9-2
一年前のとある日、瑞穂は落とし物をして困り果てていた。家の鍵を落としたのだ。舞台の稽古で疲れ果て、やっと家に辿り着いたと思ったら、自宅に入る事が出来ずにドアの前で茫然と立ち尽くした。
瑞穂の住まいは管理人不在の集合住宅で、夜遅くなると外を一人で歩くのは少し怖い場所にある。田舎から女優を夢見て家を飛び出してきた瑞穂は、帝都に知り合いがいる訳でもない。満足な収入が得られない今、住む場所を吟味する余裕は無かった。
それでも夜道は一人で歩かぬよう、遅い時間の仕事は選ばないようにしていた。だと言うのに、このまま部屋に入れなければ、夜通しここで過ごす羽目になる。
二階にある自分の部屋から一旦離れ階下へ向かい、反対側に回って自室の窓を見上げた。カーテンはきっちり閉まっているが、実はあの窓は鍵を掛けても簡単に開ける方法があるのだ。先日掃除をしていて偶然分かったのだが、窓枠を少し押し上げるように力を籠めて何度か動かすと、簡単に外れてしまう。
管理人に直して貰おうと思ったのだが、忙しくてまだ伝えていない。二階のベランダまで辿り着ければ、あの窓を外して中に入ることが出来るのに……。しかし、流石によじ登る訳にもいかず、肩を落としてまた玄関ドアの前に戻った。
いっそのことここで買ってきた夕食を食べてしまおうかと考え始めた所で、隣の部屋のドアが開いた。出てきたのは見知らぬ若い男だ。瑞穂より少し年上だろうか。
「こんばんは」
訝し気な顔で挨拶してくる男に、瑞穂は慌てて答えた。
「こっ、こんばんはっ! わ、私は怪しいものではなくてですねっ」
焦った瑞穂は逆に怪しさ満点の返事をしてしまい、気が動転してなんと続ければいいのか分からなくなった。そんな瑞穂の様子に一瞬目を瞬いた男は、柔らかな表情を浮かべた。
「僕は、ちょっと前にここに越してきた者なんですが。もしかしたらお隣さんかな?」
「えっ?」
そう言えばと瑞穂は記憶を掘り起こした。
この集合住宅は、住人のほとんどが長年住んでいる年配の人だ。瑞穂はほとんどの人と顔見知りなのだが、少し前にお隣に居た年配の男が、息子夫婦と暮らすのだと引っ越していたことを思い出した。それからしばらくして、誰かが引っ越してきたような気がする。しかし、昼間はほとんど稽古と仕事で留守だったし、夜は疲れてすぐ寝てしまっていた。だからお隣さんと会ったことがなかったのだと今更気付いた。
「挨拶が遅くなってすみません。先週引っ越してきました、鴉野静人です。よろしく」
柔和な笑顔の青年に、瑞穂も自然と笑みが零れた。
「緑丘瑞穂です。よろしくお願いします」
和やかな空気が流れるが、瑞穂は自分の窮地を思い出してため息を吐いた。
「何かお困りごとですか?」
心配そうに尋ねられ、気の良さそうな静人に瑞穂は現状を説明した。
「実は、家の鍵を落としてしまったみたいで。中に入れなくて困ってるんです」
「それは大変ですね……。うちの電話で大家さんに連絡してみましょうか?」
「えっ? でもご迷惑じゃ……」
「大丈夫ですよ。ちょっと待ってて」
そう言って一度中へ入った静人は、しばらくすると戻ってきた。眉を下げて困った様子から、あまりいい結果ではないようだ。
「何度か掛けてみたけど、出ませんね」
「……そうですか」
静人は逡巡してから、躊躇いがちに口を開いた。
「……あの、もしよかったら、電話が繋がるまで家で待ちますか? 外で待つのは大変でしょう」
「えっ?」
流石に男の家に自分一人で上がり込むのは気が引けて、断ろうと思った瞬間にいいことを思いつく。
「あのっ! 待たせて頂く訳にはいかないけど、ベランダを貸してもらえませんか?」
「……ベランダですか?」
「はいっ! 家のベランダに行ければ、外から入れるので」
「ああ、なるほど。ちょっと危ないけど……。とにかく中へどうぞ」
「すみません、お邪魔します」
瑞穂は荷物と靴を持って、静人の部屋へ上がり込んだ。
玄関からすぐがキッチンで、少し先にトイレとシャワーのみの浴室が右手にあり、その奥に一部屋あるだけだ。一人でも少々手狭なこの部屋は、瑞穂の住まいと全く同じ間取りだ。
静人の部屋は、一分の隙もなく整頓されていた。小さな机の上には、瑞穂の持っていたキーホルダーと同じ物が置いてある。どこにでも売っているありふれたもので、特に気にも留めなかった。それより、その隣に置かれたパンフレットが目に留まる。それは、数年前に瑞穂が出た舞台のものだった。
目立つ役ではないが、瑞穂にとっては初めて名前の付いた役柄だったので思い出深い。人気女優が主演だったので、きっと静人は彼女のファンなのだろう。瑞穂の視線に気付いた静人が、目を細めて口を開いた。
