食べて少し休んだら、また女将さんの所に行ってくれる?」
「はい」
午後からの手伝いは余程疲れる事なのだろうか。珊瑚は気合を入れて、今日は早く休もうと心に決めた。
寝支度を整えた珊瑚は、早々と布団に潜る。この九ヶ月ほどですっかり落ち着く場所になっていた。長かったようであっという間の時間は、それだけ日々が充実しているせいだろう。
胸元に仕舞われたネックレスをそっと取り出す。母から渡された魔石の嵌った鍵だ。この鍵が珊瑚を帝都に導いてくれた。母の物だからというだけでなく、珊瑚にとって猶更大切な物になった。今の珊瑚が安心出来る場所で過ごせるのは、この鍵のお陰に違いない。いつか母にも、珊瑚が安心出来る場所を見つけたのだと伝える事が出来るだろうか。
そんな風に考えているうちに、自然と珊瑚は夢へと落ちて行った。
『珊瑚、旅行楽しかったな!』
『珊瑚ちゃん、よかったわね』
「一悟にい、二胡ねえ。いつも心配かけてごめんね」
『兄なんだから当たり前だろっ』
『姉なんだから当たり前よ』
三人顔を見合わせて笑いあう。
『珊瑚がちゃんと信頼出来る相手に出会えてよかった』
『そうね。珊瑚ちゃんの世界は私たちだけじゃないわ』
『ちゃんと向き合えるようになってよかったな』
『珊瑚ちゃんは、少しずつ強くなったわね』
「……そうかな? まだ怖い気持ちもあるよ」
『それでも、頑張ろうって思ってるんだろ?』
『一歩ずつ踏み出すって決めたのよね?』
「うん」
二人は目を細めて眩しそうに微笑んだ。
『珊瑚も、もう大人だからな』
『……一悟、それはまたあとで』
『あ、そっか』
頭を掻いて気まずそうに眉を下げる一悟に、両手を腰に当てた二胡は呆れたような表情だ。
「後でって何?」
首を傾げた珊瑚が、二人を交互に見比べて問いかける。
『あ、あとでは、あとでだっ!』
『……もうっ! 一悟はいつも余計な事ばっかり言うんだから』
『俺は隠し事は出来ないっ。嘘も吐けない!』
『余計なことを言わないのは、隠してる訳でも嘘をついてるのでもないわよ』
会話に付いて行けない珊瑚は目を瞬きながらじっと二人を見つめた。
『ま、まあ、珊瑚、明日に備えてゆっくり休めっ!』
『……そうね。きっと明日のお手伝いは楽しいわよ』
「二人は何か知ってるの?」
顔を見合わせた一悟と二胡は、目を瞬かせた。直後、同時にぱっと笑顔が弾ける。
『俺たちの予想が当たってれば明日は大忙しだぞ』
『でもきっと、思い出深い一日になるわ』
楽しそうに笑う二人の笑顔に、珊瑚はやはり訳が分からず腕を組んで唸り声をあげた。
「どうして私に分からない事が二人にはわかるの?」
『あははっ。珊瑚、案外自分のことはわからないものだからな』
『そうよ、珊瑚ちゃん。人から見たら分かる事でも、自分ではわからないことって結構あるのよ』
「二人は私と同じものしか見てないのに、わかるんだよね?」
『そうだな。俺は洞察力に長けているっ!』
『……嘘よ、珊瑚ちゃん。私が先に気付いて一悟に話したんだから』
『こらっ、二胡! ここは気分よく兄に譲るべきだろう!』
『姉の私が先に気付いたんだから、主張するのは当然だわ』
いつもの応酬が始まり、珊瑚はくすくすと声を立てて笑った。それに気付いた二人が、言い争いをピタリと止めて、珊瑚の方へと視線を向けた。目を細めて満足気な笑顔を浮かべた二人が、『またな』『またね』と言って、光の中へと消えていく。
目を覚ました珊瑚は、明るい気持ちで身支度を整えた。部屋を出て二階へ降りると、食卓には既に朝食が並べてあった。
「おはようございます」
「珊瑚君、おはよう。よく眠れた?」
「はいっ」
陽一といつもどおりに会話を交わし、朝食を終える。借りた器を洗おうとすると、自分の役目だと陽一に止められた。今日は午後から忙しくなるので、ゆっくり休んで欲しいと言われ、部屋へ戻った。暇を持て余して、図面を机に広げた。殆ど終わっているので、もすぐ完成だ。
家事もせず、自分のことだけに没頭するのはいつ以来だろうか。とびきり贅沢な時間に、珊瑚の頬は自然と緩む。胸元の鍵を取り出し、感謝を込めてそっと握った。
