7-3
それから蔦子の行動は早く、翌日には契約書を持って現れた。
光は蔦子に返事をしてから家に帰り、母に話をする内に、本当によかったのか考え直し始めていた。しかし翌日現れた蔦子に、「間に合ってよかった、一歩遅かったら手に入らなくなるところだった」と言われ、断ることが出来なくなった。
当の母は、光が考えてくれた事だから、そして何より子供のころに仲のよかった蔦子の伝手ならばと受け入れた。
薬は光にとって高額で、それでも蔦子が言うには半額近くになっているという。蔦子に上手く値切ったと言われ、ますます断れなくなった。
薬を服用し始めてからの母は、徐々に体調がよくなっているように見えた。大学病院の薬と併用するのはよくないと言われ、蔦子からの薬だけを頼るようになった。
高額な薬を買い続ける為に、光は新聞社の他にも仕事をするようになった。今まで以上に身なりを気遣う余裕もなく、毎日身体が重くてしんどい日々だ。それでも、少しでも母の笑顔が見られるならと、重い体に鞭を打ってがむしゃらに働き続けた。
そんな日々を過ごして三月ほど経ったころ、母の病状が悪化した。少し善くなっているように思えて、それを支えに日々を過ごしていた光に衝撃が走る。
「蔦ちゃん、お母さんが倒れたわっ!」
蔦子が丁度見舞いに来ており、光は駆け寄って縋りついた。
「光、落ち着いて。効果のある薬は、一旦悪くなったように見える事もあるのよ」
「本当に?」
「ええ。だから、今の薬をこのまま続けましょう」
その言葉と昔から変わらぬ蔦子の美しい笑顔に、光はほっと胸を撫でおろす。
「ありがとう、蔦ちゃん。私、頑張って働くわ」
「無理しないで。辛くなったら私に相談してね?」
そう言って笑う蔦子は、一層美しいが、光はなぜかほの暗さも感じた。
光は蔦子の言葉を信じて、更に働き続けた。それでも高価な薬を買い続けるのは徐々に辛くなってくる。だが立ち止まる訳には行かず、何も考えずにただ働き続けた。
たまに蔦子が「頼っていいのよ」と優しい声を掛けてくれるが、光はそれに頷かなかった。
父の商会が潰れた時に学んだことは、お金のことで他人を頼ってはいけないという事だった。
将来光が継ぐはずだった商会は、父が信頼するパートナーによって資金を使い込まれていた。その事が発覚したのは父の死後で、光や母にはどうすることも出来なかった。危うく借金を背負わされるところだったが、商会を解散して資産を売り払う事で何とか返済できたのだが、二人の手元には何も残らなかった。
もっと早くから父に商会のことを教えて貰っていれば、防げはせずとも最悪の事態までには至らなかったかも知れない。それ以来、光は金銭が絡むと信頼出来る人でもどう変わるかわからないのだと学んだ。
光にとって蔦子は子供のころのキラキラした思い出に住む、大切な幼馴染で親友だった。その関係性にヒビを入れたくないと思い、蔦子に金銭で頼ることはしなかった。
そんな日々を過ごしていたある日、仕事に出ようとした光は母に呼び止められた。
「光、私のためにいつもごめんなさいね。でも、あまり無理しないで、たまにはちゃんと休んで欲しいわ。そうでないと、私みたいに倒れてしまうわよ」
そう言われて鏡の中の自分を見た光は、以前より一層疲れた顔をしているのだと気付いた。
「お母さん、大丈夫よ。明日はちゃんとお休みをいただいたから」
そう言ってほほ笑む光に、母は手招きをする。
「光、渡したいものがあるのよ。これ」
母の手に乗せられていたのは、黄色に近い明るい緑色の石が嵌った簪だった。高価そうな簪に目を見開いた光は、母に尋ねた。
「こんな高そうなもの、どうしたの?」
母は淡く微笑み答えた。
「蔦ちゃんがね、紹介してくれた人から安くで買ったのよ。この石はね、お守りになるのですって」
涙が滲むのを瞬きで誤魔化し、鏡に向かって受け取った簪を髪に刺す。
「綺麗よ。とっても似合うわ」
淡く微笑む母に声を掛けて、光は急いで仕事へ向かった。
それから数日経って、母の病状がまた悪化した。最初に薬を買ってから、既に半年が経過していた。この頃になると、さすがに光も薬の効果を疑い始めた。だが、蔦子自身を疑う事は無かった。
起き上がる事も出来ず、食事をとることもままならない。日によっては水を飲むことすら辛そうな母を見て、光は薬が母には合わなかったのだろうかと不安になった。
診療所の医者に往診を頼もうかと考えるが、以前蔦子に止められていたので迷いが出る。
