9-4
話を聞き終えると、瑞穂を家まで送る事にした。涼介は翌日朝から出勤なので、そのまま家に帰っていった。一方陽一と珊瑚は翌日が休診で、朝もゆっくり出来る。瑞穂が恐怖を感じないとはいえ、夜道の一人歩きの危険が無くなる訳ではない。
他愛ない話をしながら歩いて居ると、大学病院を通り過ぎて少し裏に入った道に出る。ふと足を止めた瑞穂が、珊瑚と陽一に視線を向けた。
「ここです」
「え?」
「ここで、静人が……」
そう言って視線を向けた先は、静人の倒れた場所だろうか。今は何の跡も残っていないが、珊瑚はその場所に視線を送ると背筋がゾクゾクする。ふと気になって陽一を見上げると、なんの感情も映さない目でその場を眺めていた。
珊瑚は初詣の時の陽一を思い出し、胸の奥がギュッとなる。不安げに見上げる珊瑚に気付いた陽一は、視線を合わせて淡く微笑んだ。
「私、ここに来ても寂しいだけで、やっぱり怖くないんです」
そう言った瑞穂は、眉を下げて切なげに目を細めた。
「受け入れたらこんな事にならなかったのかな……」
「そんな事はないですよ」
間を開けずに否定する陽一の言葉に、瑞穂は目を瞬いた。
「自分の気持ちに嘘を吐いても、長くは続きません」
「そう、……そうですね」
「その時受け入れられないって思ったんですよね?」
「はい」
「なら、断ってよかったんですよ。無理して自分の気持ちを誤魔化しても、どちらも幸せにはなれません。僕はそう思います」
少しの間静人の居たであろう場所を見つめていた瑞穂は、視線を上げて「そうね」と儚げに微笑んだ。珊瑚の胸はズキズキと痛んで、それが瑞穂の笑顔のせいなのか、陽一の言葉のせいなのかは分からなかった。
何となく二人から一歩遅れ、珊瑚は俯き加減で後ろを歩いた。それに気付いた陽一が、振り返って珊瑚に声を掛ける。その声に顔を上げた瞬間、横の暗がりから不気味に擦れる音がして、小さな黒いものが勢いよく飛んできた。
驚いた珊瑚は「わっ」と叫んで思わず飛び退き、瑞穂にぶつかった。瑞穂は珊瑚を後ろから支え、黒い塊に視線を移す。珊瑚の心臓は恐怖と驚きにドクドクと脈打った。珊瑚が触れた時、瑞穂から一瞬何かが湧き出そうになって、すぐにプツリと途絶える。
一瞬置いて瑞穂からじんわり温かな気持ちが流れてきて、何事かと瑞穂を見上げると、華やかな笑顔が目に飛び込んできた。頬を赤くして見上げる珊瑚に、瑞穂はますます柔らかな笑みを浮かべた。
「あはは。可愛い女の子に、可愛いものがくっついてるね」
そう言われて自分の腹を見ると、猫が一匹しがみついている。驚いた珊瑚が手を伸ばす暇もなく、猫はアッという間に走り去る。さっきの黒いものは、あの猫だったようだ。逃げた猫を追いかけるように、もう一匹の猫が飛び出していった。
「す、すみません」
支えられた珊瑚は慌てて瑞穂から離れ頭を下げた。
「ううん、大丈夫。急に暗がりから出てくるから、驚いちゃったよね」
「は、はい」
「こんな場所であんな事があったら、前なら怖かったんだけど。……私、本当に何も怖くないんだなって」
そう言って眉を下げる瑞穂に、珊瑚は何の言葉も掛けられなかった。
無事に瑞穂を送り届けた二人は、来た道を戻り診療所へ帰り着いた。それぞれの部屋へ戻り、珊瑚は寝支度を整えた。
ベッドへ入り寝ようと目を瞑るのだが、胸の奥がざわついて眠気が一向に訪れない。どうしようかと逡巡するが、考えていても仕方がないと勢いよく起き上がった。
