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それからも同じような事が何度も続き、瑞穂の違和感は更に増していく。元々恋愛感情は抱いておらず、帝都でやっと出会えた気の置けない友人――そのはずだった。だから、友人として相応しい距離感を守っているつもりだった。
喜びに溢れる時も、悲しみに沈む時も、抱きついた事など一度もない。手を繋いだことすらなかった。それなのに、いつの間にか心の距離を少しずつ詰められている気がしてならない。
「瑞穂。これ、受け取って」
「……なあに?」
静人が手にしていたのは、深い緑の石が使われたブローチだ。シルバーの台座には精緻な細工が施され、緑の宝石の周りはきらきらと光る透明な石が散りばめられている。台座は小さなバラの花と、そこから延びる蔓と葉がカーブを描き、華やかな容姿の瑞穂に良く似合う。
「こんな高そうなもの、貰えないよ」
「そんな事言わずに受け取って」
「……でも」
「せっかく瑞穂の為に買ったのに、受け取って貰えなかったらただのゴミになっちゃうよ」
「……っそんな」
「ね、だから貰って」
「……ありがとう」
「この魔石はね、ちょっと特別な力を秘めてるんだって」
小さなブローチがやけに重く感じる。断る事も出来なかったそれを、瑞穂は毎日身に着けた。そうした方がいいような、そうしなければならないような気がしたから。
ある日、稽古場で家の鍵を付けた、使い古したキーホルダーを落とした。
「あれ? それ使ってる人まだ居たんだ!」
同じ舞台に出る女優仲間の声に、キーホルダーを拾った瑞穂は顔を上げた。
「どこにでも売ってるやつだよ」
「え? 何言ってるの、もうとっくに売ってないよ」
「そうなの?」
「うん。しかも、その色は限定色だったし、持ってる人なんてほとんど居ないんじゃない?」
「……そう」
ふと、初めて会った日、静人の部屋の机に置かれていたキーホルダーが頭を掠める。あれは、何色だったっけ。
瑞穂は拾ったキーホルダーを握りしめる手が、微かに震えている事に気付かないふりをした。
しばらく経ったある日、瑞穂は意を決して静人に問いかけた。
「ねえ、静人。初めて会った時のこと、覚えてる?」
その言葉に目を瞠った静人は、これまで見た事も無いような笑顔を浮かべた。
「瑞穂、思い出してくれたの? 僕は君が助けてくれたあの日を一生忘れないよ」
静人が何を言っているのか理解出来ず、瑞穂は眉を顰める。初めて会った日、助けてもらったのは瑞穂の方だ。静人は一体いつの話をしているのだろうか。
「……どんな風だったかな」
「あの日、僕が落としたキーホルダーを瑞穂が拾ってくれただろ?」
何の話だろう。自分はいつ静人のキーホルダーを拾ったんだっけ。
「あの日、君がキーホルダーを拾って、笑顔で僕を見つめてくれた瞬間、痺れる様な衝撃を受けた」
見つめた——静人を。鍵を失くして途方に暮れたあの日、あの時に初めて会ったはずなのに……。
「鍵を渡してくれた瞬間に手が触れて、僕は天にも昇る気持ちだった。それからずっと君を見てたんだ」
ずっと見てた——いつから、どこから。
いつもの穏やかな笑顔の静人が、突然恐ろしく思えた。瑞穂は平静を装いながら、静人に尋ねた。
「あ、あの、何年も前の舞台のパンフレット、あれは、……私が出てるから見てくれたの?」
瑞穂の声は微かに震え、掠れているが、静人は気に留めていない様子で興奮気味に答えた。
「ああ、もちろん! 君の役にやっと名前が付いた舞台だからね。君に端役ばかりやらせるなんて、あいつら見る目がない」
その後のことはあまり記憶にない。とにかく恐怖が湧きあがり、その場を上手く切り抜けなければとそればかりが頭の中を占めた。
その日以来、瑞穂は徐々に静人との距離を空けるよう努めた。あからさまになり過ぎないように、しかし確実に距離を置いていく。夜道は極力歩かずに、今と変わらない程度の家賃で住める部屋が無いか、隙間の時間で探し始めた。
舞台もその他の仕事も、辞める訳にはいかなかった。舞台は子供の頃からの夢だったし、仕事はそうすぐに同じような条件のものが見つからない。徐々にすり減っていくのを感じつつ、どうする事も出来ずにいた。
しばらくそんな風に過ごしていると、静人との距離が自然と前より遠くなったように感じた。今までのように少し困っている場面でも静人は現れなくなったし、少し遅い時間に帰る時も偶然夜道で出会うこともない。落ち込んで一人で過ごしていても、肩を叩かれる事もなくなった。
