11-3
「では、そろそろ本題に入りましょうか」
静かに教壇から降りた智は、陽一と珊瑚の向かい側に、椅子を一脚据えて腰掛けた。
「よろしくお願いします」
「あ、ありがとうございました。よろしくお願いします」
陽一と珊瑚が頭を下げると、智は頷き姿勢を正した。
「平良先生……弘樹先生とお話したのは、一年ほど前です」
「そうでしたか……。申し訳ありませんが、その時に話したのと同じことをまた聞かせていただけますか?」
「ええ、構いませんよ」
智は少し俯き、机の上に組んで乗せた両手に視線を落とした。一つ大きく息を吐いてから、静かに語り出す。
智の両親は、子供のころから厳しかった。特に父が智に向ける期待は大きく、将来は必ず帝都大学へ行けと口酸っぱく言い聞かせた。智自身は、幼い頃はそれに何の疑問も持たなかった。将来は国一番の帝都大学へ行き、国の役人になるのが当然だと思っていた。
自分なりに努力して、遊ぶ暇もなく勉学に励んだ。成績は上位だったが、一番には中々なれなかった。いつも満点とはいかず、得手不得手もあり、科目によっては満点を取ったことのないものもあった。その度に父には落胆された。
「今日返ってきた試験はどうだったんだ」
「……八十六点だった」
「なんだ、また満点じゃないのか」
「でも、平均点は五十点で……」
「そんな事は聞いてない。満点じゃなきゃ意味がないんだ」
「……ごめんなさい」
「次こそ満点を取れ」
「……はい」
「今日の試験はどうだった?」
「見て、満点だったよ!」
「ああ、この教科は得意科目だから当然だな。次も必ず満点を取りなさい」
「……はい」
試験のたびに、落胆と平坦を繰り返す。落胆は否定の言葉が降り注ぎ、平坦は無機質な言葉が並ぶのみ。満点を取れば一瞬だけ褒められるかもしれないと期待した。ただ一言「がんばったな」と言って欲しかった。しかし、その期待はいつも裏切られる。父に褒められた記憶は無い。思い出すのは、常に圧し掛かる重圧のみだ。
「今年の最終試験は何位になった?」
「……三位でした」
「なんだ、また一位じゃないのか」
「……すみません」
「いつになったら一位を取れるんだ。そんな事じゃ帝都大学には受からんぞ」
「……次は頑張ります」
「またそれか。何度も同じことを言わせるんじゃない。とにかく結果を出せ」
「……はい」
何度も繰り返す内に、徐々に気持ちが擦り減っていく。否定の言葉が当たり前になり、褒められたいと思う気持ちもほんのわずかを残して消えていった。何をしても認められない。なぜ必死になって勉学に励むのかもわからない。
「今年はどうだったんだ?」
「三位です」
「また一位じゃないのか。いつのになったら主席をとるんだ」
「すみません、努力します」
「こんな事で帝都大学に胸を張っていけると思ってるのか」
「十位以内なら入れますから」
「主席でなければ意味がないだろう。早く結果を出せ」
「精進します」
「お前はいつもそれだ」
いつも同じことしか言わないのは父親も同じだ。どうせ同じ言葉しか返ってこないのなら、何を言っても無駄だ。努力を重ねても、自分の息子はここが限界なのだとなぜ気付かないのだろうか。既に何を言われても智の心は凍ったように冷えていた。
高等学校の最終学年を迎えたある日、教師から呼び出しを受けた。目立つことも注意を受けるようなこともしておらず、智には何の覚えもなかった。
「ああ、黒田。ちょっとこっちに来てくれ」
「……はい」
呼び出したのは担任の教師だ。受け持ちは智の得意な数学だ。数学の教材が仕舞ってある準備室へと連れていかれた。
「そこに座ってくれ」
「失礼します」
どんな話をされるのか、内心落ち着かないが表情には出さない。智は父親から浴びせられる否定の言葉に慣らされて、この頃には感情をあまり表に出さなくなっていた。
「ちょっと黒田に頼みがあるんだ」
「なんでしょうか」
「お前、同級の才谷はわかるよな?」
「はい」
「あいつ、数学が滅法苦手で、いつも赤点ギリギリなんだ」
「そうですか」
「それで、悪いんだがお前、少し面倒見てやってくれないか?」
「……どうして僕が?」
「黒田は数学が得意だろ? 大抵学年一番じゃないか」
「確かに数学は得意ですが。教える事で何か僕に得られるものがありますか?」
智は常に限界まで勉学に励んでいる。人に構う暇などない。数人の学友は居るが、学校生活に困らない程度の仲で、そこまで親しい友人も居なかった。そんな自分がなぜ劣等生の面倒を見なければならないのか。智にはその意味が少しも分からず、教師の言葉に不信を抱いた。