(お母さんのお陰で、この鍵が帝都に連れてきてくれたお陰で、こんな日を過ごせるなんて。贅沢な一日だな……)
時間も忘れて図面を引いて、伸びをしたところで涼介の声が聞こえてきた。さて、今日は一体何を持ってきてくれたのだろうかと、想像するだけで珊瑚のお腹がぐうと音を立てた。
「篠塚さん、こんにちは」
「よう、珊瑚ちゃん」
「今日のランチはオムライスなんだって」
「オムライス……とは、なんでしょう?」
「まだ食ったことないのか?」
「そういえば、まだだったね」
涼介の持ってきたボックスの中を覗き込むと、表面のつるりとした卵焼きが顔を出す。
「大きな卵焼きですね?」
陽一と涼介が顔を見合わせて、「確かに卵焼きだな」と頷いた。
二人と比べて少し小ぶりなオムライスを前に、いつもどおり「頂きます」と声を揃える。
スプーンで掬おうとそっと差し込むと、中から赤いご飯が覗く。珊瑚はただの卵焼きではなかったのかと驚きに目を瞠る。そっと一口頬張ると、塩気と甘みが絶妙に調和した味に、目を細めた。卵はふわふわで、トマトの酸味や具材の食感、噛む度に旨味が感じられる。
満足そうに食べ勧める珊瑚を見ながら、陽一と涼介は顔を見合わせて小さく噴き出した。
楽しい昼食の時間が終わり、しばらく三人で他愛もない話をする。のんびりとした時間を過ごし、人心地ついたところで陽一が懐中時計を取り出した。
「珊瑚君、そろそろ女将さんのところに行ってもらえるかな?」
「はいっ、わかりました」
軽く身支度を整えて、二人に声をかけて診療所を出発する。一悟と二胡の言っていた、大忙しで楽しいとはどんな事だろう。一日はすでに半分過ぎているが、忙しさは全く感じていない。女将の仕事で何か忙しくなるのだろうか。どちらにしても、珊瑚の気持ちは浮きたっている。
気持ち同様軽やかな足取りで食堂へと辿り着く。準備中の札を確認して、そっと引き戸を横に押した。
「こんにちは!」
明るい気分そのままに、珊瑚の朗らかな声が店内に響いた。
「珊瑚ちゃん、こんにちは」
女将が満面の笑みで珊瑚を迎える。珊瑚は借り物の器を返しながら答えた。
「これ、ご馳走様でしたっ。とても美味しかったです。今日は何をお手伝いしましょうか?」
女将は頬に手を当て、意味深な笑みを浮かべた。
「ふふっ。今日はとっても楽しいお手伝いよ。この間と同じお部屋に来てちょうだい」
何があるのか予想がつかず、珊瑚は頭に疑問符を浮かべたまま女将の後に付いていく。先日洋装の制服を試着した和室に到着すると、そこには意外な顔があった。
「こんにちは、珊瑚ちゃん」
「えっ! 柴村先生っ。どうされたんですか?」
「今日は私もお手伝いよ」
雅は柔らかな笑顔を浮かべて、手招きした。珊瑚は驚きに目を丸くして、その場に立ち竦む。
「あ、やだ私ったら、突然珊瑚ちゃんなんてびっくりしたわよね? いつも涼介が珊瑚ちゃんって呼ぶから移っちゃって」
「えっ、いえ、嬉しいです」
「そう? ならよかった」
雅の方へ行くと、ワンピースを着たトルソーが目に入った。珊瑚はワンピースに視線を縫い留められて、しばらくその場に立ち尽くした。片手を頬に当ててほうっと息を吐き、「素敵なワンピースですね」と呟く。
「珊瑚ちゃん、気に入ってくれたかしら?」
女将の声に珊瑚は振り返って首を傾げた。
「はい、それはとても……」
「珊瑚ちゃん、着てみたいと思わない?」
雅が畳みかけるように問いかけた。
「わ、私がこんな素敵なワンピースをですか? 持ち主の方に怒られてしまいますよ」
女将と雅は顔を見合わせ、二人そろって一つ頷く。
「珊瑚ちゃん、今からこれを着てもらうわよ」
「私も女将さんと一緒に手伝うから」
珊瑚は二人の顔を見比べて、信じられない気持ちで声を上げた。
「ええっ? わ、私がこれを着るんですか?」
「ええ、そうよ」
「そのとおりよ、珊瑚ちゃん」
二人の鬼気迫る様子に、珊瑚は恐れをなして一歩後ろに下がるのだった。