そうして悩んでいる内に、遂に母は目を覚まさなくなった。寒さの厳しくなった日の朝だった。
その日の昼前、蔦子が前触れもなく姿を現した。
「光」
そう言ってほほ笑む蔦子は昔通りの笑顔だ。こんな時まで昔と同じように笑う蔦子に、ようやく光は違和感を覚える。
「蔦ちゃん。……お母さんが、目を覚まさないのよ」
その言葉に表情を変える事なく蔦子は「そう」と一言返すのみだ。
「蔦ちゃんから貰ったお薬、お母さんには効かなかったみたいで」
その言葉に一瞬目を見開いた蔦子は、くすくすと声を立てて笑い、いつもの美しい笑みを深める。
「それはそうでしょうね」
「えっ?」
蔦子の返事に光は一瞬聞き違えたのかと思い、言葉を返す。
「蔦ちゃん、そうでしょうねって言ったの?」
「そうよ」
蔦子は先ほどからずっと変わらぬ笑顔だ。
「どういうこと?」
震える声で問いかけた光に、蔦子は一層美しい笑顔で言葉を返す。
「そのまんまの意味よ。光ったら、まだ信じてるの? もうあんたのお母さん、薬も飲めないみたいだから騙す意味もなくなったわね」
絶句する光を前に、蔦子は満足そうに浮かべていた笑みを消し、言葉を続ける。
「私、昔からあんたのことが気に食わなかったのよ。金持ちだからっていい気になって。私はあんたより美人なのに、いつも好かれるのはあんたばっかり。私がどんなに努力しても、みんなあんたのことばっかり好きになる」
今まで浮かべていた美しい笑みが嘘のように、光を憎々しげに見つめる蔦子はさらに続ける。
「私はこの名前が嫌いだって言ったのに、蔦ちゃん蔦ちゃんって何度も呼んで。大人になって昔の私よりずっと貧乏になって、どんなに惨めかと思って見にいったら、職場でもあんたは見すぼらしいのにかわいがられてた。どうして? なんであんたばっかりかわいがられるのよっ。なんでそんな惨めな格好してるのに、私に頼って縋りつかないのよっ」
光はあまりの驚きに言葉を発することが出来ずに蔦子を見つめた。
「あんたなんて、昔からずっと大っ嫌いだったのよっ」
驚愕に言葉を失った瞬間、簪の魔石が光を放つ。一瞬の輝きが去ると、それまでの驚きの感情がすっかり抜け落ちた。
母が気になり振り返ると、すでに息を引き取っていた。まだ温かく、まるで生きているかのような母を目にして、光はぽっかりと空いた心の穴をどうすることも出来なかった。
すっかり冷めたお茶を一口飲んだ光は、陽一と珊瑚に「冷めちゃったわね」と言いながら、新しいお茶を淹れ直す為に席を立つ。
熱い茶を淹れて、陽一の前に置いたあと、珊瑚の前にも差し出した。湯呑がテーブルに置かれる前に、珊瑚は震える手を無意識に差し出した。光と珊瑚の手がぶつかり、湯呑がバランスを崩して熱い茶が跳ね上がった。そのまま珊瑚の手にかかり、思わず「熱っ」と声を上げた。
その瞬間、光が素早く珊瑚の手を掴んだ。すぐに流しで蛇口をひねり、そのまま冷やし始めた。
珊瑚は、ああ、やっぱり抜け落ちてると感じた。珊瑚の手が触れた瞬間、ふっと湧きあがりそうだったものがプツリと途絶えた少し後に、心配しているのが伝わって来た。恐らく咄嗟のことに驚いたのだろうが、感情が奪われているために抜け落ちたのだろう。
「あら、お医者様がいらしたのに余計な事しちゃったかしら」
咄嗟に珊瑚の手を取った光は、ふと陽一の存在を思い出したように振り返る。
「いえ。少しでも早い方がいいですから、助かりました。ありがとうございます」
先に陽一にお礼を言われてしまい、珊瑚は慌てて「ありがとうございました」と頭を下げた。
陽一はタオルを濡らして、しばらく当てておくようにと珊瑚に渡した。軽く済みそうで、ほっと胸を撫でおろした。
「私、母をちゃんとお医者様にお任せすればよかったわ」
光は寂し気に微笑んでから、視線を落とした。
「後から考えれば、あの子が私を誘導してたんだなって分かるのだけど。でも、あの時は気付けなかった。もうそれしかないって思ってしまって」
陽一は頷きながら答えた。
「誰でも大切な人が助かるかも知れないと思えば縋りたくなるものですよ」
「お医者様にそう言っていただけると、少しホッとします」
「病状がしばらく安定していたという事は、薬自体に害は無かったのでしょう?」
そう尋ねる陽一に、かすかに微笑んだ光が答えた。
「ええ。後で警察の方が調べて下さったんですけど、特に悪いものではなかったそうです。薬草から作られた丸薬だったみたいで」
