6-1
涼介と話してから早数週間。情報を集めてはいるが、大きな進展はない。神殿が珊瑚に接触してくる様子もなく、特に動きはないようだ。そうは言っても落ち着かず、どうにか日々をやり過ごしていた。
あの日の夜も、一悟と二胡の夢を見た。共に陽一や涼介の反応に、『ほらみたことか』と胸を張っていた。別に二人が偉い訳でもないのに。
陽一や涼介には言えなかった不安を分かち合うこともできた。母はきっとあの人の計画に巻き込まれているのだ。溺愛していると聞いているので、命の危険はないだろう。それでも状況が分からないだけに、珊瑚は不安が募る。母は一体何に、どう関係しているのだろう。
あの日から珊瑚は考え込む事が増え、その度に陽一が気遣うような視線を送るが珊瑚はまったく気付いていない。
食事を終えると、陽一にいつもの部屋へ呼ばれた。今日淹れてくれた紅茶は、軽やかで甘い香りが落ち着く。一口飲み下して、再び考え事にふけりそうになったところで、陽一が口を開いた。
「珊瑚君、中々進展がなくて……不安にさせてごめんね」
「いいえ。診療所のお仕事はもちろん大切ですし、私も毎日気が紛れて助かってます」
「そう言ってもらえるとホッとするけど」
そう答えた陽一は、以前見つけた弘樹の資料を机の引き出しから取り出して続ける。
「この資料、あの後読み直しながら、前に訪問した患者さんのカルテと見比べてみたんだけどね」
珊瑚は、はっとして顔を上げる。何の進展もないと思っていたが、珊瑚の知らないところで陽一は一人で調べを進めてくれていたようだ。
「何人か、所在が分かりそうな人がいるんだ。診療所が休みの時に、話を聞きに行こうと思うんだけど。どうかな?」
「はい、私も一緒に行ってお邪魔でなければお願いします」
「うん。邪魔になんてならないし、珊瑚君にしか分からない事もあるかも知れないからね」
「はい」
陽一は資料に視線を落とし、パラパラと紙を捲りながら続ける。
「前に街でぶつかった人形師の人、覚えてる?」
「はい。魔石を人形の目に使ってる方ですよね?」
「そう、あの物凄く怒ってた人。あの人が一番近い場所に住んでるから、最初に訪ねてみようと思う」
「わかりました」
珊瑚はあの時流れ込んできた怒りの感情を思い出し、ぶるりと身体を震わせた。
「大丈夫、以前会った時はあんな風じゃなかったから。あれはきっと、人形の事で揉めてたんだと思うよ」
首を傾げた珊瑚に、陽一が続ける。
「あの人は人形の事になると、目の色が変わるみたいだからね」
珊瑚はその言葉にほっと息を吐く。またあの怒気に充てられるのは遠慮願いたい。
「叔父さんの資料によると、あの人は悲しみの感情を失ったみたいだね」
「悲しみですか」
珊瑚は想像する。嫌な事があっても、辛い事があっても、悲しみを感じないというのはいい事なのだろうか。いつか今の幸せな日々を失った時、自分も悲しみを失っていたら少しは楽なんだろうか。そこまで考えてふと雅を思い出す。
(不安もない方がいいと思うけど、柴村先生はそれがない事を恐れていたっけ)
そう考えると、負の感情が無ければいいのにと思うのは早計なのだと気付く。
大体珊瑚に流れてくる感情も、不安一つとっても複雑なのだ。悲しみと不安が入り混じるのか、怒りと不安が入り混じるのか、さらにそれ以外の感情が入り混じるのか。
それぞれの状況によって全て異なるし、人によって感じ方もそれぞれだ。どれか一つが欠けても、人はきっと何かが違うと感じるのだろう。触れて感じた自分に対する負の感情も、今振り返れば人によって異なっていたように思う。
今まではただ負の感情が怖くて、触れる事を恐れるばかりで、そこまで人の感情の複雑さを考える事もなかった。
珊瑚は、帝都に来てから沢山の人に触れる事で、今まで知らなかった感情を知る事になった。関わる事を避けて、注意深く観察して、負の感情が見えたら避けて通る。それが珊瑚の日常だったのに、今は沢山の人に触れている。
自分は他人の心情を推し量る事がある程度得意だと思っていたけれど、実際には見ただけでは分からない複雑な感情もあるのだと知った。
あの時ぶつかった人形師も、もしかしたら悲しみを失っていたから怒りの感情だけが強く表れていたのかも知れない。あの怒りの中に悲しみが混ざっていたのかも知れないと想像すると、ぶつかった時の恐怖が少し薄れる。
「珊瑚君は、あの人形師に会うのは怖い?」
「いいえ」
珊瑚は陽一をまっすぐに見つめて答える。
「もうあの時みたいに怖くはないと思います」
