11-2
翌朝目を覚ました珊瑚は、隣の寝台に陽一の姿が無い事に気付いた。寝具の上に置いてあるメモが目に入り、手に取ってみる。
『先に二階にいるから、支度が整ったら珊瑚君もおいで』
メモを置いた珊瑚は、慌てて身支度を整えた。先に起きた陽一は、一人外を眺めているのだろうか。珊瑚を置いて食事に行くわけにもいかず、待たせてしまっているのかも知れない。
狭い階段を小走りで駆け上がり、慌てて扉を開いた。窓からの朝日を浴びた陽一が、珊瑚の方を振り返る。
「おはよう、珊瑚君」
「おはようございます。先生、お待たせしてすみません」
「大丈夫だよ。僕はちょっと早く目が覚めちゃっただけだから。もっとゆっくりしててもよかったのに」
「いいえ、充分休みましたから」
「そう? よく眠れたならよかった」
柔らかな笑顔を浮かべる陽一が眩しくて、珊瑚は目を細めた。
「もう少しすると食堂車が使えるけど、部屋で食べるのとどっちがいい?」
珊瑚は少しの間考えてから口を開いた。
「せっかくなので、食堂車に行ってみたいです」
「よし、じゃあ支度が終わったら行こうか」
珊瑚は首を傾げた。陽一はすでに身支度を整えているし、自分もちゃんと着替えて来た。これ以上何の準備が必要なのだろうか。
「珊瑚君、慌てて着替えたから顔、洗ってないでしょう?」
珊瑚は「あっ」と声を上げ、慌てて両手で口を押えた。
「すみません、すぐ済ませてきます」
洗面所に駆け込む珊瑚の背に、陽一の軽やかな笑い声が追いかけてくる。
鏡に向かった珊瑚は叫び声を堪え、うめき声を上げた。軽く手で整えたはずの髪は、寝癖であらぬ方向に跳ねている。これを見られたのかと思うと、頬が瞬く間に赤く染まり、額に冷や汗が浮かぶ。
どうにか髪を整え、顔の赤みが引いたところでそっと扉から顔を出した。
「……お待たせしました」
「準備はいい?」
「……はい。ところで先生」
「うん?」
「気付いてたなら早く教えて下さいよっ」
「あはは。涼介にぐちゃぐちゃにされた時よりよっぽど整ってたよ」
「寝癖であんな壊滅的な頭になる人なんて、そういませんよ」
「確かにそうかもね」
「どうしてすぐに教えてくれなかったんですか?」
陽一は何かを思い出すように上を見て、少し意地悪な笑みを浮かべた。
「まあ、ちょっとした仕返しかな」
「……昨日の夜笑ったこと、まだ怒ってます?」
「さあ、どうかな?」
珊瑚は口を尖らせながら、食堂車に向かう陽一の背中の後を追った。
まだ早い時間ということもあり、まだ客はいなかった。朝の光を受けた白いテーブルクロスが、列車のリズムにほのかに揺れている。
「食堂車も素敵な内装ですね」
「そうだね。実は僕も初めて入ったよ」
「そうなんですか?」
「うん。列車に乗ったことはあるけど、いつも座席で適当に済ませてたから」
「先生にも初めてのことがあるんだと思うと、ちょっと嬉しいです」
「そう?」
「はい。私だけ何も知らなくて、いつも教えて貰ってばっかりですから……」
「僕も知らないことは沢山あるよ。これからも一緒に初めてを体験する事もまだまだあるよ」
「……そうですね」
珊瑚は淡く微笑んだ。
こんな風に過ごす時間が、増えたらいいのにと思う。今は知らないことばかりだけれど、何か一つでも珊瑚から渡せるものが見つけられたら。
「朝食は部屋毎に決まったメニューだから、飲みものだけ選ぶみたいだよ」
「わかりました」
二人で話していると、給仕がテーブルへとやってくる。陽一がリンゴジュースを、珊瑚がオレンジジュースを注文して、料理が来るのを静かに待った。
ほどなくしてそれぞれの前に、ジュースと料理が並べられていく。プレートは彩り良く、一緒に並べられたクロワッサンの芳醇な香りが微かに漂う。見た目も香りも特別な朝食に、食欲をそそられた。
「おいしそうですね」
「そうだね。じっくり味わおう」
二人そろって挨拶をし、同時に食べ始めた。
前はカトラリーを上手く使えなかった珊瑚も、今では自然に扱えるようになった。もう箸を別に頼まずとも洋食を楽しめる。これも陽一に教えてもらったことの一つだ。
フルーツ入りのヨーグルトは、程よい酸味とフルーツの甘さが相まって、爽やかな口当たりだ。サラダは瑞々しく、かかっているドレッシングはバルサミコ酢で、野菜の味を引き立てる。厚めのハムを切り分けて口に運ぶと、脂は少なくさっぱりとしていて、食べ応えはありつつも飽きの来ない味わいだ。
