7-2
涼介が驚きの感情を失った人の話をしてから、二週間が経過した。涼介を見送った後、早速陽一が相手に連絡を取った。あちらの都合がついたのが、二週間経った今日だ。
今回も帝都の中心から、乗合馬車で向かう事になる。今も隣に座った陽一からは、前ほどではないが緊張が伝わった。珊瑚は以前の経験を生かし、それに気付かぬ振りをした。
向かった場所は中心から左程離れておらず、五分ほどの距離だった。それでも馬車を使ったのは、休日に人通りの多い帝都を歩くのが、珊瑚にとって負担になるからだ。
最近は暖かくなってきて、ぽかぽかとした日差しが気持ちいい。穏やかな光に包まれて、珊瑚は欠伸を嚙み殺した。
「珊瑚君、そろそろ着くよ」
陽一に声を掛けられ、背筋を伸ばして「はい」と返事をした。
降り立ったのは、中心地ほどではないが往来のそこそこある通りだった。そこから少し歩いた先に建っている集合住宅が、今日会う人の住まいだ。
一人暮らしの女が住むには、少し安全面の不安がありそうなところだが、病気の母親を抱えていたという事情からあまり贅沢な暮らしぶりではないのだろう。
陽一の隣で馬車に揺られていた時の安心感から一転、女の事を考えると胃の辺りがじわじわと重くなってくる。感情を失ってどう思っているのか、そのせいで今の暮らしに影響が出ているのだろうか。その責任の一端は自分にあるのだと考えると、珊瑚は俯きそうになる。
「珊瑚君、入るよ」
陽一の声に顔を上げ、入口を見つめた。
木の扉を潜ると、正面には受付があった。受付の台には古びた電話が置かれていて、共用で使われているようだ。
「こんにちは」
陽一が声をかけると、受付の窓をがらりと開けて顔を覗かせたのは、鋭い目つきの老婆だ。
「誰だい、あんた達。見ない顔だね?」
訝し気に尋ねる老婆に、陽一は落ち着いた様子でゆるい笑みを浮かべて答える。
「黄瀬さんとお約束があり伺いました。平良陽一と申します。こちらは助手の神崎珊瑚です」
珊瑚は初めての呼び捨てに、ビクリと身体を揺らして会釈する。前回のように『珊瑚君』ではなく、呼び捨てだ。なんだか身内に加えて貰えたような気がして少し嬉しくなる。
「ああ、あんたたちの話は光ちゃんから聞いてるよ。そこの階段登って二階の一番奥だ」
「ありがとうございます」
老婆の言葉に二人そろって頭を下げた。木造の建物同様、階段も木造りだ。登るたびにギイギイ音を立てるが、掃除は行き届いている。安全面の不安を覚えていたが、このような住宅には管理人が常駐しているのだと初めて知った。老婆で大丈夫なのかはさて置き。誰もが簡単に入り込める構造でなかった事に、一人になったらこういう暮らしもありかも知れないと思った。
老婆に教えられたとおり、階段を上って最奥の部屋へと足を進める。扉の前で陽一が少し珊瑚を振り返り、軽く頷いてから扉に向き直った。
二度扉をノックすると、中から「はい」と返事があった。柔らかく落ち着いた声だ。
「先日お約束させて頂きました、平良診療所の者です」
その声にそっと扉が開く。
「こんにちは。どうぞ中へおあがりください」
落ち着いた優し気な面差しの女が顔を出した。少し疲れた顔をしているが、紺地に白や薄い青の柄が入った着物姿の姿勢のいいすっきりとした人だ。
促されて部屋に入ると、簡易的なキッチンと小さなダイニングがあり、奥へと続く閉まった扉の向こうには寝室があるのだろうと思われた。小さなテーブルに二人を案内し、二脚きりの椅子を陽一と珊瑚に勧めた。二脚しかない椅子を見て「あっ」と声を上げた光は、奥から折り畳み式の椅子を持って戻ってきた。
「ごめんなさい、あまり人が来ないものだから、お客様の椅子しか考えていなかったの」
「いいえ、こちらこそ気が利かずに申し訳ありません。女性の一人暮らしでしたら、外でお話した方がよかったですね」
「大丈夫です。あまり外で話したい内容でもありませんし」
そう言って少し寂し気に微笑む光の顔に、珊瑚は胸がズキリと痛む。
「今日はお時間を頂きありがとうございます。改めまして、僕は平良陽一です」
「じょ、助手の神崎珊瑚と申します」
陽一に続きぺこりと頭を下げる珊瑚に、目元を緩ませた光が「黄瀬光です。よろしくね」と返事をした。
「それで、以前平良先生にお話ししたのと同じでいいのかしら?」
「はい。もしそれ以外に新しく思い出したことがあったら伺いたいのですが」
「ええ。何か話しているうちに思い出したことがあればお話ししますね」
前回の藍島と違い、雰囲気の柔らかさも去ることながら、珊瑚への警戒心もないようだ。珊瑚はそれにほっとするが、こんなに人の好さそうな女が利用されたのかと思うと、居たたまれない気分になる。