「うん、そうか」
頷いた陽一は、柔らかく笑って続ける。
「もし怖くなっても、僕が付いてるから安心して。僕が一発叩けば珊瑚君の気分もぱっと霧が晴れたみたいになるからね」
「叩くなんて酷いですよっ」
そう言いつつも、一度も叩かれた事はない。
いつか陽一に触れられても、感情が霧散しなくなる日が来ればいいなと思う。その時は、ほかの人と同じように、陽一の感情が珊瑚に流れ込むのだ。そうやって普通に陽一の感情に触れる日が来るのだろうかと考えて、珊瑚は小さく頭を振った。
笑い合っていつもの空気が流れた所に、診療所の扉が開く音と共にカラコロとベルが鳴る。
「珊瑚――、若先生――!」
元気よく響く声は、一馬だ。一馬は休診日の昼間に来る事が多い。朝夕は荷物運びの仕事が忙しいが、昼間は比較的暇なので、春馬の薬を取りに来るのだ。それ以外にも訪問はあるのだが、陽一曰く珊瑚が診療所に来て以来回数が増えたという。
「いち君、こんにちはっ」
「一馬、薬ならまだあるだろ」
「よう、珊瑚。若先生、薬ならあるけど……。ちょっと時間があるから、また変な発明品を見に来てやったんだよ」
「変なは余計だっ!」
そう言いながら陽一は一馬の頭をぐりぐりと撫でまわす。二人の気安さは少し羨ましいが、珊瑚が同じように一馬の頭をなでる訳にもいかないので、いつもその様子を眺めるだけだ。
撫でまわされバランスを崩した一馬は、転びそうになって必死に踏ん張る。そのはずみで、ポケットから少し顔を覗かせていた袋が落ち、珊瑚の足元まで滑ってきた。なんとも可愛らしいデザインだ。珊瑚は慌てて落とし物を拾い一馬に渡そうとする。しかし一馬は、袋を凝視して固まった。
「いち君、落とし物ですよ?」
珊瑚の言葉に沈黙していた一馬は、みるみるうちに顔を赤くする。
「わ、悪い。別に大したもんじゃないから。何でもないからっ」
不自然な様子に首を傾げた珊瑚に、一馬は気まずそうな顔をする。
「一馬、拾ってもらってその態度はないぞ」
陽一に窘められて、一馬はますます気まずそうだ。
「ご、ごめん、珊瑚。拾ってくれてありがとな」
そう返す一馬はやはりどこか不自然だ。さっきまでの陽一とのやり取りを思い出し、珊瑚は少し寂しくなる。
「どういたしまして。余計なことをしてしまったみたいで……ごめんなさい」
その言葉に目を見開いた一馬が慌てて言葉を返す。
「ち、違うよ、珊瑚は何も悪くないよ。ただ……」
そのまま一馬は口ごもってしまった。やっぱり自分は陽一のように、一馬との距離を縮める事は出来ないのだと落ち込んできた。
「あの、いち君。言いにくい事なら言わなくても大丈夫ですよ」
その言葉に一馬は何とも言えない顔で黙ってしまう。それを見た珊瑚は、ポロリと本音を漏らした。
「私、勝手にいち君の事を弟みたいに思っていたので、少し寂しいです」
そう言って袋を一馬に差し出すと、顔色を失った一馬が「弟……」と小さく呟き袋を受け取った。
その時触れた指先から流れてきたのは、なんだか胸がザワザワして、ズキズキして、その場に居るのが辛いような感情だった。
(ああ、私、いち君に嫌われてたのかな。いつも楽しそうにしてくれてたけど、こんなに壁があるなんて。本当はいつも無理してた?)
二人を見守っていた陽一は、顔を片手で覆ってため息をついた。
「一馬、その紙袋は何だったんだ?」
一馬は黙って俯く。
「誰か……女の子からプレゼントでも貰ったんじゃない?」
一馬は陽一の方をちらりと見て、小さく頷いた。
「珊瑚君、一馬は恥ずかしくて珊瑚君に言えなかっただけだよ。珊瑚君の事を、親しくないから言えないって思った訳じゃないから。分かってやって」
珊瑚がさっき感じた感情は、恥ずかしさとは違うと思い、曖昧に頷いた。
「じゃ、俺そろそろ帰るよ」
一馬は来た時とは真逆の弱々しい声でそう言った。
苦い顔で珊瑚から目を逸らした一馬は、出口に向かって力なく歩き出す。
「今日はごめん。また来るよ」
視線の合わない一馬に、やはり嫌われてしまったのだろうと思うと珊瑚は気分が沈んだ。何か声を掛けようと思うのだが、何と言っていいのか分からず、珊瑚は黙って一馬の背中を見つめた。
「じゃあな」と元気なく扉をくぐる一馬に「いち君」と声を掛けるが、一馬は振り返ることなく帰って行く。陽一は軽く肩を竦めて、頭を掻いた。
「珊瑚君がそこまで落ち込むほど深刻な事態じゃないから、気にしなくて大丈夫だよ」
「そうでしょうか? 私のせいでいち君が薬を取りに来づらくなったら……」