珊瑚はクロワッサンを手に取り、頬を綻ばせた。一口大に千切って頬張ると、サクッと音が響く。外のパリッとした食感と異なり、中はふわっとしていた。バターの香りと軽やかな口当たりに目を細めて思わず唸る。
「珊瑚君は、すっかりクロワッサンが気に入ったみたいだね」
「はいっ。初めて食べた時からすっかりお気に入りです」
「本当においしそうに食べるよね」
「このサクサクとバターの香りはたまりません!」
二人は会話を楽しみながら、貸し切り状態の食堂車をゆっくり堪能した。
ちょうど食事が終わるころになると、ちらほらと他の客がやってくる。それを切っ掛けに、客車へ戻ることにした。
個室の二階に戻り、二人揃って窓の外を眺めた。しばらくそうしていると、陽一がふと手の甲で口を覆って欠伸をする。
「先生、朝早く起きてたみたいですけど、あまり眠れなかったんですか?」
陽一は苦笑しながら、ふいと視線を逸らした。
「いや、ちょっと考え事をしてたから……」
「今日会う人のことですか?」
「……まあ、そんなとこかな」
窓の外を眺める陽一を、珊瑚は首を傾げて見つめた。少しの沈黙の後、陽一が口を開いた。
「大したことじゃないから、気にしないで。心配してくれてありがとう」
「到着まで休んでて下さい。着いたら起こしますから」
「……それじゃあ、お言葉に甘えてちょっとだけ」
陽一は腕を組んで窓側の壁に寄りかかり、目を閉じた。しばらくするとその呼吸は穏やかに、そして規則正しくなっていく。
眠る陽一の向かいに座り、珊瑚は静かに窓の外を眺めていた。流れていく景色は、どれも新鮮で飽きることなく目を楽しませてくれる。矢のように過ぎていくのを見ているうちに、ふと帝都に来るときの旅路が思い出された。
あの時も夜行列車に乗れば、もっと楽に来れたのに。そう思ってすぐに首を横に振る。こんな豪華な個室を取ることは出来なかったし、知らない誰かと同じ空間で眠るなんてとても出来そうにない。宿に泊まるのでさえ、落ち着かなかったのだから。
それに比べて今はすっかり旅を楽しんでいる。帝都に向かっていたあの日の珊瑚には、とても想像できなかった未来だ。同じ列車の旅でも、気持ち次第でこんなに景色が変わるのだと、珊瑚は今初めて知った。
列車は規則的な音を刻みながら滑るように走り続け、そのまま穏やかな時間が流れた。
「珊瑚君」
陽一の声に目を開いた珊瑚は、自分が寝入ってしまったことに気付き、慌てて身体を起こした。
「先生っ! すみません、私が起こすって言ったのに」
「大丈夫だよ。僕もさっき起きたばっかりだから」
「今どのあたりですか?」
「もう少しで着くよ」
珊瑚は胸を撫でおろして、大きく息を吐く。
「通り過ぎてなくてよかったです」
「そうだね」
陽一が笑い、珊瑚もつられて微笑んだ。緊張が解けて自然と肩の力も抜ける。到着までに互いに荷物の確認をし、下車の準備を整えた。
しばらくすると、列車は滑らかにホームへ滑り込む。ガタンと停車する振動が伝わり、二人はゆっくり席を立った。
陽一の手を借りながら降り立った駅は、思っていたより人が多い。田舎とは言え、鈍行しか停まらない珊瑚の田舎とは様相が違っていた。今の時期は都会から帰省する人も多いので、いつもより人が多いというのもあるかも知れないが。
とは言え、列車から見た景色は、周辺に長閑な風景が広がっていたので、案外駅の近くだけ栄えているのかも知れない。
「珊瑚君、大丈夫?」
珊瑚は周囲を見回しながら、少し考えるように答えた。
「はい。思ってたより人が多くて驚きましたけど。気を付けて歩けばぶつかるほどでもありませんから」
「そう。これから、馬車に乗って少しかかるけど、疲れてない?」
「平気です」
「じゃあ、いこうか」
大きな荷物だけ駅で預けて、馬車乗り場へ向かう。混雑しているかと思ったが、同じ方へ行く人はあまりおらず、珊瑚は無事に端に座った。
馬車から見える景色は、やはり駅の近辺だけが栄えているようだ。少し離れると、列車から見たのと同じような田園風景が広がっている。目的地までは、馬車に揺られること十分ほどだ。歩けないわけではないが、整備の行き届いた道ではないので、馬車の方が便利といった距離だ。
目的地に到着した二人は、周囲を見回した。
「珊瑚君、あそこに見えるのが学校だよ」
珊瑚は陽一の指さす方へ視線を向けた。田舎では学校を見に行ったことがなく、珊瑚が目にするのはこれが初めてだ。
「あれが学校なんですね」
木造の建物が数棟並んでおり、少し古びた屋根が長閑な田舎の風景に馴染んでいる。近付いていくと、校舎の内側にはあまり広くはないが運動場が見えてきた。それに向かって正面の建物に、大きな時計が見えた。