そっと音を立てないように部屋を出た珊瑚は、一階へ足を進める。ゆっくり発明品置き場の部屋に近付くと、やはり部屋の明かりが漏れていた。
控えめにノックをすると、中からゴトリと音がして、慌てたように扉が開く。
「珊瑚君っ? こんな時間にどうしたの」
扉を開けに来た陽一は、少し焦ったような表情だ。
「えと、ちょっと喉が渇いて眠れなかったので……」
そう言って俯く珊瑚の肩に、陽一が椅子に置いていた薄手の上着をそっと掛けた。
「す、すみません」
「夜はまだ冷えるから、風邪でも引いたら大変だ。それよりそこに座って」
いつもの席に珊瑚を促した陽一は、自分も飲んでいた緑茶を珊瑚に淹れる。
「ありがとうございます。頂きます」
お茶を飲むのを見つめていた陽一は、珊瑚が湯呑を置くと溜息を零した。
「ごめんね、珊瑚君。心配してくれたんでしょう?」
ぎくりと肩を揺らした珊瑚は、何と答えていいのか分からず下を向いた。
「前みたいにはならないから、大丈夫だよ」
その言葉に顔を上げると、穏やかな笑顔を浮かべた陽一と視線が合う。
「先生も眠れなかったんですよね?」
「まあ、少し思い出したからね。でも、初詣の時みたいに情けない事にはならないよ」
「情けなくなんかないですよ。想像しただけで……話を聞いただけで、私だって怖いです」
「……そうだね」
陽一は、思い返すようにして口を開いた。
「さっき珊瑚君は、また何か考えて暗い顔してたの?」
「いつですか?」
「……僕が、嘘を吐いて受け入れても、長く続かないって言った時かな」
珊瑚は口を結んで黙り込んだ。自分でもどうして一歩遅れたところを歩きたくなったのか、説明できないからだ。前に二胡の言っていた『人の気持ちはままならない』とは、こういうことも指すのだろうかと首をひねった。
「また、自分には分からないと思って落ち込んだ?」
「え?」
陽一の言葉に珊瑚は目を瞬いた。
「僕も緑丘さんも同じような経験をしてるからね。なんとなく置いてかれたみたいで寂しかったとか?」
「そう、……なのでしょうか」
珊瑚はそれも少し違う様な気がした。どちらかと言えば、陽一の言葉に引っかかったような気がする。
「自分でもよくわからない?」
「今まで感じたことのない気持ちばっかりで、よくわかりません」
「そっか。まあ、自分でも説明できないものって誰にでもあるよ」
一人納得した様子で、陽一がうんうんと頷いた。
「でも最近の珊瑚君は、色んな人と随分自然に話せるようになったよね」
「そうでしょうか」
「うん。涼介にも冗談飛ばせるようになったからね」
「篠塚さんの場合は、そう仕向けてくれてる気がしますけど」
「あはは。あいつ、そこまで考えてないよ。直情型だから」
笑いを漏らした陽一が、軽い調子でそう言った。珊瑚はふと陽一と涼介が正反対の性格だなと考える。そしてさっきのことがふと頭に浮かんだ。
陽一は、嘘を吐いても長く続かないと言っていた。では、陽一はどうなのだろうか。亜真音のことが大切なのに、なぜ結婚を断ったのだろう。
「珊瑚君は、やっと人に接することに慣れてきたばかりだよね。今まで経験したことないことも多くて、知らない気持ちもまだ沢山あると思う。戸惑うことも多いだろうけど、きっと全部珊瑚君の糧になるよ」
ふっと珊瑚の思考が途切れ、やっぱり考えてみてもよくわからないと思い直した。全部が糧になるのなら、いつかこれも分かる日がくるのだろうか。
「……はい」
「偉そうな事言ってるけど、僕も自分の気持ちを押し殺してた分、わからない事も多いから。珊瑚君とは似た者同士だね」