珊瑚が手土産をそっと渡すと、光はふわりと柔らかな笑みを浮かべた。光がキッチンで開封し、茶を淹れ始めた。
出された茶を全員がほぼ同時に口にして、ほっと一息ついたところで光が話し始めた。
「私の母はもう随分長いこと患っていて、母娘二人で支え合って生きていました」
話を切り出した光は、寂し気に視線を落としながら静かな声で続ける。
「私が生まれる前から身体が余り丈夫ではなくて、働きながらの暮らしも辛かったのかも知れません。でも、父が亡くなって、そうも言っていられなくなったんです」
遠くを見つめて、昔を思い出すように視線を上げた光が続きを話す。
光の母は、若い頃光の父と駆け落ち同然で家を飛び出した。光の母は幼い頃に両親を失っており、父は裕福な家の長男だった。家を継ぐには母の身分は釣り合わず、父方は誰もが反対し、それを押し切る事も出来なかったのだ。
父には商才も人脈もあり、身体の弱い母との暮らしぶりも豊かだった。そのうち光が生まれ、元々身体の弱かった母は、更に病弱になってしまった。それでも父のお陰で金銭に余裕のあった黄瀬家は、母がのんびり身体を労わりながら暮らすのに何の不自由もなかった。
光が十歳になった頃、その生活が一変する。父が仕入れのために出掛けた先で、馬車で事故に遭い急死したのだ。ゆくゆくは光が結婚し、後を継ぐことになるのだろうと思われていた商会は、あっという間に潰れてしまった。仕入れのことも経営のことも、商会のことについて母も光も何一つ分からなかった。
まだ子供だった光を抱え、母は仕事を必死に探し回った。何とか仕事にありつけたが、身体が弱く休みがちになるため、給金はあまり貰えなかった。家賃も安い集合住宅へと引っ越し、近所だった友人たちとも会えなくなった。
光の通っていた学校は裕福な子供の通う所だったが、授業料の支払いが出来ずに初等学校の途中で退学した。それでも、一般的な子供が通える小学校には行く事が出来、学力に問題は無かった為卒業する事も出来た。
光が十三歳になる年までの三年間、どうにか働いていた母が遂に限界を迎えた。光は小学部を卒業してすぐ職に就いており、病弱な母を今度は自分が支えることとなった。
具合のいい日は家事を請け負ってくれる母を家に残し、光は必死に働いた。就職先は、近くの小さな新聞社だった。最初に貰えた仕事は、簡単な書類整理や手紙の配達など細々とした雑務だった。社長は情に厚い人で、光の家の事情を汲んで、まだ雑用しかできない光に多少多めの給金を払ってくれた。
新聞社の仕事は驚きの連続で、知らなかったことを知る度に知識も増え、進学できなかった光にとって大いに勉強になる場所だった。日々楽しく、真面目に働き続けた結果、光の給金も社内での扱いも徐々に良くなっていった。
そうして仕事が増々楽しくなってきた十八のころ、母の病状が近くの診療所では十分な治療を受けられない状態になってしまう。母はそのまま診療所でいいと言ったが、諦めきれない光は母を大学病院へと連れていった。大学病院でも緩和治療しか出来る事はなく、それでもそれなりの治療費が掛かるため、光は更に仕事に励んだ。
生活は苦しかったが、母の治療に使うお金を惜しみたくなかった。しかし、大学病院ですら治療方法がないという事は、光にとって先の暗い道のりを歩いているような気分だった。何とか母の病気についての情報がないか、新聞社の伝手を使って調べたりもしたが、有用な情報はついぞ手に入らなかった。
そんなある日、光の働く新聞社に幼馴染の懐かしい顔が訪ねてきた。それは、まだ光が裕福な暮らしをしていた頃、近所に住んでいた美しい少女だ。彼女の家はそれ程裕福ではなく、一般の小学校に通っていたから学校は違っていた。それでもよく遊んだものだった。
「光、久しぶりね。元気にしてた?」
軽やかに笑う彼女の名は、野村蔦子だ。昔と変わらず美しくて、思わず光はその笑顔に見惚れる。子供の頃の面影そのままに、より一層美しい女性へと成長を遂げていた。
「蔦ちゃん、お久しぶりね」
懐かしい思いに微笑んで返事をするが、ふと今の自分を顧みて、少しの戸惑いを覚える。
蔦子は昔よりも一層髪艶も増し、仕立ての良いワンピースを着ていた。指先まで荒れた様子のない滑らかな肌に、爪の手入れまで行き届き、化粧をした顔はより一層華やかさを引き立てている。
一方の自分は、昔のように髪に気を使うことも出来ずに簡単にまとめているだけだ。着物は古着を手に入れて何度もほつれを自分で直したり、洗い張りをしている。化粧品を手に入れる余裕もないので、取材に行く時に白粉とうっすら紅を引く程度だ。今日は社内の仕事しかないので、白粉すらはたいていない。
しかし、華やかな笑顔で光を見つめる蔦子の目は、昔と変わらないもののように感じた。