きっとこのまま疎遠になるに違いない。その時の瑞穂はそう思っていた。一方で、それまで気安く日々の事を話していた相手が遠くなる事に、一抹の寂しさも感じていた。
それは昨年の十二月の事だった。公演を控えた舞台稽古は夕方を過ぎ、夜まで続く事も増えてきた。夕食どきを過ぎて数時間。深夜ではないが夜道を歩きたくはなかった。けれど、稽古とあっては仕方ない。周囲を窺いながら、注意深く歩いているつもりだった。
通りに響くのは、コツコツという瑞穂の足音だけだった。そこは稽古場から瑞穂のアパートへ向かう道で、大学病院から少し裏手に入った場所だ。普段は病院へ通う患者や見舞いの人、病院に出入りする業者などで人通りはそこそこある。しかし、この時間は薄暗い街灯のみで、あまり通りたくはない場所だった。その道を渡って反対側へ行こうと左右を確認した時、突然後ろから肩を叩かれた。瑞穂は恐怖に目を見開き、その場で動けなくなる。
「瑞穂、こんな時間に一人で歩くなんて、危ないよ」
その声に振り返ると、しばらく振りに見る静人の姿があった。以前と変わらず穏やかな笑顔を浮かべているが、どこか冷たさも感じる。瑞穂は背筋がゾクリとするが、気付かれぬようにいつもどおりを心掛ける。
「……静人、久しぶり、かな?」
「顔を合わせるのは久しぶりだね」
「……そう、だね」
「最近瑞穂は忙しそうだったし、新しい住まいを探してたでしょ?」
瑞穂はごくりと喉を鳴らし、慎重に言葉を選んだ。
「うん。そろそろ引っ越そうかと思って」
「そうみたいだね。最初は僕と一緒に住むための部屋を探してるのかと思ったんだけど……違うの?」
「……どうして、静人と一緒に暮らすの?」
「だって、僕たちずっと一緒に居るんだよね?」
「……それは、友人として……」
「瑞穂は、僕をただの友人だと思ってたの?」
「……うん、そうだよ」
「あんなに心の奥底まで見せてくれたのに?」
「……し、親友だって思ってたから」
「じゃあ、今から僕の事、異性として見てくれないかな?」
気付かぬ内に一歩一歩震える足で後退していた瑞穂は、道のちょっとした段差に踵が引っ掛かり、尻もちをつく。
「瑞穂、大丈夫? ほら、捕まって」
そう言って静人が手を差し出すが、瑞穂はそれに応える事が出来ずに黙り込んだ。
「瑞穂……どうしたの?」
何とか答えなければと口を開き、震えた掠れ声でどうにか声を出す。
「で、出来ない」
差し出された静人の手が、一瞬びくりと震えた。
「出来ないってどういうこと? 痛くて手が上がらない?」
「ち、違う。静人を異性として見ることは出来ない」
「……僕とは恋人になれないって事?」
「そ、そう」
「……どうして?」
「し、静人の事はずっと友達だと思ってたし、これからもそれは変わらない」
「……絶対に?」
「う、うん。絶対に」
「……そう。なら仕方ないね」
そう言って差し出していた手を引っ込めた静人に、瑞穂は少しの安堵を覚えて小さく溜息を吐いた。
しかし、静人はその手をコートの内側へと伸ばし、何かをすっと取り出した。それは、薄暗い街灯の下でもキラリと冷たい光を放つ、ナイフのように見える。
「し、静人。それ、何?」
眉を下げ、聞き分けの無い子供に言い聞かせるような口調で静人は答えた。
「瑞穂が僕のものにならないって言うから、仕方ないんだ」
再び震えて動けなくなった瑞穂は、カラカラになった喉でどうにか声を絞り出す。
「し、仕方ないって……、ど、どうするの?」
いつもの穏やかな笑顔を少しだけ歪ませた静人が、淡々と答えた。
「僕のものにする為には、もうこれしかないんだ。ごめんね、瑞穂。僕もすぐにいくから」
そう言った静人が右手のナイフを顔の横で大きく後ろに引き、瑞穂に向かって左手を伸ばす。その瞬間、静人の顔に何かが巻き付き、そのまま後ろに倒れこんだ。薄暗い街灯に照らされたのは、コートを脱いだ壮年の男だ。倒れた静人はその拍子にナイフを取り落とし、素早く後ろ手に押さえられていた。
「お嬢さん、怪我は?」
呆気に取られていた瑞穂は正気を取り戻し、掠れる声で「大丈夫です」と答えるのが精いっぱいだった。男は大声で、通りかかった人に警察を呼ぶよう叫んだ。
静人はその間、大人しく拘束されていた。彼の視界を塞いだのは、助けてくれた男のコートだったようで、未だに視界の閉ざされたままの静人は、観念したように見えた。
