9-5
『珊瑚は意固地だなぁ』
『そうねぇ、結構頑固よねぇ』
一悟と二胡が、呆れたように珊瑚に向って話しかける。
『珊瑚が悪いなら俺たちも同罪だって言ってるのにな』
『珊瑚ちゃんは、私たちも悪いって言いたいのかしら』
「そ、そんなつもりじゃないよ」
『でも、同じ意味だから心に留めておけっ』
『……一悟、そういう言い方は止めなさい』
珊瑚は首を傾げて二人を見つめた。
『ま、まあ、とにかく先生は珊瑚を恨んでない。よかった』
『それに、確かに罪悪感を持たずに過ごせたっていうのはよかったのかもね』
「……そうかな? それって不自然な事だよね?」
『まあ、そうだけど、俺だったらその方が楽だな』
『時間が経たないと解決しない事もあるものね。その前に心が壊れてしまったら辛いもの』
「でも、よかったとは言えないよ」
『俺だったら、よかったって言われたいとは思わないけど、気に病んで欲しいとも思わないけどな』
『そうね。自分のせいで罪悪感に苛まれてるなんて思ったら、逆にしんどいかもね』
「私、先生の負担になってる?」
『いや、別に負担って事じゃないだろ』
『珊瑚ちゃんを心配してくれてるとは思うけれど』
珊瑚は片手の拳を顎に当てて、眉を寄せながらしばし考える。
「二胡ねえの言う通り、気持ちって難しいね」
『おおっ、珊瑚が成長してるぞ』
『ふふっ、そうね。人と関わって色んな気持ちを知って、皆そうやって成長していくものよ』
「お母さんと二人の時は、そこまで複雑な気持ちなんて知らなかった。ここに来て、色んな感情を受け取ったり、教えてもらったりしたけど。自分の気持ちすら難しいなんて知らなかった」
珊瑚は一悟と二胡を交互に見ながら口を開く。
「ねえ、もし優しくしてくれることが、自分への同情だけだったら……それでも嬉しいって思っていいのかな?」
『……』
「この目が何なのか分かってそれが無くなった時、全部失くしちゃうのかなって思うと怖いよ」
『……』
「今まで知らなかった物を知って、自分にとって大切な物だと思えば思うほど、それが怖い」
『珊瑚、お前……よかったな』
『そんなに大切に思ってるのね』
「よかった……のかな?」
『よかったに決まってる。今までの珊瑚は、母さんと俺たちだけだったからな』
『そうよ、珊瑚ちゃん。失うのが怖いって思えるほど、大切だと思える人に出会えてよかったわ』
「そうかな? そう思っていいのかな?」
『いいに決まってる』
『そうよ。まだ失うって決まった訳じゃないわ。それに……誰にだって別れは必ず来るものだから』
「そう……だね。うん。ちゃんと大切にする」
珊瑚の言葉に一悟と二胡が柔らかく微笑んだ。珊瑚も二人を見て頬を緩めると、夢の終わりがやってくる。『またな』『またね』と二人の言葉が優しく響いて耳に残って。
夢から覚めた珊瑚は、胸元から引き出したネックレスをそっと握りしめた。
一悟と二胡の夢のお陰で、珊瑚は一日を大切に思いながら過ごす。午前中の診療時間は、今まで以上に患者さんとの遣り取りにも気持ちが籠った。ここで出会った全ての人との関りが、珊瑚にとっては宝物のようだ。いつか別れが来るとしても、それは珊瑚の心に残る。そう思うと日常が尚愛おしい。
そんな珊瑚は、突然陽一から思いがけないことを言われる。
「えっ。お昼を食べてからすぐですか?」
「そう」
「私が食堂へ?」
「うん」
「何をしにですか?」
「女将さんが協力してほしい事があるって」
珊瑚は眉を寄せて更に尋ねた。
「本当に私にですか?」
「そうだよ」
「診療所のお仕事はいいんですか?」
「まあ、居てくれた方が助かるけど、今日の午後だけなら何とかするよ」
「……わかりました」
珊瑚は自分が居なくても大丈夫だと言われて、ほんの少し落ち込んだ。確かに大して役に立ってはいないだろうが、居なくても困らないというのは一抹の寂しさを感じる。
昼食の片付けが済み、女将の所へ行こうと思った矢先に、診療所の扉が開いた。
「よっ、珊瑚ちゃん」
「篠塚さん?」
「これから食堂行くんだろ?」
「はい。どうして知ってるんですか?」
「陽一が、珊瑚ちゃんが居ないから暇なら手伝えって言ってきたんだよ」
「そうなんですか?」
「聞いてないの?」
「何も聞いてません」
「ふーん?」
「なんですか?」
「いや、別に?」
むすっとして黙り込んだ珊瑚に、涼介は噴き出しながら珊瑚の頭をくしゃくしゃと撫でる。
「ちょっ、篠塚さん! いつもそれするのやめてくださいよっ」
「あはは、だって珊瑚ちゃん、なんかいじけてるみたいだったから」
「もうっ。女将さんの所に行かなきゃいけないのにっ」