そう言って笑う陽一の顔を見ながら、珊瑚は自分が心配されていたのだと気付いた。陽一が心配で来たはずなのに、自分が励まされてしまった。
「よし、じゃあ、今日はここの発明品の中からどれを使おうかな」
「えっ? 今からそんな危険な事を」
「酷いよ珊瑚君、まるで僕の発明品を危険物かのように!」
「先生、包帯事件をお忘れですか?」
「ぐっ、珊瑚君、あれはわざと問題点のある物を使っただけで」
「問題点の無い発明品って、この部屋にあるんですか?」
「す、鋭いね。正直言って……無い」
問題だらけの未完成品しかない、陽一の発明品置き場をぐるりと見まわした珊瑚は、クスリと笑みを零した。
「でも、私この部屋結構好きですよ」
「そう言ってもらえると嬉しいね」
陽一の誰かに笑って欲しいという願いを込めて作られる発明品たちを見ながら、自分に似ているなんて失礼だったかなと珊瑚は思う。ここの発明品のように、珊瑚は誰かを笑顔に出来るだろうか。それすら出来なければ、ただの無くても困らないものになってしまう。珊瑚はここに居る間に、せめて身近な人を笑顔に出来る日が来ればいいなと思う。
「先生、ありがとうございます」
「え?」
「今日の帰りの事、心配してくれてたんですよね?」
「あはは。それは珊瑚君の方でしょ? ありがとね」
「ふふっ。なんだか前にもありましたね、こんな事」
「……ああ、最初の頃に。珊瑚君のお礼に一馬がお返しをして、巡り巡ってずっと続く縁てやつだね」
あれは、珊瑚がここで助手になると決まった翌日だ。一馬が来て、珊瑚が急いで作ったおにぎりを一馬に渡した時だった。
『珊瑚、弟の分までありがとなっ。今度お礼に約束した帝都を案内するから、楽しみにしといて』
『ふふっ。そうしたらまた私もお礼をしなくちゃですね。いつまで経っても終わりがきませんよ』
最後に陽一がこう言ったのだ。
『縁ってそうやって続いていくもんなんじゃない?』
あの時は漠然とそんな日が続けばいいと思った。今は、切実に願ってしまう。きっと叶わないと思うのに。
「先生、上着もありがとうございました」
そう言って珊瑚が上着に手を掛けたところで、突然ドクりと心臓が嫌な音を立てた。冷や汗が額に噴き出し、激しい頭痛に襲われる。頭を締め付けられて何かで殴られているかのような痛みだ。膝から崩れ落ちるようにして座り込み、両手で頭を抱え込む。
「珊瑚君っ!」
陽一が机を回り込んで珊瑚の元に駆け寄るが、瞳を揺らした珊瑚の目は虚ろだ。
(痛い痛い痛い痛いっ! 苦しい。どうしてこんなに痛いんだろう。どうしてこんなに……)
気が遠くなりそうになるが、陽一に支えられ、その手から伝わる体温と感情に、ほんの少し息を吸うのが楽になる。
「珊瑚君っ! 息をしっかり吐いて」
陽一の言葉が耳に入るようになり、珊瑚は必死で息を吐く。吐いた息を一気に吸い込み、勢いをつけすぎて咳き込んだ。
「珊瑚君、落ち着いて。ゆっくり吐いて、ゆっくり吸って」
しばらく咳き込んだ珊瑚は、それでも陽一の言葉に合わせてゆっくり呼吸をする。そうしてしばらくやり過ごしていると徐々に頭痛は収まり、額と背中の冷や汗だけが冷たく残る。
「せ、先生、すみません。ありがとうございます。もう、大分落ち着きました」
「ゆっくり立てる?」
そう言って手を貸した陽一が、珊瑚を元の椅子に腰かけさせた。「今は水の方が飲みやすいかな」と呟き、冷えた水を持ってきた。一息に飲もうとすると、ゆっくり飲むよう促された。
