10-2
三人は一度通った玄関ホールへと戻っていく。大理石の床は窓から差し込む光を受けて艶やかに輝き、そこから二階に向かって両翼のように弧を描く階段が続いていた。木材で出来た手すりは丁寧に磨き上げられ、足元には滑り止めが施されている。
見上げた天井にはシャンデリアが吊るされており、夜には眩い光に一層輝くであろう事が想像出来た。
珊瑚は、自分の住んでいた邸と規模は変わらないものの、随分と凝った内装の物珍しさに目を奪われ、ついチラチラと視線を向けてしまう。さっきの廊下とは違い、玄関ホールの装飾は至極上品だ。
二階へ続く階段を上りきると、そのまま廊下へと進んだ。廊下の右手の窓からは、手入れの行き届いた中庭が見えた。二つ目の扉の前までくると、使用人が立ち止まる。朗が軽くノックをして、その扉を開いた。
部屋の中は、窓が開けられており、初夏の空気が部屋を満たしている。朗に続き、陽一が部屋の中へ入っていった。珊瑚は部屋の主に会うのが怖く思えて、足が重くなる。
窓から少し離れたベッドに横たわっている亜真音は、人形ではないかと思われるほどに整った顔立ちだ。年は陽一より二つ下の二十二歳と聞いている。陽一と並んでも違和感のない大人びた雰囲気だ。何年も眠り続けているとは思えぬほどに血色もよく、頬もふっくらとしている。一見すると、ただ眠っているだけのようだ。もし目の前で起き上がり、歩いたり話し始めたりしても、何の違和感もないだろう。
亜真音の枕元の横に立っていた使用人の女が、陽一に側にある椅子を勧めた。陽一はその丸椅子には座らず、朗に席を譲った。
「左腕を拝見しても?」
「ああ、もちろん」
頷いた陽一は、亜真音の左手に回り、掛布団の下からそっと左腕を取り出した。浴衣の袖をたくし上げ、肘の内側に視線を移す。
「……もうほとんど跡もないですね」
「ああ。ずっと眠っているのにやつれもせず、傷も回復している。我が娘ながら不思議でたまらない」
「この間の電話以来、目を覚ましたりは?」
「いや、あの日一回きりだった。もしかしたら、使用人の見間違いなんじゃないかとも思ったが……」
朗は、その言葉と共に使用人の女を振り返る。
「本当に目を覚ましたんですか?」
陽一の問いかけに、それまで黙って控えていた女が口を開く。
「はい。間違いありません。私も最初は夢でも見てるのかと思ったのですが……。亜真音様は目を開かれて、陽一様のお名前を呼んでいらっしゃいました。奥様もご一緒でしたので見間違いではございません」
「そうですか」
陽一は感情の読み取れない目で亜真音を見据えた。やがて視線を外すと淡々と告げる。
「僕が診ても何も分かる事はありませんね。主治医の指示に従って過ごすようにとしか言えません。ここに来たからと言って、特に様子が変化する事も無いようですし」
「そのようだね。時間を取らせてしまってすまなかった。妻もこれで満足すると思うよ」
「……ならいいですが」
珊瑚は陽一の目に何の感情も浮かばない事を不思議に思う。陽一が大切な人に向ける視線は、こんなにも冷めたものなのだろうか。優しさも怒りも、同情さえも感じない。自分がこの視線を向けられたらと思うと、珊瑚の胸がひりつく様に痛む。それほどに温度を感じさせない視線だ。
なんとも言えない微妙な空気に包まれた部屋の中に、扉をノックする音が響き渡った。そっと開いた扉から顔を覗かせたのは、この部屋へ案内してきた使用人だ。
「なんだ?」
「旦那様、失礼致します。奥様が旦那さまと陽一様にお話があるとの事です」
「神崎さんも同席していいのだろうな?」
「……恐れ入りますが、お二人だけをお呼びするよう申しつけられております」
「珊瑚君を連れていけないなら、僕は行きませんよ」
「そうだな、その様に伝えろ」
「……旦那様、少し宜しいでしょうか」
訝し気に使用人へ近付いた朗は、耳打ちされた言葉に眉をしかめる。
「その話はもうとっくの昔にケリがついた事だろう」
「……奥様にとっては違うのかも知れません」
深くため息を落とした朗は、陽一を振り返り「陽一君もちょっといいかな」と声をかけた。陽一は、眉を寄せて首を横に振る。
「珊瑚君の前で出来ない話なら、僕は聞きません」
「しかし、神崎さんには嫌な思いをさせるかも知れない」
珊瑚はその言葉に、ふと二人の婚約の話かもしれないと思いつく。
「あ、あの、私は別に構いませんので、お話されて来た方がいいのでは?」
陽一は眉を寄せたまま、朗に尋ねた。
「婚約の話ならとっくに無くなったはずです。そもそも僕は最初から断ってましたし。珊瑚君の前でし難い話なら、その事なんですよね?」
「ああ、神崎さんは知ってたのか。なら話は早い。妻はまだ諦めていないようで、陽一君とどうしても話したいと言って聞かないようなんだ」