不服そうに涼介を睨み上げる珊瑚の後ろから、陽一の手が伸びてきて涼介の手を叩き落とした。
「いてっ」
「……涼介、お前珊瑚君をおもちゃにするな」
「人聞きの悪い事を言うな」
不機嫌そうに目を細めた陽一が、腕を組みながら涼介を見据える。
「最低限、珊瑚君並みには役に立ってもらうからな」
「うわっ、俺は助手に向いてないぞ?」
「知るか。ちゃんと穴を埋められない時は、罰として今夜こそディナーだな」
「げえ、俺今日も持ち合わせが……」
二人の会話を聞きながら、心の軽くなった珊瑚はくすくすと声を立てた。
「じゃあ、先生、篠塚さん。行ってきますね」
「おう、いってこい」
「うん。珊瑚君、行ってらっしゃい。楽しんでおいで」
「楽しむ?」
女将の用事が何であるか知らない珊瑚は首を傾げた。
「行けばわかるよ」
そう言って微笑む陽一を見上げて、首を傾げたままの珊瑚は、「行ってきます」と診療所の扉を潜った。
歩いてすぐの食堂に着くと、準備中の札が掛けられている。すでに昼の営業は終わり、休憩時間に入っているようだ。躊躇いがちにそっと扉を開き、窺うように店内を覗き込む。
「珊瑚ちゃん、いらっしゃい」
「こんにちは」
普段と変わらぬ柔和な笑顔の女将が、食堂の拭き掃除をする手を止めて珊瑚を振り返った。
「来てくれてありがとう。若い女の子に手伝って欲しかったから助かるわ」
「あの、一体何をすれいいのでしょうか?」
「うふふ。取り合えず上がって」
招かれた珊瑚は、食堂のいつもは入れない中へと続く通路の暖簾をくぐる。
奥へ進むと居住スペースになっており、ブーツを脱いで畳の敷かれた部屋の中へ招かれた。そこからさらに襖の奥へ進むと、全身が映る姿見の置かれた部屋に辿り着いた。
「遠慮しないで、こっちに来てちょうだい」
「……あの、ここで何をするのでしょうか?」
「まあ、ちょっとこれを見て欲しいのよ」
女将は布の掛けられた、胸の高さにある謎の物体の前まで移動する。スルスルと布を避けると、中から出てきたのはハンガーに吊るされた数着の洋服だ。
「うわぁ、素敵……」
服を見つめる珊瑚は目を輝かせて釘付けになった。その様子に頬を緩めた女将が口を開く。
「実はね、知り合いが自分のお店の制服を新しく洋装にしたいのですって。それで若い女の子の意見が聞きたいから、誰かいないかって頼まれて」
「えっ、わ、私では参考にならないのでは……」
「どうして? 若くてかわいい女の子だから、参考になるわよ」
「あの、そのお店で実際に着る方々に伺った方がいいのでは?」
「それも考えたみたいなんだけどね。それぞれ好みが違うから、ちょっとした喧嘩になっちゃったみたいなのよ」
「困ったものよねぇ」と笑う女将は、なんだか嬉しそうで困った風には到底見えない。
「でも私、洋装はした事が無くて、お役に立てるかどうか……」
「あら、それがいいのよ! 慣れてない子でも自然に着こなせて、きちんと動ける事が条件だから。珊瑚ちゃんは助手のお仕事もしてるし、家事もするでしょう?」
「はい」
「それなら、見た目だけじゃなくて動きやすさもわかるわよね?」
「……なるほど、その点ならお役に立てるかも知れません」
「それに、慣れてない子でも脱ぎ着が簡単か分かりやすいからちょうどいいのよ」
「そうですか。それなら喜んでお手伝いします」
頬を上気させる珊瑚は、実は洋装に挑戦できる事が楽しみで仕方ない。
「じゃあ、まずはこれを着てみましょうか」
女将が選んだのは、黒のワンピースに白いレースのあしらわれたエプロンの制服だ。
「は、はい」
「難しくないから、一緒にやりましょう」
「お願いします」
女将は「ウエストはこのくらね」やら「肩幅は、これでいいわね」などと言いながら手早く洋服を着せてくれる。着替えを手伝ってくれる女将の触れる手から流れてくるのは、何とも楽し気で温かな気持ちだ。心の底からワクワクしているのが伝わってくる。その気持ちに珊瑚の胸も自然と弾む。
ワンピースに最初は少し戸惑ったが、着方はとても簡単だった。着替えた服をじっくり見下ろした珊瑚は、不安を覚えておずおずと姿見を覗き込む。本当に自分に似合っているのだろうか――。
そこに映るのは、黒いパフスリーブのワンピースに、白いエプロン姿の自分だ。襟にレースがあしらわれ、パフスリーブは肘の上で腕に沿うように細くなり、袖口は白い折り返しになっている。上から着ている真っ白なエプロンにも、肩や襟元、裾の部分にもレースが施されていて何とも可愛らしい。腰を絞ったロング丈のスカートにはプリーツが入り、裾に向かって広がっている。試しにくるりと回ってみると、スカートが軽やかに広がった。
「とっても似合うわ」
