8-2
桜井直人と妻の梓は、近所でも評判のおしどり夫婦だった。仲良く笑いの絶えない二人は、実に真面目に働く夫と、それを支える妻という周囲も羨む理想の夫婦だった。
結婚してから二年ほど経ち、梓は待望の第一子を妊娠した。分かったのは春の事で、出産予定はその年の暮れごろだった。
直人は今まで以上に仕事に励み、家族が増える日を心待ちにしていた。早くに両親を亡くしていたため、家族を持つのは昔からの夢だった。妻の両親も直人に親切で、家族との縁が薄かった直人はようやく訪れた平穏な幸せに日々浸っていた。
徐々に梓の腹は膨らみ、端から見ても妊婦だとわかるようになった頃、お節介な近所の者が直人にそっと耳打ちした。
「お宅の奥さん、妊婦だってのに男とコソコソ会ってるぞ」
はじめの内は、そんな馬鹿なことがあるはずないと、梓を信じて全く疑わなかった直人だが、いつの間にか猜疑心が生まれる。
(俺が仕事に行ってる間、梓は一体何をしているんだろう? 今までこんなことを、気にしたことなどなかったのに……)
一旦疑い始めると、その考えはもう止まらない。少しいつもと違うだけで妙に気になり、疑いの目を向けるようになった。梓が妊婦で、以前と食や服装の好みなど、変わっても当然である事にも気付かない程に。
直人は日々、心の中の疑念が膨らみ続けるのを感じていた。梓を見る度に、何かを隠しているのではないかという思いが湧き上がる。些細な仕草すら気になりだし、香水を変えた事にも疑いの目を向けた。
「最近香水を変えたんだな?」
「うん、気付いてくれたの?」
(その笑顔はどういう意味なんだ)
「どうして変えたんだ?」
「妊娠してから好みが変わったの。なんだか前の香りは甘すぎて、気分が悪くなるから」
(誰かの好みに合わせたんじゃないのか)
「……男にも合いそうなすっきりした香りだな」
「そうかな? 直人も一緒に使う?」
(他の男と同じものを使うなんてごめんだ)
本当に言いたいことは口に出来ず、曖昧に笑ってその場を凌いだ。
ある日、届いた手紙を読んでいた梓が、直人の帰りに気付いてさり気なく隠した。
「ただいま」
「おかえりなさい」
「……何を見てたんだ?」
「何でもない」
(なぜ隠した? やましいことがあるからじゃないのか)
そんな日々が数か月続いたある日、仕事の途中で街を歩いている時に、梓の姿を見かけた。
(こんな時間に何をやってるんだ)
声を掛けるために近付こうとした直人の足が、ぴたりと止まる。梓の隣には、見慣れぬ男の姿があったからだ。一定の距離を取って歩いているが、これからどこへ向かうのか。その日は仕事も手につかず、梓の姿がちらついて日中を落ち着きなく過ごした。
「……今日は何をしてたんだ?」
「いつもどおりだけど」
「出掛けたりしてないのか?」
「……うん。どこにも行ってないよ」
(街で男に会ってた癖に)
それから数週間後、また同じ男と梓が歩く姿を以前と同じ場所で目撃した。特徴的な痣が目の下にある男なので、同じ男で間違いない。以前より親し気な二人の姿に、直人は不安で胸が圧し潰されそうになった。今日こそはどこに行くのか突き止めようと、二人の姿を追った。しかし、建物の角を曲がったところから先、どこへ行ったのかわからなくなってしまった。
十一月になり、もうあとひと月で出産予定日を迎える頃。梓が嬉しそうに、直人に声を掛けた。
「直人。これ」
そう言って差し出すのは、片手に乗る大きさのリボンの掛かった箱だ。
「え?」
近頃梓に疑いの目を向けてばかりで、なぜ自分が箱を差し出されたのか思い当たらなかった直人は、呆気に取られた。
「やだ、直人ったら。今日は誕生日でしょう。忘れちゃった?」
直人は驚きに言葉を失い、渡された箱を見つめて答えた。
「あ、ああ。すっかり忘れてた」
「あはは。子供が生まれるのが楽しみで、自分の誕生日を忘れちゃったのね?」
そう言って笑う梓は、心から直人の誕生日を祝ってくれているように見えた。
「開けてみて」
頷いた直人が箱を開けると、中には懐中時計が収められていた。蓋の部分には精緻な細工が施され、十時十分を指す時計の針が誂えてある。その間にはピンクの石が嵌め込まれており、きらきらと不思議な輝きを放っていた。蓋を開けると見やすい文字盤と繊細な針の後ろに、細かな歯車が見えた。
「こんな高そうなもの、いつの間に……」
「驚いた? 内緒でいいものを探してたの。本当はブルートパーズがあなたの誕生石だけど。でも、このピンクトパーズは特別な魔石なの。愛のお守りになるんですって」