落ち着きを取り戻した珊瑚は、陽一を見上げて口を開いた。
「先生……。今回はどんな色でしたか?」
「……赤味の強い紫だった」
「それは、どの感情ですか?」
「……柴村さんと同じ、不安だよ」
「そうですか……。きっとまた誰かの感情から、不安が消えてしまったんですね」
「珊瑚君のせいじゃない」
「……」
「珊瑚君?」
「大丈夫です。すみません」
珊瑚はぶるりと身震いして、陽一の上着をぎゅっと握りしめる。
俯き加減の珊瑚の頭に、徐に陽一が手を乗せる。
「……先生、何を迷ってるんですか?」
「うーん、この後どうやったら涼介みたいに出来るかなって」
「どういう意味ですか?」
「いや、この間のあれ」
「……まさか」
「うん……珊瑚君の頭を鳥の巣みたいにするやつ」
珊瑚は顔を上げて陽一の手から逃れるように椅子から飛び上がり、両手で頭を押さえつけた。
「せ、先生までやめてくださいよっ!」
「あはは、だってあれで珊瑚君が元気になったから」
「べ、別に、鳥の巣になったから元気になった訳じゃないですからっ」
「でも、思い出すでしょう?」
「思い出したくありませんっ!」
頬を染めて陽一を上目遣いで睨む珊瑚の様子に、陽一は心底おかしそうに笑った。
「あはははっ、珊瑚君。あれは忘れたくても忘れられないよ」
目尻の涙を拭きながら尚も笑う陽一を恨みがましく睨むが、珊瑚は本気で怒っている訳ではない。
(先生は、いつもこうやって気持ちを軽くしてくれるけど……)
「……珊瑚君、すぐに考えは変わらないだろうけど」
「え?」
「少なくとも僕は、珊瑚君を加害者だなんて思わない。僕の時にもあんな風に苦しかったのかなって思うと余計にね」
「……」
「僕も最近、少しだけ罪悪感が湧くんだよ」
「どういう事ですか?」
「今日、緑丘さんが言ってたでしょ? 受け入れたらこんな事にならなかったのかなって」
「はい」
「あれは、僕も少し考えたんだ。亜真音に違う答えを出してたらあんな事にはならなかったかも知れない。僕も感情を奪われたけど、亜真音は今も目覚めない。それは僕のせいかなって。感情を奪われてからあんまり分からなかったけど、最近思い出すと罪悪感が湧いてくる時があるんだ」
「そんなっ、先生のせいじゃ……」
「珊瑚君も含めて、周りの人はそう言ってくれるけど、なかなか割り切れるものでもないよね」
珊瑚は眉を下げて口を結んだまま何も答えられなかった。
「でも、嘘を吐いて受け入れても意味がないってのは、緑丘さんに言った通り自分でも分かってる。ほんと、自分の気持ちなのにままらないよね」
そう言って肩を竦める陽一に、珊瑚は眉を下げて頷いた。
「まあ、僕の場合感情が奪われてよかったこともあったけどね」
「……どういう事ですか?」
「あの当時から罪悪感があったら、医者の道を目指すことが出来たか分からないから。感情が抜け落ちて、罪悪感も湧かなくて、なんとなく自分も悪いんだろうなとは思ってたけど。感情が湧かない分、冷静に色々考える事も出来た。時間が経って、今だからこそ罪悪感が湧いても、やっぱり答えは変わらないって事ははっきりしてる」
「そう……ですか」
「うん。だから、少なくとも僕に関しては、珊瑚君が罪悪感を持つ必要はないよ」
それでも珊瑚は素直に頷くことが出来ず、複雑な気持ちで首を少し傾げた。
「すぐに納得出来なくてもいいよ。でも、心に留めておいて」
その言葉には素直に頷いた珊瑚を見て、陽一は満足そうに頷いた。