「丁度約束の時間だよ」
「そうですか。学校の中で待ち合わせなんですか?」
「うん。建物の入り口に事務室があるから、そこに行けばいいみたい」
校舎の正面入り口から中に入ると、左手に小さな窓がある。珊瑚はその様子が、以前に行った集合住宅の管理人室に似ていると思った。
外に設置されたベルを鳴らすと、チリリンと軽やかな音が響き渡る。少し離れた席に居た作務衣姿の男が、こちらに気付いてゆっくり近付いてきた。
「何か御用ですかね?」
「本日黒田先生とお約束しております、平良陽一です」
「ああ、聞いとりますよ。もうすぐ先生も来るんで、ちょっと待っとってくださいな」
「ありがとうございます」
やや年配の男は、事務員のようだ。白髪交じりの頭に上げていた眼鏡を下げ、いままで見ていた書類に再び目を落とした。
程なくして、ギシギシと床の軋む音が近付いてくる。部屋の扉がガラガラと音を立てて開くと、事務員がそちらを振り向いた。扉から顔を覗かせたのは、陽一とあまり変わらない年齢の青年だ。
「ああ、黒田先生。話しとった人が来てますよ」
「そうですか。ありがとうございます」
返事をした青年は、扉から再び外に出て、陽一と珊瑚の方へ歩いてきた。事務室の角から現れたその人は、いかにも生真面目そうで、黒縁眼鏡を掛けていた。
陽一と珊瑚に目を留めた青年は、ぴたりと直立不動になり口を開いた。
「お待たせしました。黒田智と申します」
「平良陽一です」
「神崎珊瑚と申します」
「本日はお時間いただきありがとうございます」
「いいえ、ちょうど学校も休みですから」
智は事務員を振り返り、声を掛けた。
「安西さん、しばらく三組の教室に居ますので、何かあれば声を掛けてください」
「わかりゃした」
陽一と珊瑚に視線を戻した智は、「こちらにどうぞ」と一声掛けて、二人の前を歩き始めた。
智が事務室に向かってきた時と同じように、ぎしぎしと音を立てながら廊下を進んで行く。珊瑚は初めての学校が物珍しく、きょろきょろと辺りを見回しながらついていった。
智はいくつかの教室を通り過ぎ、一番奥にある教室の引き戸をガラガラと開いた。
「こちらにどうぞ」
「失礼します」
「し、失礼します」
珊瑚は教室の中に整然と並んだ机に目を奪われた。今は学校も休みで、校舎全体が静寂に包まれている。しかし、教室内の机の数からして、生徒が居る時間はどれだけ賑やかなのだろうかと想像した。
陽一や涼介も、同じような教室で机を並べていたのだろうか。この教室で勉強するのはどんな風なのだろうか。想像が膨らみ、胸が高鳴る。
「田舎の学校が珍しいですか?」
突然智に声を掛けられた珊瑚は、肩をびくりと震わせる。
「す、すみません。学校は初めてなので」
「……そうでしたか。よかったら好きな席に座ってみては?」
「えっ、い、いいんですか?」
「ええ。今は休みで誰も来ませんから」
「で、では、お言葉に甘えて……」
珊瑚は頬を紅潮させて席に着く。少し小さな机と椅子は、座り心地があまりよくはない。それでも珊瑚にとってはふかふかのソファより心地よく感じられた。
隣から響いた音に、珊瑚は視線を移した。隣の席に座った陽一が珊瑚を見て、目を細めた。
二人の様子を見ていた智は、顎に手を当てて頷くと、一段高くなった教壇へ登った。珊瑚は目を瞬き、智を見上げた。
「今日は生徒が二人なので静かですが、普段は大変賑やかです」
至極真面目にそう言った智に、珊瑚は笑みを浮かべた。
「とても楽しそうですね」
「そうですね。ただ、静まるまで時間が掛かって、なかなか話が進まないことも多いです」
「それは大変ですね」
「学校とは、勉強だけでなく、そういった普段の振る舞いも学べる場所です」
「素敵ですね」
珊瑚は自分がもし他の人と変わらず、学校に行くことが出来たらと少しだけ想像する。今まで出会った人たちと似た同級生に囲まれて、智のような教師に勉強を教わる。そんな日々を過ごせたら、もっと人と関わる事も上手くなれたのだろうか。
「もちろん、学校では多くのことを学べます。ですが、それが難しい場合でも、ほかの場所で学べることも多くあります。大事なのは、自分でそれをどう活かすかです」
その言葉に珊瑚が目を見開くと、教壇に立つ智は生真面目な顔に優しい笑顔を浮かべていた。智の言葉は、教訓や慰めではなく、心の中にふっと響いた。今の珊瑚を認めて貰えたような気がして、少しだけ励まされた気分になった。




