10-5
珊瑚が手首を痛めてからちょうど一週間。今日は陽一と共に中心街へ買い物に出かける。
次に話を聞く症例の人が見つかり、話を聞きに行くのだが。帝都から離れた所に住んでいて、会いに行くのはちょっとした旅行になる。そのための買い物だ。
向かう先は列車で半日かかるので、夜行列車で行くことになっている。普通に行けば往復三日の小旅行だ。長期連休の下り列車は満席ばかりで、連休前夜なら何とか予約が取れた。
始めは往復三日の予定だったのが、帰りは途中下車して宿に泊まる事になった。陽一が涼介に予定を話すと、厳しくお叱りを受けたそうだ。曰く、「珊瑚ちゃんが居るのにそれはあり得ない」だそうな。
珊瑚は帝都に出てくる時、鈍行を乗り継いで来たので、夜行列車で往復三日に何の疑問を持たなかった。しかし涼介からすると、とんでもないことのようだ。
珊瑚は涼介には自分がどんな旅程で帝都に出てきたのか、絶対に言うのはやめようと心に決めた。
街へ出る前にいつものように手を繋ぐ。陽一から感情が流れてくるのは、ある程度気持ちの波がある時だけのようで、何もなければほぼ感じられない。
亜真音に会って以来初めて街へ出たので、手を引かれるのもそれ以来だ。珊瑚は以前より少しそわそわするのだが、陽一の手から何も伝わらないことで冷静さを取り戻した。
今日は人出も多く、街はいつもの休日より少し活気づいている。店のガラスに映るのは、以前のように珊瑚と陽一だけでなく沢山の人々だ。
旅行で必要となるものを、店を回って買い集めながら歩いている時だった。珊瑚はとある店から出てきた男に目を見開いた。繋いだ手から珊瑚の異変に気付いた陽一が、珊瑚を見下ろした。
「珊瑚君、どうしたの?」
「……先生、あの人もしかして」
珊瑚の視線の先を追った陽一は、男の姿が見えないようで首を傾げた。
「ごめん、どの人か分からないや。誰か知ってる人?」
男は店の角を曲がり、今にも姿が見えなくなりそうだ。焦った珊瑚は答える間も無く、陽一の手からするりと抜け出し走り出す。
(まだ追いつけるかもしれない)
「珊瑚君っ、待って!」
後ろで陽一が焦ったように珊瑚を呼ぶが、今の珊瑚の耳には入らない。頭の中は目の前の男のことでいっぱいだ。
その男は、目の下に特徴的な痣のある男だ。その痣の形を珊瑚はどこかで見たことがある。もっと近くで見れば、思い出せるかも知れない。あの痣の記憶が、ぼんやりと浮かんでいる気がするのだが、靄に包まれたようで手が届かない。
息を切らしながら石畳を蹴って男を追いかける。人にぶつかり負の感情が流れ込むが、気にせずそのまま走り抜けた。喉がひりつき息も上がる。心臓の音がドクドクと煩く響くが気にせず走った。
もう少しで顔をしっかり見られるかも知れないと思ったところで、男は馬車に乗り込んでしまった。
(もう少しだったのにっ……)
ぜえぜえという息と心臓の音が頭に響く。負の感情に当てられたせいなのか、走りすぎたせいなのか、どちらとも分からない頭痛が襲い、その場に座り込んだ。手の甲で汗を拭いながら、痛む頭に手を当てて俯いた所で、負の感情が霧散する。続けて流れてきたのは、怒りと焦りの交じり合った感情だ。
振り向くと眉間に皺を寄せた陽一が、珊瑚の肩に手を置いていた。
「……珊瑚君っ! ……っ突然、一人で走り出したら、危ないでしょう」
息を切らしながら珊瑚を見下ろす陽一は、どう見ても怒っている。手から伝わらなくても分かるのだが、流れて消えた中には心配する気持ちも混じっていた。
「せ、先生、すみません……。どうしても、気になって……。夢中になってしまって」
珊瑚も息絶え絶えに返事をし、まだ苦しくて胸に手を当て息を荒くする。
「と、とりあえず、無事でよかったけど。僕もしんどいから、ちょっと、息を整えたら、どこかに入って休もう」
そう言った陽一は、珊瑚の正面にしゃがみ込んだ。
「そ、それにしても、珊瑚君」
「はい」
「君、走るの速すぎだよ」
「そ、そうでしょうか」
「うん。あっという間に、後ろ姿が遠くなって、本当に焦ったよ」
「すみません」
頬を赤らめた珊瑚を見下ろし、陽一が思わずと言った風に噴き出した。