「黒田は学校楽しいか?」
「……学校は、学びの場ですから楽しむ所ではないと思います」
「お前の将来の目標はなんだ?」
「帝都大学に入学し、国の役人になることです」
「それは、本当にお前の目標なのか?」
「そうです」
「本当にそうなのか?」
「……はい」
「そうか。それならいい」
腕を組み、深く息を吐いた教師は、少し間を開けて続けた。
「まあ、とにかく才谷の面倒を見てやってくれよ」
「なぜですか?」
「お互いにきっといい刺激になると思うんだ、俺は」
「……先生がどうしても面倒を見ろというなら、仕方ありません」
「そうか。じゃあ、明日から頼むよ」
「わかりました」
智には教師の考えが理解出来なかった。自分にとって何の利益も無さそうな才谷の面倒を、どうして自分が見なければならないのか。納得はいかないが、教師に逆らうのも得策ではない。それに、数学は好きなので、自分の勉強のついでに少し見てやればそれでいいだろうと思った。
翌日、早速昼休みと放課後で才谷の面倒を見る事になった。
「よお、黒田。悪いな、無理言ったみたいで」
「いや、自分の勉強の片手間だ。別に構わまない」
「そうか。ありがとな」
「いや、礼には及ばない」
今まで話したことも無かったが、随分気安く話しかけてくる男だった。だが、不思議と嫌な感じはしない。
「それで、どこが分からないんだ?」
「いやぁ、それが、どこが分からないのかさえ分らない」
「……そうか」
どこが分からないか分からないという人間に何をどう教えるべきか、智はしばらく空を見つめながら考える。一つ頷き、白紙にさらさらとペンを滑らせた。才谷はその手元を興味深げに覗き見る。
「取り合えず、一年の復習問題を作ったから解いてみてくれ。その間に僕は、二年の分を作る。それが終わったら今年の分だ」
「すごいな、こんな短時間に試験問題を作れるなんて。さすが黒田だな」
才谷の一言に智は言葉を失う。一体何が凄いのだろうか。たかが一年の復習問題を書き連ねただけだ。
「……大した事ないさ。いいから、君は早くその問題を解いてみてくれ」
智はほんの少し自分の耳が熱くなっているような気がした。それに気付かぬ振りをして、次の問題を作る。才谷はまだ問題を解き終えておらず、その間にさらに今年の分を作り終えた。
手持無沙汰になり、自分の勉強に移るか考えてみたが、才谷の進み具合が気になりそっと覗き込んだ。
才谷は悩みながら少しずつ問題を解いているが、どうにも遠回りをしている。解を導くには最適な公式があるのだが、それを使わず時間がかかる解き方だ。しかし、頭が悪いわけではなさそうだ。
ようやく解き終えた問題を採点し、才谷に視線を合わせた。
「惜しいものばかりだな。六十点だ」
「ああ、やっぱり駄目だったか」
「いや、もう少しで正解になるものばかりだ。才谷君は、ちゃんと理解出来てると思う」
「そんな慰めはいらないさ。いつも赤点ギリギリなんだから」
「それは、少しのひらめきの問題だ。君の使ってる公式は、間違ってはいないが最適じゃない。最適が見つけられれば、もっとうまく解けるようになる」
「本当か?」
「ああ。才谷君はすぐに出来るようになると思う」
「そうか。ありがとう。黒田にそう言って貰えると、自信が湧くな」
そうして、二年の分、三年の分と解いていくと、やはり頭が悪い訳ではない。文章のちょっとしたひっかけに躓いたり、遠回りをしたり、計算ミスが稀にある程度だ。
才谷の弱点が何か分かれば、教えるのも簡単だった。
「才谷君は素直に問題を読みすぎだ。この問題の意図はそうじゃない」
「俺は単純だからな。黒田はそんな風に解くのか。やっぱり凄いな」
「……大した事じゃない」
「才谷君、その公式でも確かに解けるが、こっちを当てはめた方が速い」
「なるほど、そういうことか。黒田はすぐに閃くなんて流石だな」
「……何度も繰り返せば君もすぐ慣れる」
「才谷君は計算ミスを無くせばもっと点が稼げる。そもそも、慌てて数字を書くから間違えるんだろう」
「そうか。確かに黒田の字は綺麗だな。俺も見習って丁寧に書くよ」
「……すぐに読み間違いも減るだろう」
才谷は一々素直で、簡単に智を褒める。その度に智は心の中で思う。
(そんな大したことじゃない。褒められるような事はしていない)
でも、本当にそうだろうかと思う自分も居る。否定と肯定を何度も繰り返す。その度に心がほんの少しずつ温まり、凍りついていたそれが徐々に溶かされていく。
「黒田、俺の名前を知ってるか?」