「光に会えて嬉しいわ。私、ずっと光を探してたの。引っ越してからどこへ行ってしまったのか分からなくて、寂しかったわ」
少し眉を下げて話す蔦子は、本当に寂しく思っていてくれた様だ。
二人の会話を聞いた上司が、「光ちゃん、久しぶりの友達なら早めに休憩入っていいから、ゆっくり話してきたら?」と声を掛けた。小さな新聞社で、子供のころから真面目に働く光は、社内でも可愛がられていた。
「ありがとうございます。じゃあ、少しだけ」
そう言って蔦子と一緒に外へ出る。空は梅雨らしくどんよりとした曇り空で、そのうち雨が降り出しそうだった。
蔦子に良い店があると言われて連れてこられたのは、今の光にとっては贅沢な喫茶店だった。生活の苦しい光はそれとなく遠慮しようとしたのだが、蔦子が奢るからと半ば強引に連れていかれた。
「ごめんね、蔦ちゃん。私、あまり持ち合わせがなくて」
その言葉に満足そうに微笑んだ蔦子は、当然とばかりに答えた。
「水臭いわよ、光。おばさんの病気が前より大変だってこと、私ちゃんと知ってるのよ」
その時の光は、なぜ蔦子が光を探していたのか、なぜ母の病状を知っているのか、特に疑問に思う事もなかった。
「そう。じゃあ、遠慮なく今日はご馳走になるわね。ありがとう」
そう言って儚く微笑む光に、蔦子は少し驚いたような顔をしたが、すぐに先ほどと変わらぬ華やかな笑みを浮かべた。
今では飲めなくなった高級な茶葉の紅茶は、昔の裕福だった生活を思い起こさせた。しかし、光は惨めな気持ちになることは無かった。ただ懐かしく思うだけだ。
「ねえ、光。私、昔と違って今はお金に困ってないし、人脈も情報もあるのよ」
唐突に切り出された光は、驚いて顔を上げた。
「ふふっ。だからね、あなたとお母さんが困ってると聞いて、助けになりたいと思ったの」
藁にも縋りたい思いだった光は、蔦子の言葉に息を呑んだ。
「母の病は、大学病院でも緩和治療しかもう手がないって言われてるの。蔦ちゃんは、もっと楽になる方法を知ってるって事かしら?」
その言葉に深く頷いた蔦子が答える。
「楽になるのはもちろんだけど、悪化しなくなる可能性も高いわ。それどころか、もしかしたら治せるかも知れない」
そんな旨い話があるだろうか。大学病院の医師ですら、治せないと言っていた病が悪化しないとは。それどころか治るかもしれない。疑いそうな気持ちも湧き上がるが、新聞社に勤めていると、稀にそういった奇跡的な話も舞い込んでくるのは事実だ。医師に匙を投げられた人が、好きなように生きようと決めてから病気の進行が止まったとか、動かないと言われていた足が、諦めずにリハビリを続けた結果動くようになったとか。そんな類の一つに母が当て嵌まらないとも限らない。
「本当に、そんな方法があるのかしら?」
疑問を口にする光に、蔦子は笑顔を浮かべたまま答えた。
「そうね、光が疑うのも無理ないわ。だって、まだ海外から入ったばかりの承認間近の薬なんだから」
「間近という事は、まだ未承認なのよね?」
「そうよ」
そう答えた蔦子は、少し声を落として続けた。
「だから、まだ一部の人しか知らない薬なのよ。大学病院でも上の方の人は知ってると思うけど、一般の患者に使える段階じゃないから大っぴらには出来ないの」
光は少しの間逡巡してから口を開く。
「その薬は、危険ではないの?」
「危険なら承認間近なんて状態までならないわ。まあ、光が疑う気持ちもわかるけど」
蔦子が残念そうに言うので、光は慌てて答えた。
「違うの、蔦ちゃんを疑ってる訳じゃないわ」
「いいのよ、私でも疑うもの」
そう言った蔦子は特に気にした風でもなく、紅茶を一口飲み下す。
光が大学病院の主治医に相談してみようかと考え始めたところで、蔦子が再び口を開いた。
「でもね、大学病院で聞いても無駄よ。だって、まだ承認されてないものだから。数も少ないし、どの患者から使うか慎重に検討されるだろうしね」
その言葉に光は少しの焦りを感じる。数が少ないという事は、承認されても手に入らない可能性が高い。
「私は伝手があるから、優先的に手に入るんだけど。まあ、光が悩むのもわかるから、返事はすぐじゃなくて良いわ」
その言葉にほっと胸を撫でおろす。その様子を満足気に眺めた蔦子は、美しい笑顔と共に言葉を続けた。
「でも、あんまり遅くなると私でも手に入らなくなっちゃうかも」
母を助けることが出来るかも知れないものが目の前に提示されているのに、それを断るのだろうか。光は頭が真っ白になり、どうしたらいいのかわからなくなる。
「じゃあ、そろそろ出ましょうか」
そう言った蔦子の手を思わず両手で掴み、「お願いするわ」と蒼白な顔で答えていた。
店の外は、この時期らしい雨がしとしとと降り始めていた。




