11-1
日が傾き暑さの和らいだ夕暮れ時。珊瑚は夜の出発に向け、手早く荷造りを進めていた。買い出しから三週間程が経ち、いよいよ最後の一人に会いにいく為だ。
これまでの人たちの住まいは帝都だったが、最後の一人だけ地方にいる。最初は例外だと思ったが、もともとは帝都の中心に住んでいたらしい。父親が亡くなったのをきっかけに今の地へ移ったそうだ。
遊びではないと分かっていても、列車での旅に胸が高鳴る。帝都に来た時は、不安を抱えた一人旅だった。けれど今度は陽一が居る。田舎の邸を出る時は不安に圧し潰されそうだった胸が、今は期待に弾んでいる。
出発は夜遅くなので、夕食をどこかで済ませてから出発することにした。作ろうと思っていたのだが、陽一から旅の前に疲れを取るよう言われたからだ。更に軽やかに笑いながら「診療時間が終わったらもう旅の始まりだよ」と言っていた。その言葉に、珊瑚の心はますます浮き立った。
荷造りを終えて階段を降り、待合室へ向かう。既に準備を終えた陽一が、鏡の前でネクタイを直していた。
「先生、お待たせしました」
「早かったね。僕も今来たばっかりだよ」
「そろそろ行きましょうか」
「ああ、それなんだけど」
陽一が言いかけたところで、診療所の呼び鈴が鳴る。心当たりのない珊瑚は、首を傾げて陽一を見上げた。陽一は肩を竦めて扉の方へと向かい、訪問者の声を確かめてから開いた。
「おう、陽一、珊瑚ちゃん」
顔を覗かせたのは涼介だ。
「今日出発だろ? 一緒に飯でもどうかと思ってな」
「篠塚さん!」
「今回訪ねる人の事、涼介の方でも調べてくれてたからね。一応涼介の情報も聞いてから行こうと思ってさ」
「そういうことですか」
「そこの食堂で良いのか?」
「僕はいいけど、珊瑚君はどう?」
「もちろんですっ」
「今日は奢らんぞ」
「ケチ臭いこと言うなよ」
いつもの応酬が始まった二人を見ながら、珊瑚はくすくすと声を立てて笑った。
「こんばんはー」
「こんばんは」
「お邪魔します」
涼介を先頭に、ガラガラと引き戸を開けると、店内からはいつもの女将の笑顔と主人の挨拶に迎えられる。
すっかり指定席となった奥の隅に珊瑚が座り、向かいに陽一とその隣に涼介が座った。
三人それぞれ注文を終えて、茶を飲みながら件の人物についての話を始める。
「今回の人は、田舎の学校の教師だってな」
「うん」
「なんでも、父親は国の役人にしたかったらしいがな。性に合わなかったらしくて田舎に引っ越したみたいだぜ」
「へえ。父親と何かあったのかもな」
「そうだな。それで、母親も一緒だったらしいが、田舎に行ってすぐに亡くなってるみたいだ」
「あの……」
「どうしたの? 珊瑚君」
「学校って……どんな感じですか?」
思いのほか響いた珊瑚の声に、店内がシンと静まり返った。女将の手が止まり、客の声もふっと途切れる。目の前の二人も一瞬目を瞠るが、すぐに陽一が柔らかな笑みを浮かべて答えた。
「同じ年頃の子たちが集まってるからね、結構騒がしいかな。涼介みたいにしょっちゅう絡んでくるヤツとかね」
「は? 俺はそんなにしょっちゅう絡んでなかっただろ?」
「いや、最初の頃は特に、割と面倒くさかったよ」
珊瑚は興味深げに二人を見つめ、学生時代を想像する。今と同じように学校でも、気の置けないやり取りを繰り返していたのだろうか。学校に通えなかった珊瑚は、少しだけ羨ましくもある。しかし、もし珊瑚が実際に学校へ通っていたら、きっと耐えられなかっただろう。すぐに引き返して、結局邸に籠ってしまったに違いない。もし、この目が普通だったら……。そう思わないではないが、考えても仕方のないことだ。
「まあ、いいことばっかりじゃなかったけどな」
「そうだね」
肩を竦めた二人の後ろから、女将がお盆を持って近付いてきた。
「珊瑚ちゃんも、まだこれからだって通えるじゃない」
「え?」
珊瑚はその言葉に目を瞬いた。女将は湯気の立つ料理を並べながら、穏やかに目を細める。
「年齢関係なく通える学校もあるわよ。例えば、診療所の助手を続けるなら、看護の学校とか」
「そうなんですか?」
「ああ、あるな」
「そうだね」
「少し落ち着いたら考えてみてもいいんじゃないかしら?」