「大丈夫だって、あれは多くの人が一度は通る道だから」
珊瑚は首を傾げて陽一を見上げる。
「大体、一馬の方から呼び方を変えさせたり、敬語じゃなくていいとか言ってきたでしょう?」
珊瑚は出会った頃からの事を思い起こして頷いた。
「そうですね。でも、それで私が調子に乗って、馴れ馴れしくしすぎたのかも知れません」
「うーん、僕から見て馴れ馴れしいのは、むしろ一馬のほうだったけど」
「そうでしょうか。私はいまいち人との距離感が分からないので、いち君にとってどの距離が正解だったのか分からなくて……」
「人との距離感なんて、僕も未だに難しいって思うよ。それに、一馬だって何が正解かなんて意識しないで、どんどん珊瑚君と距離縮めようとしてたように僕には見えたけど」
考えてみても、やはりよく分からない。今まで出会った人達が初めて珊瑚の関わる他人だから、圧倒的に経験が少ない。
「珊瑚君が他人を怖いって思ってるのわかってて、一馬は関わってきてたでしょう?」
「確かに、そう……ですね」
「珊瑚君は触れて一馬から何か感じ取ったの?」
「はい」
「どんな風だった?」
さっきの感じを思い出し、珊瑚は顔を顰めた。
「なんだか、胸がざわざわして、ズキズキして、その場に居たくないような気持ちでした」
「それって、相手が嫌いなのとはちょっと違うんじゃない?」
珊瑚は首を捻って考えるが、よく分からない。
「今まで感じた事の無い複雑な感情でしたし、向けられたこともないものだったので、正直よく分からなくて……」
「まあ、今まで感じたこともない他人の気持ちなんて、猶更難しいよね」
珊瑚は肩を落として落ち込んだ。やはり陽一には一馬の気持ちが理解出来るようだ。確かに陽一と一馬の方が付き合いは長いが、自分も大分打ち解けたと思っていたのに。人付き合い初心者から下級者くらいにはなれたつもりでいたが、やはりまだまだだ。
「次に会ったとき、どんな風に接したらいいのかわからなくて少し怖いです」
「一馬もちょっとぎこちないかも知れないけど、今まで通りにしたらいいよ」
「そうでしょうか。なんだか今までどうしていたかも、分からなくなりそうです……」
肩を落とした珊瑚が言葉を漏らすと、陽一は唸り声を上げて考え込む。
その時、突然ベルがカラコロと鳴り響き、扉が勢いよく開いた。陽一と珊瑚が驚いて振り返ると、息を切らせて真っ赤な顔をした一馬が立っていた。
「若先生っ。春馬の薬、忘れた!」
さっき来たときは、まだあると言っていたはずだ。そう思い返して珊瑚は首を傾げる。
その様子に思わず噴き出した陽一は、一馬の頭を二度軽く叩いて、「ちょっと待ってろ」と奥へ歩いていった。
次に会ったらどうしようかと悩んでいた珊瑚は、それすら忘れて驚いた顔で一馬を呆然と見つめる。
「珊瑚っ、さっきはごめん。俺、自分だけショック受けたみたいにして帰っちゃったけど、珊瑚が寂しかったって言ってたの思い出して」
「それで……わざわざ戻ってきてくれたんですか?」
「まあな。若先生とは昔からの知り合いだから、俺は兄貴がいたらこんなかなってちょっと思ってて。でも、珊瑚は……」
言葉を詰まらせる一馬を見つめて、珊瑚は続きを静かに待つ。
「俺は珊瑚を姉ちゃんとは思ってない。けど、もっと仲良くなりたいと思ってんだ。だから、なんか気まずいまま別れて、次から今までみたいに話せなくなったら嫌だと思ってさ」
少し間を置いて、一馬はしっかり珊瑚と目を合わせて続ける。
「だから、仲直り? のしるしに、握手しようぜ!」
そう言って照れくさそうに笑いながら一馬が手を伸ばした。珊瑚は少しだけ怖いと思うが、わざわざ戻ってきた一馬が、負の感情を向けてくる訳が無いと勇気を振り絞って手を伸ばす。
「いち君、戻ってきてくれて、ありがとうございます」
そっと触れた一馬の手からは、胸の奥がじんわりと温かく、緊張とは少し違うどきどきが伝わってきた。胸がざわついて落ち着かないのに、なぜか心地いいそれは、やはり初めて感じる不思議な気持ちだった。
その後戻ってきた陽一が手にした袋の中身は、昨日珊瑚と買い出しに行った時に買ってきたお菓子がほとんどだった。一馬の言い訳に付き合ったはいいが、本当に薬を渡す訳にもいかないからだ。
少しあきれ顔の陽一は一馬に袋を差し出しながら、「お前にもよく効く薬を入れといたから、春馬君と分けてな」と声を掛けた。その言葉に一馬は照れたように袋を奪い取り、珊瑚はその様子に声を立てて笑った。小さな声で、「ありがと」と呟いてから、一馬は元気よく帰っていった。