「僕が行く必要は感じませんね。どうせ進まない話なんですから」
頑として頷かない陽一に、朗は頭を掻いて困った様子だ。珊瑚は二人を見比べて、少しの不安を押し隠したまま陽一に向かって言葉を掛けた。
「先生、行ってきてください。私は大丈夫ですから」
「珊瑚君を一人残して行くくらいなら、今すぐ帰るよ」
「でも、それだとずっとお話の決着はつきませんよね?」
「……放っておけばいいよ」
「ちゃんと話しておかないと、何度も同じことの繰り返しになるんじゃないでしょうか?」
陽一はぐっと言葉に詰まって視線を左右に揺らし、大きく息を吐きだしながら肩を落とした。
「……わかった。行ってくるけど、何かあったらすぐ呼んで」
「お部屋が遠いでしょうから、呼んでも聞こえないのでは?」
「誰かに知らせてくれれば、すぐに戻ってくるから」
「ふふっ。私そんなに頼りないですか? 子供じゃないんですから、大丈夫ですよ」
「……そうだね、分かったよ。少しの間待たせちゃうけど、ごめんね」
「はい。ちゃんとお話ししてきてください」
「わかった」
部屋を出ていく二人を見送った珊瑚は、顎に手を置き考える。
陽一にとって亜真音は大切な人のはずなのに、昔から婚約や結婚を断り続けているのはなぜだろう。さっきの亜真音に向ける視線を思い出すと、本当に大切に思っているのかもよく分からなくなってくる。
腕に傷を作ってしまったから、気持ちを押し殺しているだけなのだろうか。それとも幼馴染として大事だということなのか。
何となく落ち着かずに、かと言って枕元に座る気にもなれなかった珊瑚は、据えられた丸椅子をベッドから少し離そうと座面に手を掛けた。その瞬間、思いもよらぬ方向から伸びた手が、珊瑚の右手首を強く掴む。
目を見開いた珊瑚は、言葉を発することも出来ずに、自分の手首を掴む手をじっと見つめた。ぶわりと汗が滲み出て、恐る恐る手を辿ってその持ち主の方へと視線を這わせる。その先は——。
「あなた、誰?」
静かな声で問われた珊瑚は、瞬きも出来ずに声の主を凝視した。
「陽一の近くで、私の邪魔をしてるのは、あなたね?」
今までずっと眠っていたとは思えない程の力強さで珊瑚の手首を握るのは、美しい人形のような顔を歪ませて珊瑚を睨む亜真音だ。
「黙ってないで答えなさい」
苛立ちを滲ませる亜真音の声に、珊瑚はごくりと喉を鳴らす。背中を走る汗にゾクリと肩を震わせながら、ようやく口を開いた。
「あ、あの、邪魔ってなんの事でしょうか」
亜真音は手首を握る手に更に力を込めて、語気を荒げる。
「私はずっと陽一の全てとあの魔石に留まるつもりなのにっ。最近あなたの魔力が邪魔をして、魂がこちらに戻ってしまうのよ。あなた、私たちの邪魔をするのは止めなさいっ」
「私の魔力が邪魔を……?」
「そうよっ! あのオパールから弾かれるのよ。あなた邪魔なのよっ。私と陽一の結びつきを解かないで!」
「そ、そんなことを言われても、どうしたらいいのかわかりません」
必死で返す珊瑚に、亜真音は更に苛立ちを顕にする。
「陽一から離れなさいよっ。今でも陽一はあのカメオを大切に肌身離さず持ってるんでしょう?」
「は、はい。でもっ」
「それなら、邪魔者はあなたの方だって、わかるでしょう?」
「……でも」
「なによ」
珊瑚は震えそうになるのを堪え、亜真音を真っ直ぐ見返した。
「亜真音さんは、先生の気持ちをずっと縛り付けて閉じ込めるつもりなんですか?」
「そうよ。それが何?」
「そんなの、先生の事を本当に想ってるって言えるんでしょうか?」
「……あなたに何が分かるの? 私と陽一との事は、私たちにしかわからない事よ。余計な口出ししないで。ずっとあのオパールに陽一と留まれるはずだったのに、とんだ邪魔者が現れたものだわ。最近何度も魂が身体に戻ってくるから、おかしいと思ってたのよ。この魔力に間違いないわ。もうこれ以上邪魔しないで」
「痛っ」
更にきつく握られた手首が痛みを増し、珊瑚は思わず声を上げた。思わずぎゅっと目を閉じた瞬間、手首にかかっていた力がふっと抜ける。ぱたりと音を立てて落ちた亜真音の手を見て、今のは夢では無かったのだと実感した。背筋を伝う汗に身体がぶるりと震える。
手首を握られた瞬間から伝わって来た、憎悪や苛立ち、怒りの感情に当てられ気分が悪い。それでも珊瑚は亜真音に言い返した。どうしても言わずにはいられなかったのだ。
しんと静まり返った部屋の中で、珊瑚がベッドの横に膝を付いて崩れ落ちると、それまで静かだった使用人が「亜真音さまっ!」と声を上げて走り寄る。亜真音の手を握り締めて何度も名前を呼ぶが、彼女が再び目を開くことは無かった。