「……そう、ですね」
珊瑚は淡く笑みを浮かべて小さく頷いた。
そんな日が来るとは思えない。陽一も涼介も、強く勧めて来ないのは珊瑚の事情を知っているからだ。ただ学校に通えなかった訳ではない。この目がある限り、きっと無理なのだ。何度もそうやって諦めて来た。
それでも、女将の提案にほんの少し心が揺れる。看護の勉強が出来たら、もっと陽一の役に立てるだろうか。
並べ終えた食事を前に、涼介が場の空気を変えるような明るい声を出した。
「今日も旨そうだな。旅の前の景気付けに、しっかり食ってけよ」
「ふふっ、そうですね」
「よし、じゃあ、頂こうか」
陽一の言葉に、二人はいつものとおり「いただきます」と声を揃える。しかし、今日はそこに少し離れた場所から低い声が響いてきた。
「旅だと?」
びくりと肩を竦ませた珊瑚は、反射的に声の主を探す。そこには厳しい顔をした忠蔵が立っていた。
初めて診療所で出会った時に怒鳴られ、翌日にレバニラをくれた忠蔵だ。あの日以来、何度か診療所にも来ているので、珊瑚も今ではすっかり顔馴染みだ。陽一が釘を刺したこともあってか、あれ以来一度も怒鳴られた事はない。
「忠蔵さんっ! こんばんは」
忠蔵は三人に近付き、じろりと陽一と涼介を睨みつける。
「今、旅と言ったな。誰と誰が旅に出るんだ?」
「……僕と珊瑚君ですよ」
「こっちのチャラチャラしてる奴は行かんのか?」
「ちゃ、チャラチャラって……」
涼介の不満そうな声に、忠蔵はふんと鼻を鳴らした。
「僕と珊瑚君だけですよ」
「二人で行くのか?」
「そうですよ」
「観光にでも行くのか?」
「ああ、なるほどな。忠蔵さん、陽一と珊瑚ちゃんは、弘樹さんが診た事のある人のところを訪ねるんだよ。ついでにちょっとした観光くらいはするだろうけどな」
「そうか。医者と助手だからな。それならいい」
珊瑚は首を傾げて忠蔵を見上げた。
「忠蔵さん、何か心配事でもあるんですか?」
「いや、何でもない。気を付けて行ってこい。……何かあったらすぐ戻ってこい」
忠蔵の後ろ姿を見ながら、珊瑚は首を傾げたまま口を開く。
「先生が居ない間の事が心配なんでしょうか?」
「なんだろうね?」
陽一と珊瑚が揃って首を傾げる横で、涼介が「心配するだけ無駄だな」と苦笑いした。
「ほら、早く食わないと冷めちまうぞ」
「あっ、そうですね、頂きましょう」
「そうだね」
食堂は涼介の一言と共に、穏やかな日常の空気へと戻っていった。
食事を終えて涼介と別れると、荷物を抱えて夜の駅に向かった。真夏とは言え、夜風は思ったより涼しくて、頬を撫でる度にひんやりと心地いい。
改札を抜け、二人並んで列車を待つ。荷物を手に提げ、これから向かう先についての会話を静かに交わした。
やがて、遠くから列車のヘッドライトが一直線に二人の方へと迫ってくる。
「珊瑚君、あれに乗るよ」
「はい」
列車がホームに滑り込み、ガタンと音を立てて停車した。扉が開くと、二人は列車に乗り込んだ。陽一が予約したのはごく少数しかない個室で、特別仕様になっているらしい。考えてみれば、誰かと旅をするのは初めてだ。
「珊瑚君、二階もあるけど行ってみる?」
「えっ、そうなんですか?」
「うん。ちょっといい席が空いてたからね」
珊瑚は入ってすぐの部屋が座席兼ベッドだと思ったのだが、どうやら違ったようだ。陽一の後に続いて狭い階段を上っていくと、二階には小さめのソファが置かれていた。ほかにも扉があり、中に何があるのか興味を惹かれる。
「こっちは、シャワーとトイレがあるから自由に使えるよ」
「こんな列車があったんですね」
「こういう個室の他に、寝台だけの部屋もあるから、色々だよ」
「そうなんですね。豪華な席は見たことがなかったので、驚きました」
珊瑚は落ち着かずにきょろきょろと周囲を見まわす。おずおずとソファに座り窓の外を覗き込んだ。
「こうやって見ると、駅のホームもいつもと違って見えます」
「そうだね。知らない駅に来たみたいだね」
しばらく外を眺めていると、列車の出発時刻がやってきた。警笛が鳴り響き、ガタンと音を立てて列車が走り出す。
そのまま外を眺めるが、夜の街は明かりも消えて、窓の外は真っ暗だ。それでも日常から離れていく景色に、珊瑚の胸は高鳴った。