少し恥ずかしそうに笑いながら答えた梓は、その場の空気を変えるように直人の手を取ってダイニングへと移動する。テーブルの上には直人の好物が並び、驚きを隠せず問い掛けた。
「こんなに沢山作って、身体は大丈夫なのか?」
「ふふっ。実は、お母さんに手伝って貰っちゃったから、一人で作ってないの。ごめんなさい」
「いや、それでも大変だっただろ。嬉しいよ、ありがとう」
「喜んでくれてよかった。来年はきっと私が全部作るから」
「無理しなくていい」
今まで梓を疑っていた罪悪感と、本当に疑う必要が無いのかという疑心で、直人の心は複雑だった。
結局そのまま何も聞けずに、出産予定日が間近に迫る。今はまだ梓の気持ちを乱してはいけないと、自分に言い聞かせて過ごした。子供が無事に生まれて、落ち着いてから改めて問い正せばいい。
そう考えた直人は、今まで程の疑念の目を向けてはいないが、完全に疑いを捨てる事も出来ず、中途半端な気持ちのまま過ごしていた。
その日直人は、ちょうど休みを取っていた。陣痛が始まり、実家で出産したいという梓の希望どおり、前から頼んでいた産婆を呼んだ。男は邪魔だと追い出された直人は、子供が生まれるまでの時間を落ち着かない気持ちで過ごした。義母に宥められながら、義父と二人で漏れ聞こえる梓のうめき声に右往左往した。
梓にもらった懐中時計を握り締め、一体どれほど時間がかかるのかと時計の蓋を開く。そろそろ産婆が来てから、丸一日が経過しようという頃だった。
部屋の中から元気の良い赤子の鳴き声が響き渡った。
「う、産まれた……」
喜びでいっぱいの直人は、部屋の中から慌てて出てきた助手と、梓の両親に制止されるのも気付かず、勢いよく部屋に入った。産婆の助手が抱えた我が子が目に入り、嬉しさに胸が躍る。
その瞬間、手にしていた懐中時計の蓋が光り、嬉しかったはずの気持ちがぷっつり途切れた。不思議に思い胸に手を当てるが、何が起きたのか分からない。
我に返り様子が気になって慌てて駆け寄ると、青いを通り越し真っ白な顔をした梓が横たわっていた。よく見ると梓の周囲は床にも血が流れ、ひどい出血量だったことが見て取れた。梓は血まみれのシーツの中で、ぴくりとも動かない。
「梓っ、梓っ!」
懐中時計を握りしめたままの直人は、梓の名前を必死に叫んだ。
「どうなってるんだ? 梓は何で目を覚まさない! 誰か、誰かどうにかしてくれっ!」
そう言って辺りを見回すが、産婆も助手も何も答えず処置をしていた手を止めた。その姿に絶望に包まれた直人は、そのあとの事はあまり記憶になかった。部屋には生まれたばかりの赤子の声が響いていた。
静まり返った部屋の中に、直人の大きく息を吐く音だけが響いた。
「これで全部だ。俺はあれ以来喜びを感じない」
珊瑚は口を引き結び、かすかに俯いた。少し間を置いてから、陽一が口を開いた。
「その、懐中時計は今もお持ちですか?」
「ああ。だが、蓋に付いてた魔石はいつの間にかなくなってた」
そう言って直人は部屋にある棚の中から大切そうに箱に入った懐中時計を持ってくる。
「素敵な時計ですね」
珊瑚は、一馬が春馬に買った時計のことをふと思い出した。思いの込められた物だけが残るのは、どんな気持ちなのだろう。
「ああ。だが、あれ以来持つのが辛くて仕舞ったままだ」
そう言って愛おしそうに撫でられた時計は、使われなくとも手入れはしっかりされているようで、時間の狂いもない。
「俺は梓を疑ったことを後悔してる。梓が会ってた男は、商人だった。これに付ける魔石を探して、それを俺に内緒で手に入れる為に会ってただけだった」
目元を赤く染めた直人は、時計を握りしめる手が微かに震えている。
「近所のおせっかいな奴が俺に言った言葉は、嘘だった。あいつは幸せそうな俺たちに嫉妬して、ちょっとした嫌がらせのつもりで嘘を吐いただけだった。全部分かった時には、梓はもうこの世に居なかった」
大きく息を吐き出した直人は、少し落ち着きを取り戻した様子で、懐中時計を陽一と珊瑚の方へ差し出した。
「失礼します」
そう言って時計を手にした陽一は、魔石の嵌っていた部分を眺めてから珊瑚に手渡した。珊瑚もぺこりと頭を下げて懐中時計を注意深く眺める。魔石の嵌められていた部分をそっと撫でると、今までと同じで、ぽっかり空いた穴は冷たかった。
二人が返した時計を直人がそっと撫で、慎重に箱に戻してから引き出しに仕舞う。その直後玄関のドアが勢いよく開いた。「ただいま――!」と大きな子供の声が響き、三人が声の方を振り返る。