「そうですか」
「あの子は、私を憎んでたけど、母の命を取ろうとまでは思ってなかったみたいで少しだけ救われました」
珊瑚は穏やかに答える光を不思議に思って、じっと見つめた。
「あの子を恨んでないのかって顔してるわね?」
どうやら顔に出ていたようだ。珊瑚はびくりと肩を揺らした後に、視線を彷徨わせた。
「す、すみません。私だったら、恨んでしまうだろうなと思ったものですから」
その言葉に頷いた光は、少し考えてから答える。
「そうね。母に何かされてたら恨んだかも知れないわ。でも、私を陥れたいっていう気持ちだけだったなら、仕方ないかなとも思ったの」
「仕方ない……ですか?」
「ええ。私って昔からあまり喜怒哀楽がはっきりしないって言われてて。よく言えばのんびり、悪く言えばトロいのよ。だから、人を恨むとか妬むとかって気持ちがよくわからないの」
そう言って穏やかに笑う光は、育ちのいい温厚な女性といった雰囲気だ。
「私がこんなだから、きっとあの子は私を恨んだのかなって今なら思うの。思い返せば子供のころから、何かと張り合うようなことを言われてた気がして」
光は懐かしそうな、けれど寂しそうな笑みを浮かべた。
「でも、私は全然気付かなくて。そういう所にきっと苛立ってたんだと思うわ。私にはわからなかったけど、あの子はずっと気にしていたのね……」
「僕も、いつもニコニコ笑ってばかりで何を考えてるのかよくわからないって言われますよ。そういうのは性分ですから。どうにもなりませんよね」
珊瑚はふと陽一を見上げた。陽一と光は少し似ているのだろうか。以前陽一は『物腰は柔らかいけど壁を感じるって言われる』と言っていた。二人とも打てど響かぬ鐘のように、人の悪意も上手く流せるのだろうか。
そう言えば、二人とも同じくらいの年かもしれない。考え方も年も近ければ、中々お似合いのような気がする。そんな風に思ってすぐに、何故かモヤモヤとしたものがこみ上げる。
「叔父に話していただいた話はここまでですか?」
陽一が光に問いかける声に、珊瑚ははっと物思いから覚めた。
「ええ」
「その後、何か分かった事はありませんか?」
「平良先生とお話してしばらくしてから、気持ちも落ち着いて、あの子に会いに行きました」
「居場所を知ってるんですか?」
「当時は、捕まっていたので面会に」
「ああ、なるほど」
「それで、母が魔石を買った商人の事を聞いてみたんです」
その言葉に陽一と珊瑚はごくりと喉を鳴らす。
「なんでも、神殿にも出入りするようなちゃんとした商会の人だそうです。母の買った魔石はクリソベリルキャッツアイでした」
簪を見せてもらったが、石がない以外に変わったところはなかった。魔石の跡は、やはり冷たくぽっかり穴が空いていた。
光からそれ以上の話は聞けなかった。
診療所への帰り道、珊瑚はどうにも胸のもやもやが収まらず、なんだか気持ち悪い。そんな珊瑚の様子に気付いた陽一が眉を寄せて口を開た。
「珊瑚君、さっきからずっと変な顔してるけど、どうしたの?」
「えっ、へ、変な顔ですか?」
「うん。うちに来た最初の頃みたいにしかめっ面になってるよ」
珊瑚はますます顔を顰めて唸り声を上げる。
「なんだか胃のあたりがムカムカするような気がします」
「え? 気分が悪い?」
「いいえ、そういう感じじゃないです」
「何だろう。あ、そうか。もうお昼の時間も過ぎてるし、お腹でも空いたのかな?」
珊瑚は首を傾げてしばし考え、「そうかも知れません」と答えた。
「よし、じゃあ帰りは歩きながら屋台に寄って、何か食べながら帰ろう」
「はいっ」
人混みを歩くために当たり前のように差し出された左手に、珊瑚は右手を重ねる。陽一がその手の甲をじっと見つめ、火傷の跡を確かめた。
「痛みはもうない?」
「はい、すっかり忘れてたくらいです」
「そう、それならよかった。見たところ、跡も残りそうにないし安心した」
「ありがとうございます」
そう言って笑いあった二人は、手を繋いで賑わう屋台へと向かって歩き出した。
屋台では今ままで食べた事のない、串焼きや一口サイズのカステラなど様々なものが売っている。丸い椅子とテーブルが置かれた場所で座って食べたり、歩きながら頬張った。初めての体験に心躍る珊瑚は、繋がれた手からも流れる明るい気持ちに心が軽くなる。お腹が満たされるとともにモヤモヤも晴れていき、やっぱりお腹が空いてたんだなと頷いた。