陽一は先にシャワーを浴びに行くと、扉の向こうに消えていった。微かに漏れる水音に、珊瑚は不思議な感覚に襲われる。
(変な感じ。小さいころ、お母さんの部屋で一緒に寝た時もこんな風だったな。お風呂が終わるのを待って、待ちきれなくて先に寝ちゃったりしたっけ)
珊瑚が昔を懐かしんでいると、陽一がシャワーを終えて髪を拭きながら出てきた。
「珊瑚君、空いたからどうぞ。僕は下にいってるよ」
その言葉に振り返った珊瑚は、空いたシャワー室へと向かった。
手早く済ませて髪を拭き、ドライヤーで髪を乾かす。そう言えば、陽一は髪が濡れたままだったような気がするが、大丈夫だったのだろうか。
慌てて一階に降りると、陽一の髪はすっかり乾いていた。
「先生、ドライヤー使ってませんでしたよね?」
「ああ、僕は自分で作ったやつを持ってきてたからここで乾かしたよ」
手にあるのは、珍しくまともな発明品のようだ。珊瑚の視線に気づいた陽一は、口を尖らせた。
「珊瑚君、視線が饒舌だね。僕だって、たまにはまともな発明品を作れるよ」
「先生、自分で『たまには』とか、『まとも』って言っちゃったら、いつものが違うって認めたようなものですよ?」
「あっ、そうか」
眉尻を下げて頭を掻く陽一に、珊瑚は声を立てて笑った。
「……発明品の話は忘れて、そろそろ寝ようか」
「ふふっ。そうですね」
二人それぞれ布団の中に潜り込んだ。
「それじゃ、電気を消すよ?」
「はい」
パチンという音と共に、部屋の電気が消えた。
珊瑚は目を瞑ったものの、なかなか眠気が訪れない。それぞれ別のベッドに横になってはいるが、間は人ひとりが通れる程度の距離しか開いていない。ガタゴトと列車の音だけが響いていたが、陽一の寝返りを打つ音が耳につく。
珊瑚は脳裏に、ふと忠蔵の「二人で行くのか?」という言葉がを過った。
(二人でって。寝台の部屋も一緒だってことまで考えてなかった……)
何となく落ち着かなくなり、珊瑚も寝返りを打つ。眠れそうになく、小さく息を吐いたところで、陽一が口を開いた。
「珊瑚君、眠れない?」
びくりと肩を震わせた珊瑚は、少し上擦った声で答える。
「は、はい」
「誰かと同じ部屋で寝るなんて、考えてみれば子供の時以来だな」
「わ、私もです。さっき、二階で母のことを思い出してました」
「どんな?」
「小さい頃は、同じ部屋で寝てたんですけど。母のお風呂を待ってる間に寝てしまったりとか」
「ああ、そういうの、僕にも覚えがあるな」
「先生もですか?」
「うん。僕も、小さい頃は母に添い寝してもらってて。もうあんまり記憶にないけどね」
小さく笑い声を漏らした陽一が、静かに続けた。
「絵本を読んで欲しくてね。眠いんだけど強請って。母が本を取りに行ってる間に、待ってられなくて寝ちゃって」
「ふふっ。すごくわかります」
「で、次の日になんで読んでくれなかったんだって拗ねてたな」
「先生もそんな頃があったんですね」
「そりゃね、僕だって子供の時はあったよ」
珊瑚は子供の頃の陽一が拗ねて母親を困らせる様子を想像して、自然と頬が緩む。この暗がりでは笑っても陽一には見えないのだから、笑いをかみ殺す必要も無い。
「珊瑚君、今笑ってるでしょう?」
「えっ。ど、どうしてわかったんですか?」
「……やっぱりね。何となくそうだろうと思ったよ」
「先生、実は見えてます?」
「こんな暗がりで見えるわけないでしょう。なんとなく笑ってそうな空気を感じたから」
見えていなくてもなんとなくわかる。そう思うと、なんだか少し擽ったい。考えてみれば、珊瑚も陽一がどんな表情をしているのか、目を瞑っていても思い浮かぶような気がする。
「そろそろ寝ないと、明日が大変だよ」
「そうですね」
「おやすみ、珊瑚君」
「おやすみなさい、先生」
珊瑚は会話の余韻に浸りながら、目を瞑った。さっきまで気になっていた陽一の気配が、今は心地よくて安心する。子供の陽一が母親に絵本や添い寝を強請ったり、そのまま眠ってしまったり、少し拗ねて甘えるところを想像してみた。陽一の寝息が微かに耳に届き、珊瑚は笑みを浮かべて、微睡の中に落ちていった。