「その舞台、感動的でした」
瑞穂は静人を見上げ、笑顔で返した。
「そうですか。それならよかった。実は私、この舞台にちょこっとだけ出てたんですよ」
静人は笑みを深めて「本当に素晴らしい舞台でした」と答えた。
「そう言って貰えて嬉しいです」
瑞穂は満足気に答えて、静人に微笑みかけた。
静人は、柔和な笑みを浮かべたまま、ベランダへと進んでいく。
「ここのベランダはあまり離れてないから、瑞穂さんでも渡れるかな?」
突然下の名前で呼ばれて驚いた瑞穂は、一瞬固まったまま静人を見上げて絶句した。
「どうしました?」
瑞穂は少し困った顔で尋ねてくる静人に、慌てて返す。
「い、いいえ。何とか飛び移れそうかなって考えてました」
「怖ければ、代わりに僕が行きましょうか?」
「でも、窓の開け方にコツが要るので」
「……そうですね。では、危なそうなら補助しますけど、気を付けて」
瑞穂がベランダの柵に捕まって上ったところで、静人が声をかける。
「瑞穂さん、少し左手に行ってください。真ん中は滑りやすいですから」
「え? は、はい。ありがとうございます」
言われたとおり少し左側に足を掛けると、瑞穂は無事自分のベランダへと降り立った。なぜ真ん中が滑ると分かったのか、疑問に思いその部分を見ると、塗装が剥げてつるつるとした面が見えている。なるほど、静人はこれが目に入って注意を促してくれたのかと瑞穂は納得した。
窓枠を押し上げて、何度か揺すると無事外れる。その様子を見守っていた静人は、ベランダにあった瑞穂の荷物を一つずつ手渡した。
「無事に戻れてよかったですね。また何かあったら声を掛けてください」
「ありがとうございます。本当に、助かりました」
「では、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
瑞穂にとってはそれが静人との初対面だった。
翌日、鍵のついたキーホルダーが、なぜかポストの下に落ちていた。こんな所で落としたはずはないのだがと首を傾げるが、戻ってきたのだからまあいいかと思った。そこに静人が現れて、一度落とした鍵は危ないから新しいものに変えた方がいいと諭された。
そんな風にして瑞穂が何かに困っていると、静人が現れて助けてくれるということが何度も続く。
ある日は、瑞穂が勤めるレストランで、客に絡まれていた時だ。
「あんた、あそこの舞台でたまに出てる女優だろ?」
「……すみません、ご注文をお伺いします」
「答えろよ。あそこに出てるの、あんただろ?」
「……そうですけど」
「やっぱりそうか。この間の派手な衣装は良かったな。今度あれ着て注文取りにきてくれよ」
稀にこういった客は居るのだが、瑞穂はあしらい方が分からない。そろそろ店長に助けを求めようかと辺りを見回した時、こちらに近付いてくる静人の姿が目に入る。
「派手な衣装がお好みだったら、ここの店はあなたには合わないと思いますよ?」
突然の乱入者に、客の男は静人を睨みつけた。
「なんだ? お前。関係ないやつは引っ込んでろよ」
その言葉に穏やかな笑みを浮かべた静人は、そっと男の手首をつかんだ。
「僕と彼女は関係があるんですよ。困ってるのを見過ごす訳にはいきませんからね」
男は手を振り払おうとするがびくともせず、驚いた表情で静人を見上げた。
「あなた好みの店がほかにありそうですから、僕が連れていって差し上げますよ?」
その言葉に冷や汗を流した客の男は、焦った様子で立ち上がる。
「あ、いや、いい。悪かった。ほかの店に行くから放してくれっ」
「そうですか、残念ですね」
そう言って微笑むむ静人を、怯えた目つきで見上げた男は、慌てて店を出て行った。それ以来瑞穂の店に来ることは無かった。
更に別の日、瑞穂は同じ舞台に出る女優の忘れ物を届ける為に出向いた先で、迷子になっていた。辺りを見回しても同じような建物ばかりで、既にどちらから来たのかも分からなくなっていた。
番地を確かめようと見て回るのだが、一向に目的の番地に辿り着けない。どうしたものかと途方に暮れていると、後ろから肩を叩かれびくりと身震いして振り返った。そこには心配そうな顔をした静人が立っていた。
「瑞穂さん、どうしたの?」
「ああ、静人さん。実は道に迷っちゃって……」
「そう。どこに行きたいの?」
「ここなんだけど」
そう言ってメモを見せると、静人は一つ頷いて、微笑みながら瑞穂に答えた。
「ここなら、すぐ近くだから一緒に行こう」
「ほんとに? ありがとう、助かる」
「いいよ、困ったときはお互い様だからね」