「ぷっ、あははははっ。珊瑚君てば、本当に、ものすごい勢いで走っていくんだから」
珊瑚はますます顔を赤くして小さくなった。陽一は笑っては落ち着きまた笑う。感情が湧いては収まりまた湧いてを繰り返しているようだ。
「はあ、笑いすぎて、肺が潰れそう……」
「ひ、酷いですよ。先生、笑いすぎです」
「だ、だって、珊瑚君、あの勢いには、僕もついていけなかったよ」
「……すみません、ご心配をおかけしました」
「うん。わかってるならいいよ」
そう言って差し出された右手に、珊瑚は左手を重ねる。まだほんのりさっきの名残を感じるが、それを口にすればまた笑われそうだ。
しばらくそのまま歩いていると、まだ少しだけ楽しそうな気持ちが流れて、しばらくしてからすっと消えた。
少々値段が高い喫茶店は、休日でもそこまで混雑していない。丁度よく周りに人の居ない席へ案内され、それぞれ飲み物を注文した。珊瑚の前にはアイスカフェオレが、陽一の前にはアイスコーヒーが置かれる。
「珊瑚君は、涼介が持ってきて以来カフェオレもお気に入りだね」
「はい。コーヒーはまだ苦手なんですけど、カフェオレは美味しいです」
「そう。帝都に来て、いろいろ好きなものができてよかったね」
珊瑚は一瞬口に含んだカフェオレを吹き出しそうになるが、何とか堪えた。
「……そうですね。篠塚さんには野良猫の餌付けみたいに思われてる気がしますけど」
「ははっ。そう言えば前に珊瑚君のこと、猫に例えてたな」
「猫ですか?」
「うん。なんでだったかな」
そう言って考え込んだ陽一は、何かを思い出したようだが口を閉ざした。
「ところで、さっきは何で誰かを追いかけたの?」
「桜井さんが言ってた人の話を覚えてますか?」
「うん。確か、目の下に特徴的な痣のある男だよね」
「はい。さっきの男の人、目の下に痣があったように見えたんです」
「それで追いかけたの?」
「それもあるんですけど、なんだかやっぱり前に見た事があるような気がして……」
珊瑚は直人が言っていた、梓と二人で街の中を歩いていたという男がずっと気になっていた。目の下の痣と聞いて何かが頭を掠めるが、それが何か掴めずもやもやする。陽一には何の心当たりも無いようだが、珊瑚が一人で見たのだろうか。帝都に来てから外出する時はいつも陽一が一緒だったから、それも無い気がするのだが。
「先生は、痣のある男の人に覚えはないんですよね?」
「うん。僕は覚えがないね」
「もう一度ちゃんと見たら思い出せそうな気がするんですけど……」
「ちょっと、珊瑚君。次に見かけても一人で走り出さないでよ?」
「……すみませんでした」
「本当に大丈夫?」
「ど、努力します」
陽一は肩を落として溜息を吐いた。
「珊瑚君、よく聞いて」
「はい」
「もし、痣の男が魔石に関わってたら、珊瑚君も危ないって分かってる?」
珊瑚は目を瞬いたあと、さっと顔を青くする。陽一は少し黙り込んでなら、諭すように話し始めた。
「珊瑚君は、まだ自分のせいだって思ってるよね。だから、せめて自分が出来ることくらいはって焦ってない?」
「……そうかも知れません」
「仮にあの男が魔石を売ってとして、珊瑚君が一人で追いついてどうするつもりだったの?」
「……顔を見ることしか考えてませんでした」
「あの男が珊瑚君のことを知ってるかも知れないとも考えてないよね?」
「……はい」
珊瑚はあの男が統司と繋がっている場合のことを何も考えていなかった。統司が自分を利用するだろうとは思っているのに、仲間の誰かが動く可能性があることも頭に浮かんでいなかった。
珊瑚のせいではないと言ってもらえても、すぐに意識を変えることは難しい。それでも、沈んでいても仕方がないから、前向きに出来ることをしようと思っていた。しかし陽一の言うとおり、焦って空回りしていたのかも知れない。
「今回は本当に何もなくてよかった。でも、次はどうなるかわからない。今度痣の男を見つけても、無暗に追いかけずに、必ず僕に知らせて」
「わかりました。考え無しで、すみませんでした」
「まあ、暗く沈み込んでお通夜みたいな顔してるよりはいいけどね」