しばらく待つと警官が駆け付けた。静人は顔に掛かったコートが外されると、視線を左右に動かした。観念していると思っていた静人を引き渡す瞬間、ほんの少しの隙が出来る。静人は素早く拘束から逃れ、近くに落ちていたナイフを拾い上げた。
瑞穂は再び恐怖に襲われ、ガタガタと身体を震わせた。警官の制止を振り切った静人は、まっすぐに瑞穂を見つめていつもの柔和な笑顔を浮かべる。
「瑞穂、僕はずっと君の側に居るよ」
その瞬間喉を突いた静人は、その場で崩れ落ちた。足元の路面をじわじわと黒い血が染めていく。呆然とする瑞穂の胸元のマラカイトが光を放ち、瑞穂はそのまま途切れた恐怖の感情と共に深い闇へと沈み込んだ。
静まり返る部屋の中に、瑞穂の溜息が一つ零れる。
「それで、気付いた時には大学病院のベッドにいました」
「そこに平良弘樹が居たんですか?」
「はい。助けてくれた男性が、平良弘樹先生でした」
「それで、平良弘樹にマラカイトを渡したんですね?」
「そうです」
「どうしてそんな話になったんですか?」
思い起こすように考え込んだ瑞穂は、一呼吸おいてから再び口を開いた。
「確か、最初は普通に付き添いとして居てくれただけだったんですけど……。ブローチが光ったのが何となく気になって、握りしめたんです。そしたら、ブローチに付いてるマラカイトは魔石だねって聞かれて」
「彼もそれが光ったのを見たんですか?」
「いいえ、周りの人たちにはその光が見えなかったみたいで。光ったって事を話したら、預かって調べてもいいかって聞かれて。正直静人の姿を見た後で、なんだか持っているのも不安になったからすぐに預けたんです」
「……そうですか」
「それから後は最初に話したとおり、誰かに聞かれたらすぐ正直に話す事、しばらく経っって何の連絡も無ければ、平良先生の名前を伝えて篠塚先生を訪ねるようにと」
「なるほど。……あの、マラカイトのブローチはどこから手に入れたものか分かりますか?」
「……いいえ。平良先生にも聞かれたんですけど。私、あれを貰った時は静人の事が少し怖くなってたから詳しく聞けなくて」
「そうですか」
少し遠い椅子に座った涼介が、瑞穂に向けて問いかけた。
「答え難かったらいいんですけど」
「はい、なんですか?」
「緑丘さんは恐怖を感じなくなったんですよね?」
「そうです」
「どうやってそれに気付いたんですか?」
「……気が遠くなる前に、怖くて堪らなかった気持ちが一瞬で途切れて。その後、思い出しても寂しさしか感じないんです。おかしいですよね? 刃物を向けられたのに。あの時、怖くて怖くてたまらなかったはずなのに、それを思い出そうとしても、湧き上がりそうな気持が一瞬で消えるんです。なんだかそこにぽっかり穴が開いてしまったみたいに」
「……そうですか」
続いて躊躇いがちに珊瑚が口を開いた。
「あ、あのっ、結局鴉野さんと言う方は、いつから緑丘さんの事を知ってたんですか?」
「……それが、結局初めて会ったのがいつかは分からなくて。ただ、彼は私と同じキーホルダーを持ってた。彼の落としたキーホルダーはそれだったのかも知れないって思うんです」
「どうしてそう思うんでしょうか?」
「彼、私がキーホルダーを拾って笑ったって言ってたんです。きっと、同じキーホルダーを拾ったら、私笑うと思うから」
そう言って膝の上に置いたハンドバッグからキーホルダーを取り出した瑞穂は、よく見えるように顔の前に掲げた。
「この子供っぽいキーホルダー、初恋の子がくれたものなの。いつか帝都で女優になるんだって言った私に、頑張れって励ましながら渡してくれた思い出の。だから……」
瑞穂は両手で包み込んだキーホルダーを胸の前で握り締める。
「同じキーホルダーを見たら、子供の頃の淡い初恋を思い出して自然と笑ったんだと思う」
遠い昔の思い出に溢れた笑顔が、まさか何の記憶にも残らないような相手にとって、特別なものになるとは。何気ない日常の出会いでも、何か特別な意味を持つ事もあるのだな、と珊瑚は思う。
例えば帝都に着いた日に、一馬が珊瑚を助けてくれたように。一馬と珊瑚の場合は、一瞬の出会いにならず、その後も親しくなっていったのだが。あの時、珊瑚がそこまで体調を崩しておらず、ただ声を掛けて貰っただけで終わっていたら、きっと瑞穂にとっての静人のような一瞬の出会いだったのだろう。
それでも珊瑚は、一馬を忘れずともそこまで執着することは無い。静人はやはりどこか歪だったのだろうと思う。そして、その歪な静人と過ごした瑞穂は、恐怖を失った為に寂しさだけを残している。
珊瑚はまたしても人の複雑な思いに頭を悩ませるのだった。