「今更何を言ってるんだ。才谷だろう」
「そうじゃなくて、下の名前」
「……太智」
「知ってたのか。同じ字を使ってるなんて、ちょっと縁を感じないか?」
「……別に珍しい字でもないだろう」
視線を逸らした智を見て、なぜか嬉しそうに才谷が笑った。
「智は帝都大に行って、その後どうするんだ?」
「僕は、国の役人になるつもりだ」
「そうかあ。やっぱり智は凄いな」
「……いや」
この目標は誰のものだっただろう。才谷に凄いと言われてチクリと胸が痛む。
「……才谷は、卒業後の進路は考えてるのか?」
「ああ。なんと俺は、教師になるのが夢なんだ」
智は才谷を見て、眩しさに目を細めた。彼のような人好きする奴には向いている。きっと生徒に慕われるいい教師になるだろう。
「そうか、教師か。それなら師範学校にいくんだな」
「そうだ。智のお陰で大の苦手だった数学が好きになった。数学の教師もいいかも知れないと、最近思うようになったんだ」
「それはいいな。君ならきっといい教師になれる」
「ははっ。俺、実は智の方が教師に向いてると思ってるんだけどな」
「……えっ? 僕が教師に?」
「ああ。だって、赤点ギリギリだった俺が、今では十番以内だぞ? 智の教え方がよかったからに決まってる。お前、教えるのに向いてるよ」
そんなはずはない。もともと才谷の理解力は優れていた。自分はほんの少しそれを手伝っただけだ。そう思うのに、才谷の言葉がじわりと胸の奥に響く。
「いや、やっぱり僕には向いてない。お前みたいに人を褒めるのは苦手だ」
「はははっ。智は自覚してないんだな。俺は何度も褒められてるのに」
「僕が才谷を褒めた?」
「大丈夫だ出来てる、こうすればもっとよくなる、あと一歩だって。ああ、これは褒めるって言うより励ますって言うのか?」
腕を組んで首を傾げた才谷は、しばらく考えてから頷いた。
「うん。俺はやっぱり智に励まされたんだな。だからやる気が出たんだ」
智は口を一文字に結んで黙り込む。何度思い返しても、ただ指摘して教えてきただけだ。
「やっぱり才谷は人を褒めるのが上手いな」
そう言ってそっぽを向いた智は、相変わらず口を引き結んでいるが、耳の先が赤くなっていた。
その様子に楽し気に笑った才谷は、「やっぱりお前は教師に向いてると思うけどな」と柔らかな声で告げた。
最終学年で交流を深めた二人は、それぞれの進路へ進むため、卒業後は道を違えた。
才谷は宣言通り師範学校へ、智は結局帝都大学へ入学した。互いに新しい環境で忙しくなり、自然と疎遠になっていった。それでも智の中で、才谷と過ごした日々は温かな思い出として色濃く残っていた。
父に何を言われても、心を揺さぶられる事は無かった。才谷に心を揺らされてから、父の言葉には何も感じなくなっていたし、ほんのわずかの期待すら既に失っていた。会わずとも心の支えになっている存在に、日々励まされていた。
三回生の冬、父から万年筆を渡された。
「お前も来年最終学年だな。入学の時は叶わなかったが、卒業くらい主席を取るんだ」
「精進します」
無表情に受け取った万年筆には、黒い魔石が嵌っている。
「その魔石は集中力を高める効果が付与されてるそうだ。最後の年くらい誇れる結果を残してみろ」
「……努力します」
言葉少なに会話を終えた智は自室に戻り、万年筆を睨みつける。才谷に会うまで機械のように生きていた。才谷に出会って以来、両親の前では無表情を装っても内心は違う。感情が湧く事は正常なのに、抑える事を苦しく思う日もある。それでも智は、才谷に出会って人間らしくなった自分が嫌いではない。
万年筆を持ち歩くのは癪に障るが、使わずケチをつけられるのも面白くない。仕方なく、学ランの胸ポケットに入れておく。結局言われた通りの大学に通い、渡された万年筆を捨てる事も出来ない。才谷のお陰で少しは変われたと思うが、自分の進みたい道がはっきり見えるところまでは来ていない。
そのまま大学へ向かい、門を潜ろうとした所で、見知った顔を見つけた。
「こんにちは、先生」
「ああ、黒田」
そこに居たのは、才谷と知り合うきっかけになった教師だ。
「こんな所でどうされたんですか?」
「黒田は、最近才谷と連絡を取ってたか?」
「いいえ。卒業以来連絡は取ってませんが。何かあったんですか?」
教師の真剣な顔つきに、嫌な予感がひしひしと胸に迫る。
「黒田、落ち着いて聞けよ。実は、才谷が……」
教師は俯いて一旦言葉を切った。歯を食いしばり、顔を上げると覚悟を決めたように口を開く。
「才谷が、死んだ」