「私、そんな顔してました?」
「そうだね、自分のせいだって言ってる時の珊瑚君はそんな感じだよ」
陽一はアイスコーヒーを一口飲み、軽く息を吐く。
「でも、あんなに人混みを怖がってた珊瑚君が、ぶつかるのも気にせず走ってく後ろ姿は、なんだか……」
陽一は言葉を切って、眩しそうに目を細めた。ぎゅっと握り込んだ拳に視線を落とし、淡く微笑んで珊瑚に視線を戻した。
「勢いよく走って行く珊瑚君は、凛々しかったよ」
珊瑚は陽一の淡い笑みを見つめるが、なぜか遠く感じる。
「次走る時は……」
「うん?」
「次は、先生も一緒に走ってください」
「あははっ。あんなに急に走り出すなんて、きっと無理だよ」
「でも、私一人じゃまた力尽きて立てなくなっちゃいますから」
「そうかな? 珊瑚君はもう一人でも立ち上がれるのかも知れないよ」
「無理ですよ。今日だって先生が後から来てくれると思ってたから、ちょっと無茶して走ったんですから」
「あんなに夢中で走ってたのに?」
「そうですよ。私が躓いたら、いつも先生が助けてくれるって信じてますから」
「ははっ。それは責任重大だね」
陽一は頭を掻きながら、困ったように笑った。
「でも、今日みたいに一人で全力疾走するのはもう勘弁してよ。僕の心臓がいくつあっても足りないからね」
「わかりました」
大きく頷き答える珊瑚に、陽一は柔らかな笑みを浮かべた。
「よし、じゃあ飲み終わったらそろそろ本題の買い物へ向かおうか」
「はいっ」
二人は店を回り、旅の買い物を再開した。並んで歩きながら、珊瑚は自分が言った言葉を思い返す。
以前の珊瑚は、一人で人混みを走るなんて絶対にできなかった。帝都に来るまでの道のりでは、他人にビクビクして、人を避けながら過ごしてきた。駅に着いたときはそれも出来ずに、沢山の人に触れてしまった。そのせいで躓き転んで、一馬と出会った。
一馬に肩を叩かれた時、まだ他人から流れる感情が怖かった。けれど、一馬から流れてくる純粋なものに助けられた。
今の珊瑚はどうだろう。陽一からは、初めから何も流れてこなかった。今は少しずつ流れるようになったが、以前までと同じ意味での怖さはない。陽一のことは、その前から信用していたからだろう。
今日、何も考えずに走り出せたのは、陽一が一緒に居たからだ。珊瑚は無意識のうちに、陽一がいれば何とかなると思っていた。
珊瑚の心に大きく立ちはだかっていたはずの壁が、いつの間にかぽろぽろと少しずつ崩れて、消えてしまったのかもしれない。いつ崩れて、陽一を信頼するようになったのか。珊瑚自身にもはっきりとはわからない。
失う怖さが無くなったわけではない。それでも、今の気持ちをなかったことには出来ない。二胡の言った『人の心はままならない』とは、こういうことなのだろう。
考え事をしながら歩く珊瑚は、石畳に爪先を引っかけて、転びそうになった。あっと思った時には、繋がれた陽一の手に支えられて、何事もなかったかのように歩き出す。
「先生、ありがとうございます」
「うん?」
「いつも、私が転びそうになると支えてくれるから」
「いつもって言うほどかな」
「はい。歩いてる時の話だけじゃないですよ」
「ああ、落ち込んだり悩んだりした時ってこと?」
「そうです」
陽一は納得したように頷き、ふっと笑みを浮かべた。
「ちゃんと支えられてるかは自信はないけど。そう思ってくれるなら、回り道しながら何度でも躓いてもいいと思うよ」
「あんまり躓いてると、支える先生も大変ですよ?」
「僕が躓いた時も、珊瑚君は手を貸してくれるでしょう? だからいいんじゃない?」
「……私の手じゃ頼りないですけど」
「そんな事ないよ。僕だって珊瑚君に助けられてるよ。だけど……」
言葉を切った陽一を見上げ、珊瑚は目を瞬いた。
「手を繋いで全力疾走だけは遠慮するよ」
「うっ、わ、分かってますよっ」
「一人で飛び出していくのも無しだからね」
「……わかってます」
声を立てて笑う陽一の笑顔に、さっきまでのような陰りは無くなっていた。手から伝わる明るい気持ちに、さっきまで感じていた遠さが解けていくようだった。