恥ずかしそうに鏡を覗き込む珊瑚を見ながら、女将が目を細める。
「あ、ありがとうございます」
顔を赤らめた珊瑚は、目を逸らして俯いた。
「ふふっ。珊瑚ちゃん、洋装もとっても素敵よ。それに、サイズもピッタリでよかった」
「あ、そう言えば、洋服はサイズがありますよね。偶然にもピッタリでホッとしました」
「え、ああ、そうね。本当に」
いそいそと洋服の吊るされた方へと向かった女将は、次の服を選んで珊瑚に見せる。
「じゃあ、次はこれに着替えてみましょう」
女将が手に取ったのは、クリーム色のセーラーワンピースだ。濃紺の襟元には一本の白いラインが入り、スカートのプリーツは先ほどより幾分太い。ウエスト部分は少し幅の広いベルトで引き締められ、スカートが裾に向かって広がっている。袖と裾に紺のラインが入り、アクセントになっている。制服といえば制服だが、飲食店にはどうなのだろうかと疑問に思いつつも、かわいらしいデザインに珊瑚の胸が期待に膨らむ。
「これも可愛いわね」
「本当に、とっても可愛い服ですね」
「ふふっ、お洋服も可愛いわね」
浮きたつ気持ちで頼まれたことを忘れそうになっていた珊瑚は、はっとして体を動かし始める。
「これも、動きやすくてお仕事向きだと思います」
「そう、これもぴったりね」
女将は口に手を当てて上品な笑みを浮かべた。
「じゃあ、今度はこっち」
そう言って女将が手にしたのは、淡いブルーのワンピースだ。オフホワイトの丸襟に控えめな刺繍で模様が入っている。ウエストは細いベルトで絞られており、裾に向かってスカートがふわりと広がる。珊瑚は鏡に映る自分を見つめて、頬を綻ばせた。
「これが一番気に入ったのかしら?」
「あっ、すみません、お手伝い中に」
「ふふっ、いいのよ。今までのと比べてどう?」
「はい、着心地がいいのはもちろんですけど、少しは大人っぽく見えるのかなって」
「一つ前のは、ちょっと子供っぽいかしら?」
「いえっ、とても可愛らしいと思うのですが、いかにも学生といった感じがして。……働く女性のイメージとは少し違うのかと思ったので」
「そう。珊瑚ちゃんはもし自分が着るとしたら、どれが一番好きかしら?」
「……これが一番好きです。あ、でもお仕事をするなら一番最初に着たものの方が向いてると思いますっ」
「そう。ありがとう。色々見てみたかったから、とても参考になったわ」
「お役に立てたのならよかったです」
ホッと胸を撫で下ろした珊瑚は、一生縁の無いと思っていた洋装が出来た事に感謝する。この先着る機会があるとも思えないが、いい経験になったし思い出にもなった。こんな機会をくれた女将にも、仕事を休む許可をくれた陽一にも、手伝いに来てくれた涼介にも、感謝の気持ちでいっぱいだ。
笑顔で見送る女将に別れを告げて、珊瑚は上機嫌なまま診療所の扉を開く。
「ただいま戻りました」
その声に、奥から顔を覗かせた陽一が「おかえり」と笑顔で迎えた。その後ろから出てきた涼介も、片手を挙げて「おかえり」と笑う。
珊瑚はここが帰る場所だと言われた気がして、その事にも嬉しさが込み上げた。もう一度かみしめる様に「ただいま」と微笑む珊瑚に、涼介が目を見開いて陽一に視線を移す。
「なんだよ、涼介」
「え、珊瑚ちゃんてあんな風に笑うようになったのか?」
「……ちょっと前からあんな感じだけど」
「へえ~、随分自然に笑うようになったな」
そんな二人の会話が聞こえていない珊瑚は、「なんの話ですか?」と二人に近寄り見上げる。
「楽しかったみたいだね」
陽一に尋ねられた珊瑚は、「はい」と微笑みながら答えた。
「先生、お休みを頂きありがとうございました。篠塚さんも、お手伝いありがとうございました」
ぺこりと頭を下げる珊瑚に、陽一と涼介は「楽しめたならよかった」と笑顔で返した。
「それで、珊瑚君はどんな服が……」
陽一が珊瑚に言葉を掛けている途中で、発明品置き場の電話の音が鳴り響く。
「ごめんね、ちょっと出てくるよ」
そう言って小走りで電話へ向かう陽一の後を、涼介と小声で話しながらついていく。
部屋に入ると、電話に向かって話しかける陽一の様子がいつもと違う。顔は青ざめて、受話器を持つ手が微かに震え、指先が白くなっている。
珊瑚と涼介は顔を見合わせ、探るように陽一に視線を向ける。
「ええ……。はい。……それで、亜真音が目を覚ましたってことですね?」
その言葉に珊瑚は目の前が暗くなる。頭を殴られたようなショックを受けたが、自分がなぜそんな気分になるのかは分からない。胸がざわつき、一歩でも動けば崖の下に落ちてしまうのではないかと感じ、立っている足元が急に頼りなくなるような錯覚に陥った。