玄関のドアから現れたのは、三歳くらいの小さな女の子と、その後ろから着いてくるのは祖父母と思われる夫婦だ。
陽一と珊瑚が立ち上がり、少女と夫婦に挨拶をした。すると少女は目を大きく見開いた後に、満面の笑みを浮かべ「おかーさん!」と言いながら珊瑚の腰に飛びついた。
驚いた珊瑚は「ひぇっ」と変な声を出しながら、危うく後ろに倒れそうになる。それを陽一が慌てて支え、何とかよろける程度で済んだ。
「す、すみません」
「いや、珊瑚君が転ばなくてよかった。それにしても、いつの間に子持ちになってたの?」
「え、ええっ?」
焦って顔を青くしたり赤くしたりする珊瑚を見ながら、陽一はくすりと笑う。からかわれたと気付いた珊瑚は抗議の声を上げようとした。そのとき、再び少女に「おかーさんっ」と呼ばれて更に強く抱き付かれ、口をぱくぱくとさせた。
その様子を目を細めて眺めていた直人は、少女に向かって声を掛けた。
「結花、その人はお母さんじゃないよ」
結花と呼ばれた少女は目を丸くして直人を見た後に、珊瑚をの顔をじっと見つめる。
「おかーさんじゃないの?」
眉を下げて問いかける結花に、珊瑚は胸がずきりと痛む。
「ごめんね、結花ちゃん。残念だけど私は結花ちゃんのお母さんじゃないんですよ」
諦めきれずに縋りつく結花に、祖母が話しかけた。
「ゆいちゃん、今日はお父さんに渡すものがあったでしょう。早く見せてあげたら?」
その言葉に何かを思い出した様子で、ぱっと珊瑚から離れた結花は、洋服のポケットから一枚の紙を取り出した。
「はいっ、おとーさんにあげるっ!」
勢いよく振り上げた結花の手から、画用紙がするりと滑り、珊瑚の顔にパサリと被さった。
「ぷはっ」
驚いた珊瑚は思わず呻き、結花の放った紙を手に取り広げた。紙いっぱいに描かれているのは、肌色の丸い物体だ。恐らく直人だろうと思われるそれは、三歳の娘が試行錯誤しながら描いたのだろう。珊瑚は思わず笑みを漏らし、開いた紙を直人の方へ向けて差し出した。
「重ね重ね申し訳ないね」
珊瑚が直人に画用紙を渡そうと一歩踏み出すと、再び結花が珊瑚の腰に抱き着いた。驚いた珊瑚はよろけて、転びそうになりながら手を伸ばした。直人の手に押し付けるように画用紙を渡した珊瑚は、その瞬間に直人の手に触れた。
どうにか受けとりながら絵を目にした直人は、顔を綻ばせた。しかし触れた手からは一瞬何かが湧きあがりそうになり、やはりプツリと途絶えてしまった。それでも笑顔を浮かべた直人は、結花の頭を撫でながら「上手だな。ありがとう」と一見嬉しそうな表情を浮かべていた。
結花はそのまま祖父母と二階へ上がり、それを確認した直人は、陽一と珊瑚に向き直った。
「娘の成長を見ても喜びを感じない。嬉しいはずなのに、まるでそこだけ抜き取られたみたいに、何も感じなくなる。そんな自分があの子を育てていいのか、時々不安になるんだ。でも、妻の両親が一緒に面倒を見てくれて、喜びをあの子に教えてくれる」
珊瑚は身体の前で両手をぎゅっと握りしめた。
「これは、報いなのかも知れない。俺は、梓を信じられなかった。出産を終えて落ち着いたら話せばいいと思っていた。失ってから後悔しても遅かったのに。梓の心が自分から離れたのかと思った時、失うのが怖くなった。怖くて何も聞けなかった。二度と会えなくなった今、……それを、一番後悔してる」
診療所への帰り道も、行きと同じく手を取り合って並んで歩く。重い気分を振り払うように、珊瑚は陽一に話しかけた。
「結花ちゃん、かわいかったですね」
「うん、そうだね」
「お母さんって呼ばれて驚きました」
「あははっ。あの時の珊瑚君の顔は、なかなか面白かったね」
「先生、からかって酷いですよ!」
陽一は笑みを浮かべた後に、ふと何かを思い出したように、真面目な顔をした。
「桜井さんが見たって言う男、目の下に特徴的な痣があったって言ってたよね」
「はい。……どこかでそんな人を見かけたような」
珊瑚は記憶を辿ってみるが、思い出せずに唸り声をあげた。
「そうなの? 珊瑚君が会う人って言ったら、診療所の患者さんかな」
「うーん、どうでしょう。そうだったような、違うような……」
「買い物中にどこかですれ違った人の痣が印象的だったとか?」
「……そうかも知れませんね」
思い出せずにもやもやするが、しばらく記憶から引っ張り出そうにも一向に思い当たらない。二人して首を捻りながら、診療所への道程をゆっくり歩いた。