徐々に距離が縮まり、瑞穂は静人を信頼していく。いつの間にか呼び方も変わり、話し方も気安くなっていた。困ったときに助けてもらうだけでなく、悩み事も相談する程親しくなっていった。
「瑞穂、次の舞台は決まった?」
「うん。静人もまた見にきてくれる?」
「もちろん行くよ。何を置いても必ず見にいくから」
「あはは、ありがとう。大した役が取れてる訳じゃないのに、いつも来てくれてありがとね」
「いいや、僕は瑞穂の舞台を見るのがいつも楽しみだよ」
ただ、たまにほんの少しの違和感が瑞穂の頭を過る。
「ねえ、静人はどうしていつも私が困ってる時にそこに居るの?」
「いつもじゃないだろ?」
「……うーん、ほとんどいつもだよ」
「そうかな? ……二人の繋がりがそれだけ深いって事じゃないの?」
「そんな事ってある?」
「僕はあると思うよ」
「あはは、静人って面白い事言うよね」
「……そうかな?」
ほんの少しの違和感が、徐々に積もり始める。
「静人、前にここに置いてあった舞台のパンフレット覚えてる?」
「当たり前だろ、あれは僕にとって宝物なんだから」
「そうなんだ」
「それがどうしたの?」
「うん。あの時主演してた女優さんの舞台、全然見にいかないからどうしてかなって」
「どうして僕がその女優を見にいくの?」
「だって、あの舞台すごく感動したって言ってたから……」
「ああ。あの舞台の感動は今でも忘れられないよ。鮮明に覚えてる」
「じゃあ、ほかの舞台は見なくていいの?」
「……ほかの舞台なら見てるよ」
「そう?」
それでも瑞穂は、帝都に出てきてから初めて心を許せる存在に安らぎも覚えていた。だから少しの違和感には目を瞑り、心地よい距離感を保って過ごしていた。
女優を目指して働きながら必死に生きてきて、やっと少しずつ名のある役を演じる事が増えてきた。俳優仲間にはいつ足を掬われるか分からず、悩み事を相談することなど出来なかった。競争の激しいこの世界で、足の引っ張り合いは日常茶飯事だ。
そんな生活の中で静人と過ごす時間は、もはや瑞穂にとってはなくてはならない癒しの時間になっていた。いつでも静かに話を聞いて、瑞穂に寄り添った助言をくれる。困ったときにはすぐに手を差し伸べてくれて、見返りは求めない。嫉妬や悔しさなど、醜い内面を打ち明けても受け入れてくれた。
「ねえ、静人」
「なに?」
「静人は、私の愚痴とか聞いてて嫌にならない?」
「ならないよ。何でも知りたいから、何でも話してほしい」
「そう。どんな私でも嫌いにならない?」
「ならないよ。むしろ、ほかの人には見せられない様な事まで打ち明けてくれて、僕は嬉しい」
「いつか、恋で悩む事があっても聞いてくれる?」
「……どうかな?」
「聞いてくれないの?」
「そういう人が出来たら、寂しいなって思うよ。僕はいつでも瑞穂が一番になんでも話してくれる相手でありたい」
「……そっか、ありがと」
その日、瑞穂は舞台本番で大失敗をした。共演者が上手く誤魔化してくれたため大事に至らなかったが、今後のことを考えると不安が湧き上がる。
共演者が誤魔化してくれたのは、何も瑞穂の為ではない。見ている観客の為ではあるが、本人の為である事がほとんどだ。上手く立ち回ればそれだけ目に留まる。そこから更に大きな役へと飛躍出来るチャンスでもあるのだ。
瑞穂は落ち込み、静人にすら話す気になれず、人目に付かない丘の上にあるベンチで一人座り込んだ。しばらく頭を抱えて居ると、ふいに肩を叩かれ、驚いて振り返った。
そこには静人が立っていた。
「瑞穂、大丈夫?」
「静人。どうしてここが……?」
「瑞穂は落ち込むといつもここで一人になるでしょ?」
「え? ……そうだね」
確かにその通りだ。だが、それは静人に出会う前の話だった。出会ってからは、ほとんど静人と話して落ち着いていたので、ここに来た事は無いはずだ。ここの存在すらほとんど頭から抜け落ちていたというのに、静人に話した事があっただろうか。
「……来ない方がよかった?」
「ううん……そんな事ない。心配してくれてありがとう」
「また泣いてるんじゃないかと思って、気になったんだ」
また泣いてる。どうして昔私がここで泣いていた事を知ってるんだろう。私ですらここしばらく思い出さなかった場所に、なぜ彼は現れたのだろう。
「凄く落ち込んだ時は、一人になりたい事もあるよね。でも、出来れば僕も側に置いて欲しい」
「……うん」
「僕はずっと側に居るよ」
その日、大きな失敗で沈み切った頭では、それ以上言葉を続けることも、考える事も出来なかった。ただただ穏やかに微笑む静人の顔をぼんやりと眺めていた。