使用人の亜真音を呼ぶ声に、慌てて戻ってきた陽一は部屋を見回し、珊瑚に目を留めると駆け寄ってきた。
「珊瑚君っ。何があった? 大丈夫?」
珊瑚はまだどこか夢の中のような気がして、呆然と陽一を見上げた。その様子に何かを察した陽一が珊瑚の肩に手を置くと、珊瑚の中から亜真音の感情が霧散する。
「せ、先生……」
「珊瑚君、どうしたの?」
「亜真音さんが……」
「亜真音に何かあった?」
「あ、亜真音さんと、話しました」
「話した? 亜真音が目を覚ましたの?」
「はい。さっき、少しの間ですが」
「そう……。それで、珊瑚君はどうして座り込んでるの?」
「あ、えと、少し驚いたので」
「立てる? 手を貸すから取り合えず椅子に移動しよう」
そう言って差し出された陽一の手に、珊瑚は無意識に自分の手を重ねた。そのとき、陽一が息を吞む。
「珊瑚君っ。この手はどうしたの?」
珊瑚は、はっとして重ねた手を引き抜き、もう片方の手で覆いながら胸元に引き寄せる。
「とりあえず手当をしたいからその手を診せて」
青褪めて口を引き結んだ珊瑚は、躊躇いがちに手を差し出した。
「随分強い力で握られたんだね。痛かったでしょう……。幸い引っかかれたりはしてないみたいだけど、とにかくすぐに冷やそう」
陽一は言うや否や、持ってきていた荷物の中から手早く湿布と包帯を取り出した。珊瑚の手首を気遣いながら、丁寧に手当てをする。
いつの間にか駆けつけていた月音が、亜真音の枕元で膝をついて声を掛けているのが目に入った。陽一の後ろからは、そっと朗が歩み寄ってくる。
「神崎さん、怪我を負わせてしまったようで、すまない。傷の具合は酷いだろうか?」
「い、いえ、大丈夫です。少し赤くなっただけですから」
「いや、大分強い力で圧迫されてるから、しばらく動かすと痛みが出ると思う」
「……そうか。娘がやったのだね。申し訳ない」
「いいえ、私は大丈夫です」
ちらりと亜真音を振り返ると、月音がまだ亜真音に呼び掛けている。
陽一に無事な方の手を取られて立ち上がった珊瑚は、朗と陽一に促されて別の部屋へと移動した。さっき上ってきた階段を降り、ホールを通って最初の部屋へと向かった。
応接室でソファーに腰を下ろし、使用人の入れた紅茶を飲みながら、朗が落ち着いた声で珊瑚に問いかけた。
「娘は、目を覚ましたんだね?」
「はい」
「何か話したのかな?」
「……はい」
「どんな話を?」
そこで珊瑚はどう話したらいいのか迷い、陽一の様子を窺った。この家の人間が陽一の感情を奪われた事について知っているのか、事前に聞いていなかった。そのため、どこまで話していいのか珊瑚には判断が付かない。
その様子に気付いた陽一は、珊瑚に向かって曖昧に微笑んだ。この様子だと、詳しく話してはいないようだ。
珊瑚は慎重に言葉を選びながらゆっくり答える。
「亜真音さんの眠りを、邪魔しないようにと言われました」
「邪魔……というと、何が邪魔だと?」
「私のせいで、度々目が覚めるというような事をおっしゃってました」
「目を覚ましたくないから、君が邪魔という訳かな?」
「はい。そう言われました。……夢の中で先生と一緒に居るつもりだったのに、私のせいで目が覚めて、それが叶わないそうです」
「では、亜真音は自らの意思で目覚めないと言っていたの?」
「はい。大体そのような内容です」
「そうか。……そうだったのか。ありがとう、神崎さん」
「い、いいえ。私は何も……」
大きく息を吐きだした朗は、陽一と珊瑚に向かって口を開く。
「亜真音が自らの意思で目覚めないというなら、もう帝都にいても意味がないだろう。帝都の医師でなくとも経過は診て貰えるだろうし、寝たきりなら静かな場所の方がいいしね。月音も遠い田舎の方が陽一君に迷惑を掛けないだろうから」
「別邸に移るんですか?」
「ああ。もうずっと何年も迷ってたんだ。もしかしたらと目覚めを待っていたんだが、どうやらその必要はないようだ」
「そうですか」
「今後目が覚めようが、そのままだろうが、もう陽一君に連絡することもない。それでいいね?」
「はい、構いません」
珊瑚は思わず陽一を見上げた。陽一は珊瑚を見下ろして、笑みを浮かべる。
「では、僕らはそろそろお暇します」
「ああ。時間を取らせてすまなかったね。神崎さん、後でお詫びをするから断らないでほしい」
「え、いえ、あの」
「珊瑚君、こういう時は素直に受け取った方が後腐れなくていいんだよ」
真剣な顔で諭してくる陽一に、珊瑚は目を瞬かせる。
「ははっ、陽一君は余程うちと縁を切りたいと見える」
「さあ、そこまではっきりとは言いませんけど」
肩を竦めた陽一は、否定の言葉を口にしなかった。




